14食目 肉と肉と山椒と
強い倦怠感と、若干の心地よさ。
俺は身体を襲う疲労感に足を引きずられながら、ゆっくり玄関の扉を開いた。
時刻は既に夜の23時。
人によっては眠りにつき始める頃で、普段の帰宅時間を考えれば今日はかなり遅い。
ただこんな時間に帰宅しているのは、なにも仕事が長引いたためではなかった。
どころかこの日は休日。であるのにこうも疲労し帰宅しているのは、出先で"とある行為"に耽っていたからだ。
「兄貴……、なんでそんな疲れてんのよ」
そんな俺が玄関を開けるなり、気怠気な声が響く。
下駄箱に手を着いて視線を上げてみると、そこに居たのはスウェット姿の妹。
トレイから出たばかりであろうヤツは、丁度帰宅した俺と鉢合わせたようだった。
その妹は俺の疲労困憊な姿を見るなり、怪訝そうな視線を向けてくる。
俺が今日は休みであるのを知っているため、余計にこの疲労が不審に思えたらしい。
「ジム帰りだよ。買い物を済まして飯食って、そこからみっちり2時間」
「ホントよくやるわ……。私には理解できない世界」
「お前もやってみればいいだろ。案外ハマる人間はハマるぞ」
問う妹に対し、俺は肩を竦め僅かばかりの誘いを口にしてみる。
俺にとって数少ない趣味の一つであるこれだが、自身でも最初は乗り気にならなかったものだ。
ただやってみると案外悪くなく、最近では風呂上りごとに鏡の前に立ってしまうほどになった。
……妹にとっては、そいつがキモチワルイそうなのだが。
ただ今のように毎度疲労して帰るため、創作活動へ励むのには悪影響と言えなくもない。
しかし延々PCの前に座っていてもアイデアは浮かばないし、こうして身体を動かしていると、案外不意に良い展開が思い付いたりもする。
なので俺にとってこの筋トレというのは、ネタに詰まった時の気分転換として皿洗いと双璧を成すものだった。
もっとも基本的に皿洗いなどは面倒臭いため、夜食時は妹に任せてしまうのだが。
「遠慮しとく。私はインドア趣味だもの」
「俺もインドア趣味だよ。筋トレは屋内でやってるからな」
「なら汗をかくのがお断り。空調の効いた部屋で、のんびりゲームしてマンガ読むのが最高至高」
とはいえ妹の運動嫌いは筋金入りか。
ヤツはこれ以上押し付けられては叶わぬとばかりに、速攻で自身の部屋へ戻っていく。
俺はそんな妹の姿が見えなくなったところで、小さく肩を竦める。
珍しく夜食の催促をしてこないのが意外だったが、たまにはそういう気分の時もあるのかもしれない。
ならその気まぐれに便乗し、こっちはもう一つの趣味に勤しむとしよう。
俺は自身の部屋へ戻る前に、風呂へと直行する。
ジムでシャワーを浴びはしたが、やはり湯船に入るというのは落ち着くものだ。
そして風呂から上がると、自室にこもってPCの前で気合を入れ、そこから1時間ほど集中して捜索に取り組むのだった。
しかし書いているうちに徐々にではあるが、やたら空腹感を覚えていくのに気付く。
夕食は外でうどんを食べて帰った。それも大盛りで、天ぷらだって2つ。
だが高強度の運動をした影響か、夕食のうどんだけでは到底物足りない。
この感覚はなんというか……、やたら肉が食いたい。
「あにきー、そろそろ腹減ったんじゃない?」
そんな欲求が口をつきそうになったのだが、その前に聞こえてきたのは妹の声。
いつの間にか扉を開け部屋の中を覗き込んでいたヤツは、ニヤニヤと嫌な笑顔で確認をしてきた。
どうやらさっきは夜食を欲していなかったのではなく、俺が作るタイミングに便乗しようというだけだったらしい。
「お前は何でそう……。まあいい、その通りだよちょっと腹が減って来たところだ」
「そいつはなにより。で、今日のメニューは?」
「……まだ決まってないが、とりあえず肉だな」
俺は小さく溜息をつきながら、妹の問いに欲求通りの食材を挙げる。
たぶんこれはアレに違いない。筋トレ後であるというのもあって、無意識にたんぱく質を欲しているのだ。
大盛りのうどんや、野菜の天ぷらでは満たされないその欲求。
一応ジムでプロテインは飲んだが、肉という明確に血肉へ換えられていく食材を、食事という形で摂取したい。
そういった欲求が抑えられないようだった。
妹にそんな話をしてみると、イマイチ理解ができないといった表情をしながらも、夜食作りそのものは歓迎のようだった。
「じゃあ欲求に身を任せちゃいなよ。物書きの方は、後で手伝ってあげるからさ」
「本当だろうな?」
「約束してあげよう。優しい優しいこの私は、夜食に対する報酬を支払う律義さを持っているもの」
「自分で言われるとそこはかとなくムカつくな。別にいいけど」
妹のおしつけがましい言葉を聞きながら、俺は創作を一時中断、台所へと向かうことに。
歩きながら何を作るか思案し、備蓄してある食材を思い出す。
冷蔵庫をあされば牛、豚、鶏と一通りの肉はある。
安い時に買い貯めをし、小分けにして冷凍してあるためそこは問題が無い。
ならばいったいどの肉を使うかだが、やはりここは高たんぱく低脂肪の大定番たる鶏肉。それも胸肉が無難だろうか。
そうと決まれば迷うことはなく、冷凍庫から鶏の胸肉を取り出す。
袋に入ったままレンジへ放り込んで解凍する間に、他の材料を探すべく野菜室などをあさっていく。
肉だけでは少々寂しい。一応野菜も摂りたいところだし、そろそろ使っておきたいと思っていたパプリカを手にした。
「兄貴、お肉溶けたよー」
「なら出してくれ。こっちで切るから」
「私、あんまり生肉触りたくない人なんだけど……」
「慣れろ。ていうかそのくらい手伝わないと食わせん」
野菜や使う調味料などを準備していると、レンジが音を鳴らし解凍を知らせる。
妹はそれを開いて中を指さすのだが、自らはなかなか触れようとはしなかった。
生肉を触れない人というのは案外いるそうで、うちの場合は母親もそうなのだが、どうやら妹もその血を引いているようだ。
とはいえこのくらいやらせても罰は当たらない。俺は嫌がる妹に、脅迫気味な指示を飛ばす。
すると渋々ながら取り出し、まな板の上へ摘まむようにして肉を置くのだった。
俺はその肉を削ぎ切りにして、熱し薄く油を敷いたスキレットの上に。
一緒にパプリカも入れて肉の表面が白くなる程度に焼くと、上に塩を振りほんの少しだけ料理用の紹興酒を振る。
最後に白胡麻を多めに乗せて、小袋に入った香辛料を一つまみ振ってからトースターへ放り込んだ。
「最後なにをかけたの?」
「花山椒だ。たまには辛いのも悪くないかと思ってな」
あまり見覚えのない物を使っていたためか、妹はトースターの中を覗きこみ問うてきた。
夜の遅い時間に辛い物をというのは少々抵抗があるが、それでも毎度毎度似たような味付けというのも芸がない。
汗をかいたら、またシャワーでも浴びればいいことだし。
しばし焼かれていく肉とパプリカ。
それをほど良い所で取り出し、鍋敷きを置いたテーブルの上へ乗せる。
妹はその間に酒を用意しており、両方が揃ったところで、共に手を合わせた。
「さあ食うぞ。いざタンパク質」
「兄貴、なんか今日テンションおかしいよね」
早速料理へ手を伸ばそうとするのだが、そんな俺に向ける妹の視線は若干生ぬるい。
筋トレをし限界まで追い込んだことによって、少々精神的に昂ぶっているのか、妹が言うところのテンションが上がっているようだ。
妹の視線を誤魔化すように軽く咳払いをし、気を取り直し小皿を手に早速鶏肉とパプリカへ箸を伸ばす。
その鶏肉を口に放り込み、むっちりした強い弾力のそれに歯を立てる。
噛むことでジュワリと漏れ出る肉の風味。それに潰されたことで立つ胡麻の香りと、舌先を刺激する花山椒の風味がジワリと追ってくる。
パプリカは熱されたことによって、蕩けるような食感へと変わり、より甘みが強く引き出されていた。
「この辛み……、と言っていいのかな。花山椒の刺激がいいね、結構好きかも」
「案の定かなり中華ぽい風味に仕上がってるな。ネギあたりを入れたらもっと美味かったかもしれない」
一口食べるなり、花山椒の辛みによって目を見開く妹。
ただこの味付けそのものは好きらしく、なかなかの好感触と思える感想を口にしていた。
麻婆豆腐くらいにしか使わない香辛料だが、たまにはこういった使い方も悪くない。
それにトースターへ放り込む前に振りかけた、少量の紹興酒が効いているように思える。
舌先を痺れさせる刺激も相まって、夜も遅いというのに目が覚めてしまうのは難点かもしれないが。
強い刺激と香りに支配される口の中へと、追って麦焼酎のロックを流し込む。
すると軽い風味と強いアルコール感が、自己主張し留まる風味をスッキリ洗い流していく。
ビールもなかなか合うとは思うが、今日はこの酒で正解だったかもしれない。
「で、肉の欲求は満足できた?」
「満足も満足、今俺の筋肉は非常に喜んでいるぞ。きっと苛め抜いた分を裏切らないでくれる」
「…………ああ、そう。そいつは良かったわね」
冗談めかして妹の問いに返す。
ただヤツは見るからに、顔へ"ウザイ"と書いてあるかのごとく、小さく身体を仰け反らせるのだった。
とはいえ実際のところ、十分に感じる肉の弾力もあって、さっきまで強く覚えていた欲求が消化されていく実感が得られていた。
妹もそれなりに満足しているようだし、俺も目的としているたんぱく質の摂取は出来た上に、合わせた酒が美味いとなれば文句のあろうはずがない。
主に最後の部分が重要ではあるのだろうけれど。
「さて……。食い終わったところだし、そろそろ約束を果たしてもらおうかね」
スキレットの中身が空となり、互いに心地よく腹も満たされた頃。
ほんの少しの酩酊感を覚えながら立ち上がる俺は、まったり椅子の上でダレている妹へそう告げた。
ヤツはこれが、例によって夜食後の皿洗いの事であると思ったか、やれやれと立ち上がり冷めたスキレットを掴む。
ただ俺が意図したのはそちらではない。さっき夜食の催促をしてきた時にした、とある口約束だ。
「……はて、いったい何のことやら」
「すっ呆けてんのか、それともマジボケなのか判別し辛いところだな。物書きの事だよ、さっき手伝うって自分で言ったろうが」
「ああ、そういえばそんな約束も」
妹はどうも完全に忘れていたらしく、言われてみればとばかりに手を打つ。
ただようやく約束を思い出すも、酒と料理が胃に収まったことでかなり面倒になってしまったようで、視線が若干泳いでいた。
これは間違いなく、どう逃げ出そうか考えている反応だ。
「ったく、仕方のないヤツだな。……もう遅いし、明日以降にしてやるか」
「ゴメンゴメン。私は明日が休みだしさ、ちゃんと目を通しておくから許して」
媚を売るように小首を傾げ、指先だけで掌を合わせ軽い謝罪を口にする我が駄妹。
まあ、毎度毎度批評をくれるという点で世話になっているのだ、たまには無しでもいいかもしれない。
俺は「気にするな」と「洗い物だけ頼む」の、二つの言葉を残し台所から出ると、大きな欠伸をしながら部屋へ戻っていく。
そこでこの日は書くのを諦め、早々にベッドへともぐり込んだ。
妹はああ言っていたが、酒もそれなりに呑んでいたことだし、案外明日になったら忘れてしまっているかも。
そんなことを思いながら期待はせずにいたのだが、あの妹は律儀にも、読むという約束だけは果たしてくれたらしい。
その結果、翌日の帰宅後に怒涛の如くダメ出しをされたことで、俺はちょっとばかりの後悔をしてしまうのだった。




