2食目 白と酒の誘惑と
「……進まねぇ」
照明を落とし、ディスプレイから発せられる光のみで照らされる自室。
暗いその部屋の中で、椅子に腰かけたままグッと伸びをする俺は、何度目かとなる言葉を呟いた。
スポーツの秋、芸術の秋、そして読書の秋などと呼ばれるこの季節。
たぶん分類としては読書の系統に入るであろう、自身の趣味を前にしながら、俺はなかなかキーボードを叩く速度を上げられずにいた。
ただその原因はわかっている。苦心の末に書き投稿した直後、猛烈な勢いでブックマークが減る光景を目撃したからだ。
「いかん、モチベが……」
当然のことではあるが、こういった事態は誰にだって起こりうる。
それはどんな人気作者であろうと、可能性としては避けられない。
ただ俺のような零細であれば、一つの減少がより大きなダメージとなって圧し掛かるのであった。
まあ、そのくらい覚悟の上で書いているのだけれど。
「気分転換になんか食うか。腹が減った」
とはいえ延々ここで座っていても、たぶん一文字すら書けずに終わる。
そこで俺は大きく息を吐くと同時に立ち上がり、自室を出て台所へ向かう事にした。
秋の夜長とはよく言ったもので、朝食までにはまだ長い時間が横たわっており、一度感じた空腹感を誤魔化し続けるのは難しそう。
アッサリ眠ってしまうという手もあるが、自身に課したノルマがまだ消化できていない。
しかし秋と言えば食欲の秋という言葉もあるくらいだし、いっそそちらを志向してみるのも悪くは無さそう。
そんな言い訳を自身に与え、いそいそと台所の敷居を跨ぐのだった。
「さて、何がいいかねぇ。少し腹に溜まる物がいいが」
踏み込んだ真っ暗な台所。シンク上にある小さな照明だけを灯して、俺はぐるりと周囲を見回した。
カップラーメンでも食べるというのが、非常にお手頃だとは思う。
けれど気分転換も兼ねてであれば、もう少し良い物が食べたいところ。
かといって今は深夜、何個も鍋を取り出し、凝った品を作っていては家族を起してしまいかねない。
ならいったい何に手を着けたものかと、首を傾げ悩む。
するとこの日もまた台所へと、暢気さの混じった声が響いてくるのだった。
「兄貴、また夜食?」
またかと思い振り返ってみれば、そこに居たのは寝間着姿な自身の妹。
若干呆れ顔で俺を見るその物体は、台所へ入って来るなり菓子の入った棚を漁り、中からポテトチップスを取り出す。
どうやらコイツは今日も夜更かしをしているらしく、小腹が空いたためそれを満たす物を求めやって来たようだ。俺と同じように。
「もうちょっと起きてなきゃいけないんだよ。夜食だって眠気覚ましを兼ねてだ」
「ふーん……。今日は何を作るの? またナス?」
「そう毎度同じ物ばっかじゃ飽きるだろうが。出来れば何か野菜で、腹へ溜まるもんでも作ろうかと」
菓子を片手に、今度は冷蔵庫を漁り始めた我が妹。
冷蔵庫の中へ頭を突っ込み、酒だかジュースだかを物色しながら問うその言葉に、俺は再び台所を見渡しながら返した。
小説を書いていると教えるのは、少々気恥ずかしいため誤魔化したが、こいつはどうやらそこまで気にはしていないようだ。
とは言うものの、そういった自身の欲求に応えられる物があるのかどうか。
可能なら野菜、それも腹もちのする物が良い。となると芋の類などが無難かもしれない。
そう考えた俺は、常温保存している根菜類が入ったカゴの中を物色する。
ニンジン、ゴボウ、玉ねぎなどなどが手に当たる中、ふと指先へ引っかかったそいつを取り出す。
「里芋か。うん、丁度今が旬だしな」
手にしたのは、つい先日母親が買ってきた、6つほどがパック詰めされた里芋
安売りされていたからという理由で買われたそれだけれど、母親がなんとなく気乗りしないためか、速攻で忘れ去られていた代物だ。
炭水化物であるのに変わりはないため、深夜食べるには少々気が引ける。
けれど大ぶりで見るからに密の高そうなそいつは、旬の盛りということもあって、手にした瞬間からこちらの食欲を刺激するものだった。
こうなればもう迷う必要はない。
掴んだパック入り里芋の半分、3つをシンクへ放り込み、流水で泥などを落としていく。
しかし洗った里芋を、取り出した薄手のビニール袋へ放り込んだところで、背後からガタリと音が。
そろりと振り返ってみると、そこには椅子へ腰かけた妹の姿。
ただ何故かその手やテーブルの上には、さっきまで持っていた菓子や、取り出そうとしていた飲み物が見当たらない。
「なぜ座る、妹よ」
「愚問だな、兄よ。最愛の妹を無視して、一人だけで食べるつもり?」
ジトリと、腰を降ろした妹は里芋と俺の顔を交互に眺める。
見るからに美味そうな里芋。これを一人だけで食うのは許さない、自分の分も用意しろという明確な意思表示だ。
「最愛かどうかは置いておくとして。まさかとは思うが、この俺が俺自身のためだけに丹精込めて作る夜食を、今日もまた横取りしようと言うのか」
「優しい優しいお兄様。カワイイ妹が菓子を食べる横で、そんな物を一人頬張るなんてウザい真似はしないと信じてる」
「自分で作ればいいと思うんだが」
「一人分作るのも、二人分作るのも同じ。母さんが常日頃よく言っている言葉よ」
取り出した里芋に食欲を刺激されたか、断固として席を離れるつもりはないようだ。
そして自分が台所へ立つのは御免だとばかりに呟く妹。
思い出してみればこいつ、料理の類があまり得意な方ではなかったか。
それに目の前で料理された物があるのに、自分は侘しく菓子を摘まむのは嫌らしい。
気持ちだけはわかる。腹の減った状態でそんなことをされれば、きっと俺もそう思うはずだ。
仕方なしに俺は手にした里芋入りのビニール袋を置くと、また根菜の納められたカゴへと向かう。
残り半分の里芋が入ったパックを取り出し、さっきと同じくシンクへ放り込み、流水で洗いながら嘆息混じりに呟いた。
「最後の洗い物は任せるぞ」
「流石は兄貴、愛してるぜ」
「うっさい、キモチワルイ言葉を吐くな」
どうやらこの駄妹、食べられると知るなり一気に機嫌を良くしたようだ。
嫌なリップサービスを吐き出しつつ、上機嫌で卓上に置かれたポットから、保温されたお茶を湯呑へ移し飲み始めていた。
けれど確かに二人分を作るとしても、それほど手間がかかるわけではない。
ここで無駄に抵抗して疲れるよりはマシかと思いながら、俺は同じように里芋を洗い、皮を向かぬままなそれをビニール袋へ放り込む。
作るのは里芋の蒸し焼き。本来ならこのままオーブンへ放り込むなり、弱火でじっくり焼いていくのが美味いのかもしれない。
けれど今は深夜、使う調理機器は少ない方が良いし、手間だってかけたくはない。
そこで袋ごと電子レンジへ放り込むと、根菜調理のモードで起動した。
「レンジで温めるだけ?」
「時季の物だし、それでも十分美味いと思うけどな。だがもうちょっとだけ手を加える」
テーブルの上に突っ伏し、ダルそうに呟き問う妹。
今の季節に出回っているヤツなら、きっとそれだけでも問題なく食べられる味になってくれているはず。
けれどそれでは少々味気ないし、おそらくこの駄妹は悪態つくに違いない。
そこで俺はホイルを取り出し大きく切ると、ニンニクを二欠けほどまな板の上で皮ごと潰し、ホイルの上へ乗せる。
だが妹はニンニクを使おうとする俺の姿を見てか、立ち上がって近づき手元を覗きこんできた。
「ちょっと、勘弁してよ。私明日も仕事あるんだから」
「香り付け程度だって。直接食わなきゃ、そこまで臭ったりしないっての」
不満たらたら、こちらが包丁を持っていないのをいいことに、脇腹を小突いてくる駄妹。
冗談交じりではあると思うが、若干痛いそれをなんとか無視しながら待ち、レンジが鳴る直前に止めて取り出す。
ビニールの中で大量の湯気を吐く、火傷するような熱さを纏うそれを、ニンニクを乗せたホイルの上へ。
そして若干多めにも思える塩と少量のごま油を振り、上からもう一枚ホイルを被せて端を折り畳み、今度はトースターへと突っ込んだ。
トースターに放り込んでしばし、オレンジ色の熱線に焼かれたそいつを取り出す。
皿の上にホイルごと取り出し、テーブルの上へ運んで開くと、里芋とニンニクの香りが台所へ立ち込めた。
「おお。良い香りが」
「いいからさっさと食え。そんで寝ろ」
開かれたホイルの内側から昇る香りを、妹はグッと近寄り堪能する。
けれどもう夜も遅い。早く食べて眠らなければ、明日が休日な自分はともかく、妹はキツかろうに。
立ち上がって皿に顔を向ける妹を無理やり座らせると、小皿を2枚取り出しそれぞれの前へ置く。
その小皿へ移した里芋に箸を刺し皮へ切れ目を入れると、白い身が露わとなり、さらに濃厚な湯気が昇っていく。
スルリと剥ける皮を外し、白いそれを一口頬張る。
すると最初に感じるのは、皮へ振った塩と合わさり、どこか甘さすら感じる濃密な味。
旨味をこれでもかと詰め込んだ、ネットリとしながらもホクホクした食感が、喉へ胃へと熱さを運んでいく。
飲み下した後、微かに鼻へ抜けるニンニクの香りも心地良い。
見れば目の前へ座る駄妹もまた、美味そうに身を震わせ目元を蕩けさせていた。
小生意気なヤツではある。だがこうも見るからに喜んで食ってくれるのなら、案外作った甲斐もあるというもんだ。
「でもこれは何だな。やっぱりアレが欲しくなる」
「……アレ? ってまさか」
飲み干した里芋の余韻もそこそこに、俺は椅子から立ち上がる。
そして冷蔵庫へと移動し中身を物色し始めたところで、背後の妹は俺が何をしようとしているかを察したらしい。
「ここはやっぱ、日本酒だろ」
取り出したのは、冷蔵庫へ放り込んでいた日本酒。
一時期は品薄で高値が付いていたが、ここ最近は値も落着き俺のような庶民にも手に入るようになってきた代物だ。
冷蔵庫からそいつを取り出し、ガラス製の猪口一つを持ってテーブルへ。
小さな猪口へ澄みきった液体をゆっくりそそぐのだが、ふと前を見てみるとそこには、テーブルへ頬杖突き真っ直ぐに酒を凝視する妹の姿が。
「私、明日も仕事なんだよね」
「忙しいってのは良いことだ。日々の糧を得るため、健闘を祈るぞ妹よ」
「そんな私の前で、見るからに美味そうなソレを呑むつもりなの?」
「呑めぬとわかっているからこそ、目の前にある酒が恋しい気持ち、俺には痛いほど理解できる。だが生憎と俺は明日休みだ、遠慮なくいかせて貰おう」
「くっそ、この外道め……」
悪態つく妹の前で、俺は悠々と猪口を傾ける。
熟成した果実を思わせるフルーティーな香りが鼻孔をくすぐり、直後に熱く熱せられる喉元。
なのにスッと胃の腑に収まっていく酒の余韻が残る内に、俺は再び目の前に置かれた里芋を口へ放り込んだ。
これが至福というものか。
双方の味が混ざり合い、引き立て合い、噛む度に思考は白濁していく。
口惜しそうに睨みつける妹の表情という肴もあって、実に愉快爽快。
俺はそんな悦楽を2度3度と繰り返すのだが、遂には妹も我慢の限界を迎えたか、顔に無理やり作った笑顔を張りつかせにじり寄ってきた。
「ねぇお兄様、一口だけ、ほんの一口だけ」
「明日は大事な仕事が待っているんだろう。起きる時間まであと6時間かそこらだぞ」
「私がお酒強いの知ってるでしょ。お願い、一合だけでいいから」
「……量が増えてやがる」
素朴な和の肴に、美味い酒。そのような物を前にし、いい加減我慢ならなくなったか。
ただ確かにこの妹、かなり酒には強い性質であるらしく、一合飲んだくらいなら間違いなく朝は平然と起きてくる。
それに通勤は交通機関利用、警察の厄介になるということはない。
優越感に浸るのも悪くはないが、それをずっと続けるのも嫌味が過ぎるか。
そう思った俺は、自身の持っていた猪口に酒を注ぐと、無言で妹の前に置いた。
すると迷うことなく置かれた猪口を手にし、グッと一息で流し込む。
しばし口の中で酒の味を堪能し、瞼を閉じたままで飲み干すと、言葉すら発さず静かに猪口を差し出してきた。
そうか、おかわりを要求するか。
「後でちゃんと水を飲んでから寝ろよ」
「ういっすー」
里芋に箸をつけ、味の余韻が残る内に注がれた酒を再度口に運ぶ妹。
作った肴と酒を美味そうに堪能する妹に苦笑しつつ、俺はもう一度だけ、空になった猪口へ酒を注いでやる。
そして美味そうに酒を飲み進めていく妹の姿を眺めたところで、一つ忘れていることを思い出すのだった。
結局、今日もまたほとんどと言っていいほど書けていないなと。