10食目 冬の足音と夏の置き土産
時期的には冬の頭くらいの話で
静まりかえった住宅街の、小さな街灯によってのみ照らされた一角。
俺はそこでコートの襟元をグッと握り、吹き込む風を避けるべく前かがみのまま進んでいた。
進行方向の安全確認という点では非常に心許ないその格好のまま、逃げ込むように玄関の扉を開く。
身体を滑り込ませるなり、急いで扉を閉め鍵をかける。
そうして襲い掛かる風から逃れると、ホッとし深く息を吐くのだった。
「ったく、いきなり寒くなったな……」
玄関で革靴を脱ぎ、身を震わせながら自室へ。
そこでようやくコートを脱いだところで、窓の外に見える寒々しい光景を眺めつつ呟く。
つい最近までこの時季にしては温かく、時折汗ばむような陽気ですらあったというのに。
三寒四温とはよく言ったもので、昨日までの暖かさが嘘のように、この日は急激な寒気に襲われていた。
その寒さを凌ぐには、吊るし売りの安いスーツとバーゲン品の薄手のコートでは足りない。
本格的な衣替えをサボっていたというのもあり、すっかり身体は冷え切ってしまった。
「兄貴、帰ったの?」
「今さっきな。寒すぎてえらい目に遭った」
スーツをハンガーにかけ、温かな部屋着へと着替える。
そうしてベッドの上に転がり、毛布に包まった状態で小休止していると、ノックも無しに妹が部屋を覗き込んできた。
やつは俺よりもかなり早く帰宅していたのか、風呂上りらしき濡れた髪を拭きつつ、遅くに帰宅した俺を出迎えてくれたようだ。
「なんか急に寒くなったよね。数日前まであんなに暖かかったのに」
「いい加減本格的な冬物を出さないとな……。このままじゃ行き帰りだけで凍死しそうになる」
「でも案外、もう一度くらい暖かい日が来るかもよ。三寒四温とはよく言ったもんよね」
……このあたりは流石兄妹といったところなのだろうか。
さっき自身が考えたのと同じ言葉を吐く妹に、親しみだかイラつきだかの妙な感情を覚えてしまう。
とはいえわざわざこいつは、帰宅した俺の労をねぎらってくれているのだ。
無視をしても構わないであろうに、たまに優しさを見せるコイツに、俺は少しだけ感謝したくなっていた。
「お風呂沸いてるよ、冷めない内に入って来たら?」
「そうだな……。先に身体を温めておくか」
芯から冷えた身体を震わせる俺に、妹は風呂へ行くよう勧めてくる。
帰宅するなりすぐ執筆にでも取り掛かりたかったのだが、冷えた身体を温める方が優先かもしれない。
寒い中を歩いて帰る途中、良さ気な展開の案が浮かんだが、そいつは後でだって書けるはず。
それに折角勧めてくれるのだ、大人しく従うというのも悪くないかも。
俺は珍しく優しい妹の対応に、ジワリと心温まるものを感じながら、換えの下着を手に風呂へ向かおうとする。
「そんでお風呂から上がったら、作ったごはんを私にもちょっとだけ頂戴。夕食が早かったから小腹がさ」
だが珍しく見せた妹の優しさは、実のところなかなかに打算混じりなものだったらしい。
満面の笑顔を向けつつ自身の腹をさすり、風呂に向かいかけた俺へと、この夜も夜食作りを要求してくるのだった。
なるほど、帰宅した俺に媚を売っていたのはこのためか。
自分が料理下手であるのに加え、最近はそこそこ満足いく物を食べ慣れたせいで、菓子の類で済まそうという気が無いのだ。
「しかたねぇな。風呂から上がったら、すぐにいい思いをさせてやるから覚悟しとけ」
「やったぜ。兄貴に言われると虫唾が走りそうになる言葉なのが癪だけど」
そんな打算まみれの妹へ、ビシリと指先を向け不敵に告げてやる。
するとこいつは喜びつつもゲンナリとした表情をし、気持ち悪いとばかりに吐き出すのだった。
こっちだってこんな言葉、お前相手に言うのは本来願い下げだ。
ともあれここで丁々発止やり合うつもりはなく、俺は早速風呂場へ向かう。
突然の寒波によって冷え切った身体に、少し熱めの湯が心地良い。
……たぶんあの駄妹が追い炊きをしてくれていたのだろう。
湯から上がると、髪を拭きつつ早速台所へ。
そこでは俺が風呂から上がるのを待つのが暇だったのか、椅子の上で膝を立て爪を磨く妹の姿が。
「やっと出てきた。遅すぎ」
「そんな長い時間入っちゃいないだろうが。……そんなに俺のが待ちきれなかったのか?」
「主語を抜かないでよ、気持ち悪い」
小生意気にも不平を漏らす駄妹へと、あえて意味深な言葉で嫌がらせを行う。
すると寒気がするとばかりに、言葉通りの表情を浮かべやがる妹の頭を軽くはたいてから、俺は台所へ立った。
「つっても俺が食うのは夕飯だからな。夜食には重いかもしれんぞ」
「量減らせば大丈夫っしょ。でも出来ればアッサリしたのがいいかも、それと温かいやつ」
「なんでそう要求に遠慮が無いんだ、お前は。横取りする側だってのに」
やたら遠慮のない駄妹の言葉に、俺は嘆息しながら冷蔵庫を漁る。
とはいえ求められる内容そのものに文句はない。寒い時期は味付けが少々濃くなりがちだし、外の寒さを想えば温かい料理が嬉しいのだから。
となれば小鍋でも作るのが無難だろうかと、野菜室から使いかけの白菜を取り出す。
ただこいつは昨夜やった鍋の余り物なのだが、そう考えると連日鍋というのもまた芸がない気がしてくる。
それに炭水化物の方だが、見てみれば炊飯器の中は空。
今は寝室で眠りの準備に入っている両親は、どうやら遅くに帰宅する息子へと、米を残しておいてやるという選択肢がさらさら無かったらしい。
下手に料理が出来るというのも、ある意味で考え物かもしれない。
「そうだな……、なら煮込みうどんでも作るか」
「あ、いいじゃんそれ。寝る前に温まってからベッドに入ればよく眠れるし」
「食ってすぐ寝ると太るって、あれほど言ってるだろうに」
咄嗟に浮かび口にした案へ、すすがま妹は同意をする。
ただこんな炭水化物の塊、太る要因にしかならない。ヤツは既に夕食も食べているのだ。
と反論するも、当人に気にした様子は見られなかった。いずれ痛い目をみる日が来るはずだというのに。
ともあれ作る物は決まった。面倒だから野菜はこいつだけでいいし、肉は冷凍庫に放り込んである市販の肉団子を使えば事足りる。
そう考え冷凍庫を開くと、所定の一角にいつも常備している、某メーカー製の冷凍うどんを手に取……。
「って、うどん無いのかよ」
「そういえば、冷凍のうどんは今夜使ったんだっけ。メニューはすき焼きで」
「炊飯器が空だったのはそのせいか……。っていうか夕飯でそんなの食って、なお煮込みうどんを食うつもりだったのかよ」
道理で炊飯器の中身が無かったはずだ。そもそも炊いていないのだから。
しかも俺が居ないというのに、コイツは両親と揃って随分と良い思いをしたらしい。
それでもなお食うという駄妹の食欲に呆れながら、俺は何か代用品が無いかと首を捻る。
ただすぐさま俺はあることを思い出し、棚の隅を漁って一つの箱を取り出す。
蓋を開いて中を覗き込めば、そこにあったのは整然と並べられたそうめんの束。
夏場にお中元として大量にもらったものの、すぐ食べ飽きてしまい放置されていた代物だ。
「丁度いい、こいつを使うか」
「そうめん? ……私、温かいそうめんって苦手なんだけど」
箱からそうめんを2輪ほど取り出すと、妹からは不満気な声が響く。
そういやこいつ、昔から冷たいそうめんは好きだったが、その反面温めるとあまり好まないのだったか。
「意外と悪くないもんだぞ。大人になってから食うと、また印象も違うだろ」
実のところ、俺も昔はそうだった。しかし大人になってから食べてみると、案外悪くはないと思えたのだ。
そう告げると、ヤツは観念したのか黙り込む。
横から食事を奪う立場というものを、多少なりと自覚したのか、それとも代案を口にするのを面倒臭がっただけか。
ともあれ俺は作る物を確定させると、鍋に水を張って火にかける。
丁寧に出汁を引いて作れば美味いだろうが、既に深夜に片足を突っ込んでいるような時間。ここはひたすら手抜きで作るとしよう。
湯が沸いたところへ顆粒の出汁に酒とみりん、塩と少量の醤油を入れる。
そこへ冷凍されたままの肉団子と、刻んだ白菜の芯に近い部分を放り込む。
完成する頃には少々白菜の食感が無くなるかもしれないが、それはそれで悪くない。
そうしてほど良く煮えた頃合いで、鍋の中へ残りの白菜と直接そうめんを投入。
茹でるというよりは煮るような感覚で、短い時間ながら火を通していくのだった。
「ホラ、出来たぞ」
「う、うん。じゃあ……、いただきます」
「警戒しすぎだろ。いい歳して」
完成したにゅうめんを器に移し、少しだけ胡麻油をたらしてテーブルへ置く。
俺はどんぶりに、対して妹はみそ汁などを飲むための小さな椀なのだが、この愚妹は苦手としているためか若干及び腰だ。
とはいえ俺の方は食欲に抗い難く、手を合わせるとすぐさま箸を伸ばす。
そうめんが千切れやすいため慎重にすくいあげ、軽く息を吹いて冷ますと、思い切って啜る。
しばし咀嚼して飲み込むと、僅かな小麦の香りと、インスタントながら強い出汁と胡麻油の香りが鼻へ抜けていく。
やはり寒い時期には、こういった物がありがたい。
「どうだ?」
「悪くない……、かも」
恐る恐る口へ運ぶ駄妹へと、俺は簡潔に感想を問う。
するとヤツは一口食べて首を捻るも、続けてもう一口を啜り、出汁を飲んでから納得したように頷いた。
「大人になってから味覚が変わったんだよ。子供の頃にはわからなかった美味さがあるだろ?」
「それって老化現しょ……」
「せめて味覚が成熟したと言え」
どうやらこの妹も、こういった落ち着いた柔らかな味に、親しみを感じたようだ。
今まで散々酒の肴と言える物を、喜んで食っていた大人の舌を持つのだから、今更かもしれないが。
一度平気と知るや否や、コイツは次々とそうめんを口へ運ぶ。
熱された白い息を吐き、温まった身体によって鼻を啜り、また次の一口へと箸が伸びる。
ほんの少しだけ七味を入れれば、舌先に感じる刺激が。柚子胡椒を入れれば、爽やかな風味によって食欲が促されていく。
極端に美味いと舌鼓を打つような味ではない。むしろ日常に沿った、落ち着く旨さ。
それでも煮込まれた白菜や、熱を持って湯気立てる肉団子の滋味が、寒さに強張っていた身体の緊張を解していくようだった。
となると今度はもう一押し、リラックスの一助となる要素が欲しくなる。
「少しだけ飲むか?」
「そうだね、ちょっとだけ貰う」
"何を"などとは言わない。
俺の説明不足な言葉に対し、出汁をゴクリと飲む妹は、迷うことなく同意を返してきた。
立ち上がると棚に向かい、置いてあった瓶を一本。陶製のカップを二つ手に取って、中に少量の氷を入れ戻る。
瓶から注ぐのは、よくCMなどが流されているメーカーの芋焼酎。
汁気の多い食べ物なだけに、多量を呑むビールは何となく違う気がしたため、ここは少しの量をゆっくりと味わうこいつが良さそうだ。
コンと小さな音をさせ乾杯すると、その焼酎を軽く口へ流し入れる。
強いアルコールに芋焼酎の香り、そして氷による冷たさが、温まった身体に沁み渡る。
濃い味の肴にしっかり呑める酒もいいけれど、薄味の食事と少量の酒というのも悪くはないと思えた。
「ごちそうさま」
小さな椀を置き、手を合わせる妹。
なんだか表情や仕草が柔らかく見える。思いのほか口に合ったにゅうめんが、いたく気に入ったのかもしれない。
妹はホッと一息ついてから立ち上がると、空となった食器を持ちシンクへ。
そこで洗剤を手に取り洗い始め、小さく顔だけで振り向き口を開く。
「料理さ、たまにはお母さんたちにも作ってあげたら?」
「機会があればな。別に嫌って話じゃないんだが」
椅子へもたれかかり、食休みをする俺に妹が告げたのは、既に就寝しているであろう両親の話。
ここ最近は帰宅が遅くなりがちなため、あまり一緒に食事すら出来てはいない。
コイツはそういう事を言いたいのだろうが、たぶんそうする機会はそう訪れてはくれないはず。
なにせ母親の方は、親父の飯を作るのは自分だと言って憚らないのだ、俺の出番などありはしなかった。
ただコイツの意図する本題は、もう一つ別にあったらしい。
洗い物をしながらニカリと笑むと、猫なで声でおねだりと口にするのだった。
「あとその機会は、私が家に居る時にしてくれると嬉しいかな~」
「結局それが目的か……」
ここしばらくの夜食作りで、どうやら俺はコイツを餌付けてしまったらしい。
次はどんな物が食べられるのか、それが楽しみであると言わんばかりに、なんとも正直な表情を向けてくる。
俺はそんな妹の反応が嫌ではなく、自然と苦笑を漏らしながら、片づけを任せ自室へと戻っていく。
俺は自室へ入るなり、PCの前に座って大きく伸びをする。
腹も満たされ、少しばかりのコミュニケーションも取って頭も冴えた。あとはモチベーションと体力の許す限り、文章を書き連ねていくだけだ。
ただ問題があるとすれば……。
「考えてた展開、どんなのだっけか……」
帰宅途中に浮かんでいた、良案であったはずの展開。
そいつのほとんどが、ものの見事にふっ飛んでしまっているという事だ。
記憶から抜け落ちてしまったのは、冷え切った身体を風呂で温めた時か、それとも料理をしている時か。
案外妹の反応を見て、気を良くした時かも知れない。
俺は深く息を吐き、なんとか記憶の断片でも掘り起こすべく、一転して険しい表情で呻るのだった。




