第二話 トロピカルオレンジ
その日は午後から雨で、俺は傘を持ってきていなかった。だって、気象庁が梅雨明けを発表した翌日なのだ。普通雨雲はもう仕事おさめだと誰もが思う。それなのに台風がやってきたかのようなこの大雨。運動場は水浸しだ。おまけに雷鳴まで聞こえてきた。
俺は、学校から家まで三十分の距離を走って帰る覚悟を決めた。すでに教科書類はタオルで包んで、しっかりと防水加工が施してある。いざ駆け出そ―
「兄やん、傘は?」
のんびりした声が背後から俺を引きとめた。スタートダッシュに失敗した俺の右足は、濡れたタイルの上を滑ったが、左足がとっさに片割れの失態を償った。
そこにいたのは俺の鏡だった。一卵性の双子の妹。俺とそっくりの顔をしているが、女子らしくやや丸っこい輪郭で、やや睫毛が長い。片手でトロピカルオレンジの傘をぶんぶん振り回し、周囲に多大な迷惑を与えている。
「…おまえは何で傘持ってんだよ」
「だって神さまが言ってたもん。午後から雨降らすから、傘持ってけーって」
それを聞いて、女子の一団が通り過ぎざまにくすくす笑った。その手には小さな置き傘が握られている。ちくしょう、準備のいい奴らだ。
それにしても周囲の好奇の視線が痛い。絶対、「何か変なこと言ってるよ」「ちょっと引くわー」とか思ってるに違いない。いや、俺は変人じゃないぞ。俺は妹とは違うんだ!俺は叫んだ。
「この世に神さまはいねえの!」
「はあ?兄やんがそれ言う?」
呆れながら妹は傘を広げ、手招きした。
「いいから一緒に入んなよ」
「…断固拒否る」
「いや、大丈夫。二人入っても濡れないよ。大きいから」
「そういう意味じゃねえ!」
妹と相合傘?やだね。何でこんなところで麗しい兄妹愛を披露せにゃならんのだ。徹底抗戦の構えを取る俺を見て、妹は不敵に笑った。そしてよくわからない指の動きをした。その途端、俺の右腕が勝手に動き、ハワイな傘の柄にビタッと引っ付いた。動かしてもびくともしない。
「おい…何しやがった」
「うん?蛇の神さまに頼んだの。ほら、巻きついてるの見えるでしょ」
俺は恐る恐る自分の腕を見た。まだ何もないように見える。眉間に力を込めると、だんだんと色鮮やかな模様が見えてきた。そいつと目が合い、蛇目がにやっと細められるが早いか、俺の腕がぎゅうと圧迫された。
「いたたた!」
『右手が使い物にならなくなりたいか?』
「…はい!傘に入れてくださいっ!腕が折れるー!!」
そうして俺はおとなしく、妹の親切をありがたく頂戴することと相成った。