出航しては見たけれど(1)……
この世界には太陽も月も星もなく、結界から出る光だけで生活しているので時間の恣意性が地球よりも大きいと忠男は思っている。トゥリェーチィ(始祖)が森人だったことで標準歴が森人基準で制定されているからとにかく1日というものが長い。忠男にとってこっちの1日は10日に相当したし、人や獣人たち、人魚も同じように感じているようだ。だから休日という概念はなく、みんなが同時に寝静まる夜もない。
そのことの是非はともかく忠男にとって問題なのはこちらの世界では天測航法を用いることが出来ないことだった。武装交易を行う際には沿岸を伝っていけば結界から出る光を目印にして移動できるが、外洋に出れば何も目印がなくなってしまう。しかし陸地を探すためには外洋に出ていかなければならないので、何か学院にいい方法が転がってないかとまで考えたところで忠男は自嘲した。
それは先走りすぎだ。そもそもディアブル・グランを狩ることが出来るかも、沿岸を安全に航海することができるかもわからないのに考えることじゃなかった。だから半ヵ年計画でゆっくり確実にやっていこうと思っていたのだが、昨日の勢いで忠男はつい先のことを考えてしまった。まずは武装交易を成功させるところからだ。
村のはずれにあるかつては商品の交易で栄えていたが今では動くこともない船着き場には忠男が小型の船を一隻置かせてもらっていて、最初は物珍しさに見物人が来ていたが次第に元の誰もいない船着き場へと戻っていた。しかし今は往時のように人間が集まって口々に忠男たちの出航を祝って、航海の無事を祈ってくれていた。
武装交易を行うということがトゥリェーチィ(帝国)の上層部に知られた場合には政治的な厄介に巻き込まれるので、独占産業として力をつけるまでは買ってきた商品をゲオクミリ会(仮称)が作ったという隠れ蓑で売るために忠男は商品の製造業の看板だけを掲げてもらうつもりだから、これから武装交易に挑戦するということは忠男とそのハーレムしか知らず、表向きはこれから海が開拓できるかを調べるための航海に出ることになっていた。
だから不測の事態に対応できるようにと忠男と4人の巫女たちだけで行くということになっていたので、人々はせめて航海の無事を祈り、この歴史的瞬間に立ち会おうとして集まって来ていた。本当は秘密を保持するための少数精鋭体制だったのだが、人々が口々に心配してくれるのを聞いた忠男は少し申し訳ない気持ちになったけれどこれも広義では海を開拓するためのステップであると考え直して自分を納得させていた。
「結局、おばあ様にこの町に実権が戻ったから短い天下だったわね」
綺麗な笑顔を群集に振り向きながら、オクサナは忠男に向けてポツリと呟いた。
「おばば様は老獪だからこうなるとわかってただろうな。この町を統治しようと思ったら少なくても代官としておばば様を雇わざるを得ないし、誓約をした時点でこの町にずっといることはないから、俺がいない間に彼女の意にそぐわないことは骨抜きにされるんだろう」
忠男も群集に手を振りながら答えたが、船室兼機関室の中にいるクレールとリュボフの方を向いていよいよ出航することを伝えた。
人魚で水の巫女のクレール・ブランシュトは翡翠色の艶やかな髪の毛に長身で水の抵抗の少ないフォルムをしていて、彼女はオクサナと違って素で人形のようだった。ただしオクサナは可愛さの溢れる人形だが、彼女は一種の近寄りがたい綺麗さを持つ人形だった。
「準備は出来てるからやるなら言って」
この小型船は蒸気機関の実験の為に作られたもので船体は土の巫女であるミーネ・フェルトマイアーに作ってもらった普通に水に浮くだけの何の変哲もない土船だが、ディアブル・ミディ相当でリョボフにも同定できなかった魔獣の亀の甲羅を用いた蒸気機関が3基取り付けられている。その亀の甲羅は忠男の広範囲を燃やす炎の一撃には耐えたが、中の本体は溶けてしまっていて危うく海の底へと沈んでしまいそうになった。それを有効活用するためにリョボフに蒸気機関のアイデアを伝えて、忠男とクレールとリョボフとミーネの4人で協力して何とか成功させたが、今度はそれを推進力に変換する必要が出てきた。そこから外輪船、プロペラの導入、ウォータージェットを検討して試作した結果としてプロペラは作ることが出来なかったので没になり、外輪船は人魚たち基準の水路では狭すぎるので没となったので、小型船にはウォータージェットが導入されたが、それを使っている間はクレールは水を補給し続けるために付きっきりで居なければならないし、一度に1つを動かすことが限界だった。3基取り付けているのは直進用が1つに旋回用が左右で2つなのだが、それでも水路は狭いので曲がるために片側に寄せる必要があった。しかしルミエールから海へ行くための最寄りにある町ソンブルまで行きは2時間だったのが、帰りは人魚を轢かないように考慮した速度でも帰りはこの船の活躍で30分に短縮された。
「キタタダオ、行こうっ!海が私を待ってるっ」
兎獣人で自称風の巫女のリュボフは飛び跳ねながら催促して、落ち着かない様子だった。彼女はいつも何か興味があることを見つけたら他のことには見向きもせずに全力疾走していくタイプで、今はトゥリェーチィの再来である忠男と見たことない海に興味津々でその耳をピンと立てて揺らしながらあちらこちらへとうろうろして待っていた。
その様子を森人で土の巫女のミーネが笑みを浮かべながら見守っていた。彼女は森人と他の種族の違いから意思疎通に手間取るのを避けるために、土の板を持ってそこに文字を浮かび上がらせてリュボフと会話していた。普通の森人ではこの方法を用いてもまだ会話のペースに間に合わないのだが、彼女のその精霊の加護の運用の巧みさによってリュボフがひたすらに彼女に話しかけ続けているような風景が出来上がっていた。
「よし、出航するから船室の中に入るぞ」
オクサナは忠男の声を聞いて、最後に大きく手を振ると船室の中に入ってきた。
「それでソンブルまで30分で着くんですか?」
彼女は他の人間の前ではまだとりつくろうようだった。
「ああ、君が本気を出したほどではないけど快速な移動をお約束しよう」
忠男は苦笑しながら答えた。
「いえいえ、私なんて大したことございませんわ」
本気を出した彼女は風の精霊の加護を用いて、ソンブルまで12分で着く。もちろん他の人物や物を積載してはいけないし、疲れるのでやることはないだろうが。
「それじゃあ、出航するぞ。クレール、3、2、1、行くぞ」
忠男はそう言うと蒸気機関に火を入れて、クレールが水を入れ始めたことで船が動き出した。町の人々は船が見えなくなるまで手を振っていたが、あっという間に加速して船は姿を消していった。
ソンブルに着いた時にはミーネを除いた全員がくたくただった。忠男とクレールは蒸気機関を動かすために精霊の加護を使い続けていたからだが、オクサナとリョボフは船酔いしていた。獣人としての感覚の鋭さが彼女たちを船酔いに罹らせているのかと忠男は当て推量してみた。今回は良くても次回以降を考えると何か対策できないものかと忠男は考えたが、特に思いつかないので慣れに期待することにした。多少効率が悪くなるだけでいけなくなるわけじゃないからだ。
ソンブルは海に面した町だが他の町との大きな違いはなく、強いて言えば結界の中に取り込まれた海から塩や海魚が取れたが、それは他の浜辺町でも同じなので特に栄えているということもない町である。
忠男たちはここから結界の外の海に出て実験を行い、狩ってきた素材で小型船に乗りきらなかったものと大型船を町長に預かってもらっていた。
小型船を大型船の横につけて忠男がルミエールでゲオルギアに貰った硬貨や荷物を4人に移し替えて貰う間に、忠男はソンブルの町長に挨拶とお願いをしに行くことにした。これからも船の管理をお願いすることになるので、そこら辺の契約をきちんと決めておきたかったのである。
大型船の番をしていた人魚に町長の所に案内してもらった忠男は町役場で時間を持て余していた。この町の町長は珍しいことに光の巫覡ではなく、水の覡の人魚なので光の社が町役場の機能を兼ねるのではなくて別に建てられていた。町役場にいなかった町長を探しに行ってもらっている間に忠男は疲れもあってぼぉっとしながら辺りを見回していたが、街役場とは名ばかりで図書館のようにしか見えなかった。しかも利用者は人魚しかいないのだ。忠男は何かしらの違和感を感じたが、良く知りもしない社会を偏見から判断するのを避けるために考えるのをやめて待つことにした。
しばらく待った後に大型船の番をしていた人魚が戻ってきて町長室へと行くようにと忠男に丁重に知らせてくれた。
忠男が町長室に入って目にしたものは広い水場とこちら側は普通の掘りごたつのようになっていて向こう側は水場につながっている机だった。やはり文化は違うだろうということを忠男は実感した。
それから忠男は町長と歓談して船の管理をお願いしたが、町長はそれを快く引き受けて、それだけでなく忠男が必要とするならこの町の人魚は皆協力を惜しまないということを忠男に伝えた。
うまい話でも結局は他の手段がないので、忠男は人魚の協力に感謝することを町長に伝えながら、これで面倒ごとに巻き込まれなければいいのにと考えて自嘲した。これからはいくらでも面倒ごとに巻き込まれるのに、もうそんなことを考えているのかと。