1食目 秋の夜長茄子
ちゃんと完結まで書きたいと思います。
カタリ、カタリと。
静まり返った暗い部屋の中、プラスチックの打ち合う軽い音が響き渡る。
0時を少し回って、多くの人が床に就き始めている深夜。俺は自室の机に向かい、延々とキーボードを叩いていた。
仕事を終えて帰宅し、食事と入浴を終え数時間。
両親と妹が自室で眠ろうとしている時間だというのに、自身はベッドへ潜り込もうとせず、PCの画面へ集中し何をしているのか。
別に家へ持ち帰った仕事の消化、などという気怠くなるような理由ではない。
俺がこうして毎夜のように行っているのは、ここ1年ほど続けているとある"趣味"のためだった。
「よし。今回はなかなか出来が良いんじゃないか?」
誰に聞かせるでもなく、満足さを込め小声で呟く。
部屋の中で唯一の光源となっているPCの画面、そこへ表示された文字の羅列を眺め、俺は充足感に浸っていた。
「小説家になってもいいんじゃないか」と呼ばれるサイトに、自作の小説を載せ始めて早1年。
特別人気のある作者とは言えないし、自作が出版社の目に留まるなど夢のまた夢。
けれど日々溜まっていく不満やストレスの捌け口としては悪くなく、俺は徐々に増えていくブックマークなどを眺め、独り悦に浸っていた。
「お、今日は一つブクマが増えてる。……昨日二つも減ったけど」
もちろん書く内容によっては、それらが増えもすれば減ることも。
順調にとは言えない増加速度だけれど、これもまた楽しみの一部であると言えた。
こうして毎夜遅くまで書き続けられるのも、そういった点で一喜一憂する楽しさあってこそ。
とはいえ、集中し書いていれば当然ながら疲労もする。
次第に肩が凝っていくのは否定できないし、椅子が悪い時など腰にも少々問題が発生した。
時々はストレッチや筋トレを挟んだり、椅子を良い物へ変えることでそれらはある程度解消している。
しかし運動や使う道具によってだけでは解決できないある問題が、そこにはどうしても存在していたのだ。
「……腹、減ったな」
目下頭を悩ませるのは、この問題だろうか。
消費する体力と、徐々に減退していく集中力。これらを維持するために必要なカロリーは、夕食で口にした野菜炒めでは足りそうもない。
豚汁も付いていたとはいえ、深夜ともなればとっくに胃は空と化している。
「茶で誤魔化すのも限界だな。何かつまむ物を」
ここまでは部屋に持ち込んだペットボトルの水や茶、ジュースの類で誤魔化しつつ書いていた。
けれど水分は尿意と胃液を呼ぶばかりで、腹は膨らめど満足感には至れない。
せめて何か固形物をという欲求は、易々と自制心を飛び越え、遂には立ち上がり自然と足が台所へ向かってしまう。
家族を起こさぬよう忍び足で台所へ辿り着くと、コソコソと棚や冷蔵庫を漁る。
「炊飯器の中は空か。菓子……、は今切らしてるんだったか」
けれど見つかるのは、その場で食べられぬ物であったり、今の気分に合わぬ物ばかり。
冷蔵庫に見つけたチョコレートも悪くはないが、なんだか甘い物という気分ではない。
どちらかと言えば塩気。それと出来ればちょっとくらい油分も欲しいところだ。
そんな中でふと目に入ったのは、棚に置かれた小さな缶詰。
角の丸い長方形をしたその缶詰は、随分と前に気まぐれで買ったきり、使う事もなく放置された代物。
日本の一般家庭ではあまり使う機会が多くない、カタクチイワシを発酵させた食品だ。
「アンチョビ、か。かなり塩辛かったよな、確か」
俺はそいつを手に取ると、裏側に記載された表記を凝視する。
塩分、それに油脂分。普段口にすることはまずないけれど、今現在求める対象としてはこの上なくピッタリ。
しかしオイルサーディンなどであればともかく、缶のまま炙って中身を摘まむというのも芸がないし、たぶんそれでは味がキツすぎる。
なら何か料理の材料にとは思うも、適当な使い道が思い浮かばない。
「ピザ……、いやパスタか? でも今から麺を茹でるのもな」
日付はとっくに変わっている。こんな深夜に大量の湯を沸かし、パスタを茹でるというのもどうなのだろう。
小さ目なピザであれば丁度良さそうだが、今は冷凍に生地のストックなどないし、代用品となりそうな餃子の皮も無し。当然粉から作るなど論外だ。
ならば他に丁度良い、この塩辛さと油を受け止める土台はないものか。
などと考えつつ、冷蔵庫を上段から開いていく。
そして冷蔵庫の一番下にある野菜室を開いたところで見たソレに、俺の目線は釘付けとなるのだった。
「ナスか。いいじゃないか、これでいこう」
透明な包装に入れられたまま、野菜室に転がっているナス。
袋を破りその中から大ぶりな一本を取り出すと、意気揚々シンクで表面を洗う。
油とナス。文句なく合う組み合わせだ。
それに折りしも季節は秋。秋ナスは嫁に云々という話は今関係ないとしても、今時分のそれが美味いことなど半ば常識。
見たところ一つのサイズもそれなりに大きいし、満足感だって得られるはず。
そう考え、いそいそと洗ったナスをまな板の上へ置いた時だ。唐突に背後から足音が聞こえ、暢気な声が台所へと響いたのは。
「こんな時間に何してんのさ、兄貴」
驚いて振り返ってみれば、そこに立っていたのは小さい頃から飽きる程に見慣れた顔。
不審げにこちらを眺めるそいつは、今年大学を卒業し社会人になったばかりな自身の妹だった。
もうとっくに眠っていると思ったのだが、どうやらまだ起きていたらしい。
「腹が減ったもんでな、ちょっと夜食でも食おうかと」
「カップ麺とか? なら少し頂戴、私も小腹が空いたし」
「こんな時間にそんなもん食うと流石に太るぞ。……あんまり人のこと言えた義理じゃないが」
どうやら妹は眠る前に水分を摂りに来たらしく、コップに冷蔵庫のミネラルウォーターを移し飲み干す。
ただ俺が夜食を食うと知るなり、それだけでは済まなくなったようだ。
夜食の誘惑には抗いがたいのか、チラチラとこちらの手元へ視線を向けてくる。
「食うのはナスだ。寝る前にカップ麺を食うよりは多少マシだろ」
「いいじゃんナス。私好き」
「……それは食わせろって意味か?」
「当たり前でしょ。カワイイ妹と偶然台所で鉢合わせた不幸……、いや幸運を呪うといいわ」
ジトリとした視線を向け、いつの間にか台所に置かれた椅子へ腰かける我が駄妹。
ヤツは自分も食べるのが当然の権利とばかりに、箸と小皿を二人前用意しテーブルへ置いていた。
こいつがカワイイかどうか、そして幸運を呪うという言葉のおかしさは一先ず脇へ置いておくとして、どうやら拒絶を許す気はないらしい。
面倒には思うも、無理に断って不機嫌になられては叶わない。
俺はそう考えまな板へと向き直ると、小さく溜息を漏らしつつ、ナスのヘタ部分を落とし縦半分に切った。
ただその面倒臭さも、切ったナスの断面を見ると幾分か和らぐ。
古くなったナスに見られる点々など見られない、真っ白で新鮮なそれが、肉厚で見るからに瑞々しく美味そうだったからだ。
そいつの断面へ縦横に切り込みを入れると、缶を開け取り出したアンチョビの身を、少しだけ崩しながら乗せてやる。
「缶の油を全部使うと流石にキツイか。なら代わりに……」
缶の中に入った油は、魚の旨味が移ってさぞ美味かろう。
けれどそれを全て使うというのは、深夜という時間を考えれば気が引ける。
そこで代わりとして取りだしたのは、つい先日妹が衝動買いし大事そうに仕舞いこんでいた、エクストラバージンのオリーブオイル(1本200mlで2000円なり)。
「ちょ、それ私の!」
「お前も食うんだろうが。それにこのくらい手間賃代わりに提供しやがれ」
「ぐっ……。でも高いんだから少しだけにしてよ! ほんのちょっとだけ」
「わかったわかった。いいから大人しく座って待て、この夜食強盗が」
駄妹の抗議を捻じ伏せ、新品であるそいつの封を躊躇なく切り、ナスとアンチョビへ軽く垂らしてやる。
多少は健康志向な気がするオリーブオイルのおかげで、油分は問題ない。むしろナスが平然と油を吸い込むのを考えれば、多すぎるくらいだ。
塩気はアンチョビの味だけで十分か。ただ焼いただけでもそれなりに美味いナスなのだから。
「よし、あとは焼くだけ。時間は……、適当でいいか」
次に広げて少しだけ油を塗ったアルミホイルの上へ、ナスとアンチョビを乗せる。
そいつをトースターに放り込み、低めの温度設定でじっくりと焼いていく。
ジワリジワリと炙られ、ナスの吸い込んだ油が弾ける光景をガラス越しに眺める。
冷蔵庫から取り出した冷たい茶を口に含み、その光景を見ていると、胃が軋むような空腹感が強まるのを感じた。
まだか、まだか。小さな焼け焦げの見え始めたアンチョビを眺めながら呟く。
そうして設定したタイマーが鳴る少し前に、俺は急ぎ停止ボタンを押した。
深夜に発せられるこういった音は、意外なほど大きく感じられる。背後の駄妹であればともかく、両親を夜食作りのために起こすのはしのびない。
「よ、よし。もう良いよな?」
ただでさえ空き気味だった胃も、目の前で香り立ち焼かれていくナスの姿に限界。
俺はトースターを開き、熱されたそれをホイルごと皿に移す。
ほかほかと湯気を立てるナスは、そのものの水分と2種の油で艶やかに輝いていた。
はやる気持ちを抑え、テーブルへ移動。
妹が用意した小皿に半分ずつを移し、着席して軽く手を合わせるなり、目の前のナスへ箸を伸ばし頬張る。
「こ、こいつは……」
水分を多く含んだ茄子は、油と共になってトロリとし、滑らかさは糖度すら感じさせる。
さらに少しだけ焼け焦げたアンチョビの強い風味と塩分が、ナスの甘さをグッと引き立てるかのようだ。
頬張ったナスが口の中で熱を持ち、篭るそれをなんとか湯気として逃がす。
火傷しそうなところをなんとか咀嚼し呑み込んだ俺は、目の前に座る妹へと視線を移した。
するとヤツは小さく「いただきます」と呟き、おそるおそる箸に取った茄子をソッと口へ含む。
「熱っ。茄子がとろっとろ、そこにアンチョビの塩辛さがいい」
「やっぱ旬の物は美味いな。適当にやっただけで十分肴になる」
「肴ね。……ねぇ兄貴、一つ提案があるんだけど」
「みなまで言うな。俺も同じ考えだ」
どうやらかなりお気に召したであろう妹は、頬を緩めナスの蕩ける食感と、強い風味を持つアンチョビに舌鼓を打つ。
ただこれを口にしたことで、今度は別の欲求が芽を出したようだ。俺と同じく。
俺は妹の言葉を制止し頷くと、箸を置きソッと椅子から立ち上がる。
向かうは再び冷蔵庫。開いて取り出すは、良く冷やされた伝家の宝刀ビール。
それも自分用に買った発泡酒ではなく、お中元として贈られた500mlのそれなりに良いヤツだ。
小さ目のグラス二つと共に席に戻り、注ぎ方も適当にビールをグラスへ移すと、軽い音をさせ乾杯し一気に煽る。
「あー……。これはヤバいわね、非常に」
「ナスと油の組み合わせは堪んねぇな。そこへ流し込むビールが反則的だ」
熱いナスを口へ放り込み、食感を堪能しながら流し込む冷たいビールの、なんと甘美なことか。
噛みしめる必要もなく味は口中へ広がり、ナスと油の組み合わせからくる甘さとアンチョビの塩辛さ、そしてビールの苦みが脳を蕩けさせる。
発酵した魚の旨味が余韻を長引かせ、もう一口、いやもう二口と無意識にビールを運ばせていく。
「そうだ、こいつも試しにどうだ?」
「それ最高。私のにもかけてよ」
ただそんな中で不意に思い立ち手に取るのは、テーブルに置いてあったコショウのミル。
目を輝かせる妹も賛同するそれをナスの上で回すと、ガリガリと砕かれた黒い粒が舞い降り注ぐ。
フワリとした黒コショウの香りが鼻をくすぐり、辛抱堪らず口に入れたナスは、もう一段階グレードを上げた高級感すら感じさせる。
既に半分を食べ尽くしても、まるで食べる勢いは落ちない。
むしろこの数倍すら平気で食べられそうで、俺と妹は一心不乱にナスとビールを交互に口へ運んでいった。
そうして皿が空になって、最後の一口となるビールを流し込んだところで、ようやく思い出したように息を吐く。
「ああ……、なんかもう、このまま寝てもいいんじゃないか」
本当なら執筆の合間に挟む、小腹満たしであったはず。
そんなことすらすっかり忘れ去り、俺は少しばかり落ち着いた腹と共に、満たされた気持ちでテーブルに突っ伏した。
見れば妹も椅子の背もたれに身体を預け、軽い酩酊感に息を吐いていた。
突然の乱入者であるコイツの満足そうな姿に、俺はつい苦笑を漏らす。
本来食うはずだった半分を横取りされてしまったが、たまにはこうして兄妹で夜中に悪さをするというのも、案外悪くないのかもと。
そんなことを考えていた俺なのだが、胃は満たされ酒によって眠くなっていく思考の中、執筆が碌に進んでいないことを思い出すのだった。
本作における登場人物、組織、集団等は現実世界とは一切関係がなく、すべてフィクションとなっております。
また主人公と作者はイコールではありません。
そして妹の存在もフィクションです。……残念ながらフィクションなんです……。