幕間
沈みかけた太陽が放つ光がギースレイヴンの濁った空気にけぶっている。枯れて久しい植物たちが風に吹かれて乾いた音を奏でる。生命の気配のない宮殿――アイスシュークは庭園の廊下を足早に抜けて、彼の主人クリエムハルト王子のいる玉座の間に急いでいた。
かつて、二百年程前には海運で栄えていたギースレイヴン国だったが、いつからか海は荒れ果て毒を持つようになり、その恵みは得られなくなった。そればかりか途方もない大きさの海竜が暴れるようになり、船すら出せなくなってしまった。
それでも人々は当時発展しつつあった蒸気機関で不便を解消し、どうにか食い繋いでいた。だが、やがて大地が枯れ、空気にも毒が混じるようになってしまった。すべては海竜のたたりである、そう囁かれるようになった。病人が増え、体力のない老人や子供が多く死ぬようになって逃げ出す者たちが増えた。勝手に国境を越えようとする者に厳罰を与えるようにしても、逃げ出す民は後を絶たなかった。
当時の王は仕方がなく陸の領土を拡げた。他国はその圧倒的な兵器の前になすすべもなく平らげられていったのだ。住める土地を求めて年々と大きくなっていくギースレイヴン。だが、本来の土地こそを一番と考える人間もいた。王の血統を継ぐ者たちである。だが、しょせんそれは理想論だ。現在の王も肺を病んでからこちら、もともとあった王宮に一度も戻らず、省みようともしない。
だから、空っぽの王宮に腰を据え、荒涼とした大地を睥睨するのはクリエムハルトただ一人である。そしてその奴隷であるアイスシュークは、必ず主人の下へ帰ってくることになっている。首に嵌まった輪がある限り……。
「遅いぞ、アイスシューク!」
「も、申し訳ありません、殿下」
鋭い叱責にアイスシュークはもたもたと跪いた。玉座にふんぞりかえるクリエムハルトは、やわらかい春の日差しのような髪の毛を苛立たしげに払った。その拍子に少し大きめの金冠がずり落ちそうになる。齢十にも満たぬようなか細い子供、それがアイスシュークの主人なのだった。
「それで、もちろん良い報せを持ち帰ったのだろうな」
「そ、それが……」
「なんだ、さっさと言え!」
「あ、あ……あの、やはり、精霊の巫女がこちら側に渡ってきたときにはもう、魔力は撒き散らされた後でした。ですから、回収は不可能でした」
「……フン、想定済みだ」
アイスシュークはその言葉にホッとし、先を続けた。
「実際に目にした巫女は、界を越えたにもかかわらず、意識をしっかり保っていました。かなりの量の魔力を蓄えられると、思います」
「よし、連れて来い。俺様が直々に見てやる」
「う……。す、すみません、連れては来られませんでした……」
「なにっ、どういうことだ!!」
「っ……!」
クリエムハルトの日長石の瞳が怒りに燃え上がる。落日のように美しい橙色のそれから必死に目を逸らし、アイスシュークは言葉を続けた。
「巫女の界渡りは、あちらでも予測されていたようで、すぐに騎士が現れました。衛兵の数も多く……申し訳ありません」
「おのれ、シャリアディース! ……それでお前は、ノコノコ帰ってきたのか、このマヌケ! 使えん奴めが!!」
クリエムハルトは癇癪と共に手に持っていた杖をアイスシュークに投げつけた。ナナカマドのそれは、青髪の少年のちょうど肩に当たって、床の上で硬い音を立てた。
「ぐっ……! し、しかし、巫女には“触れ”ることができました、居場所は把握できております……!」
「……苦し紛れの戯れ言じゃあ、あるまいな?」
「はい。いつでも巫女の下へ行くことができます」
「フン……なら良い。その女を俺様の前まで連れて来い。出来なければ、せめて心臓を抜き取ってくるんだ」
「……はい、御意のままに、殿下」
伏せられたアイスシュークの赤い瞳がどこか悲しげであったことに気づく者はなかった。クリエムハルトにシッ、シッと、犬でも払うようにして退室を促され、トボトボと部屋へと帰る。粗末なベッドに倒れ込み、考えるのはこれからのことだ。
魔力にあふれ、宰相シャリアディースの強固な結界に守られた、ジルヴェスト国。海竜の暴れる海域の中にありながら決して侵されることのない豊かな島国である。そこから魔力を奪ってくれば、毒のある土地を浄化し、実りを取り戻せるとクリエムハルトは考え、実験している途中なのだ。
機械兵を用いてジルヴェストを侵略しようという試みは、海竜の前に幾度となく阻まれてきた。だが、アイスシュークならば海竜も結界も素通りして、影の世界から好きな場所へと渡ることができる。そのために彼は生かされ、ジルヴェストから魔力を盗むために働かされているのであった。
アイスシュークはクリエムハルトが恐ろしい。癇癪持ちですぐに暴力を振るう癖があるのもそうだが、彼の回転の早い頭と、手段を選ばないやり方が怖いのだ。身内までをも切り捨てるその非情さ……アイスシュークとて、いつまで首が繋がっているかわからない。
そんな状況にありながらアイスシュークは、精霊の巫女、アスナについて気づいたおかしな点をあえて報告しなかった。それはなぜなのか。
(彼女は僕の名前を知っているようだった……。精霊の巫女には、もっと何か知られていない力があるんじゃないだろうか。もしそれをクリエムハルト様が知ったら、厄介なことになる前に殺せと言うかもしれない……)
アイスシュークの脳裏にアスナの笑顔がよぎった。
(可愛かったな……)
自分の口許がほころんでいることに気づき、アイスシュークは咄嗟に手で覆って辺りを見回すのだった。