分岐点 6
エクレア先生は、わたしの背中をトン、と優しく押さえて、家の中へ招き入れてくれた。きっとわたし、すごく酷い顔をしてたんだろうね。
温かい居間で、甘い紅茶をいただいていると、涙が止まらなくなっちゃった。先生はそんなわたしを、黙って見ないフリしてくれたの。
「先生、お茶をありがとうございました。もう、大丈夫です」
「いいえ。それより……何か、聞きたいことはありませんか? それとも、話したいことは? 私で良ければ、力になりますよ」
先生は静かに微笑んでいた。
わたしとゼリーさんの間に何があったのか、何が起こったのか。先生だって知りたいに決まっているだろうに、先生はわたしの気持ちを優先してくれている。でも……。
わたしが黙っていると先生は続けて言った。
「お恥ずかしい話なのですが、ジェロニモがここを離れて実家に戻ると言い出したとき、正直、いい気分はしませんでした」
「えっ?」
「これまで、ジェロニモは自分のことをほとんど話しませんでした。寂しいとか、そういう気持ちは彼にだってあったはずなのに……。だからと言うか、考えが浅い話なのですが、ジェロニモが仕事を辞めてあちらに戻る可能性を、万に一つも認識していなかったのですよ、私は」
先生は寂しそうに笑った。ううん、もしかしたら、自分で自分のことを笑ったのかもしれない。でも、そうだよね。離れ離れになることなんて、考えるわけないよね。ずっと一緒に育ってきて、仕事のときも一緒にいたのに。
「実家に戻れるようになったとしても、それは帰省程度に留めて、こちらで勤めてくれるとばかり信じていましたし、そう提案してもみました。……でも、彼は思い直してはくれなかった。薄情だな、と思ってしまったんです、私は。戻るにしても、もう少し側にいてくれてもいいのではないかと、彼を責めてしまいました」
「それは……」
「口にした後で、悔やみました。ジェロニモにあんな顔をさせたいわけではなかったのに。私も退院したばかりで、少し、おかしかったのかもしれませんね。裏切られたような気持ちになってしまった」
「先生……」
「でもね、アスナさん。さっきあなたが訪ねてきてくれて、あなたがジェロニモからの手紙を読んだとき、私の中のモヤモヤは氷解しました。ジェロニモがここから去ったのは、あなたのためですね」
ストン、と、胸に矢が刺さったような気がした。
それは無意識に考えないようにしていた「答え」だったから。
「あなたと陛下が結婚して、寄り添う姿を見ていられなかったんだと思います。だから、逃げた。私はまだ登城を許されていませんから、詳しいことはわかりません。でも、陛下が用意された馬車であなたがここへやってきたということは、結婚のお話はなかったことに?」
「は、はい、そうです! わたしは、ジャムとは結婚しません!」
「ジェロニモはなぜか、あなたの結婚話をかたく信じ込んでいました。追いかけて、誤解を解くべきなのじゃないかと、私は思います」
そうだ……!
本当にそうだ! わたしがしなくちゃいけないことは、今すぐ、ゼリーさんを追いかけることだ!
「すみません、先生、わたし……!」
「行くなら、準備を。私のヴィークルで良ければ、お貸ししますよ、アスナさん。それに、伝書機も」
「いいんですか?」
「もちろん。あなたは私たちの大切な客人であり、ジェロニモの大切なひとであり、そして、私の友人なのですから。そう思っていても、許されますか?」
「……はい! 嬉しいです。すごく!」
エクレア先生は、こんなときもすごく紳士的だ。わたしは胸がいっぱいになってしまって、先生に差し出された握手の手を、思わず両手で握ってしまった。
伝書機を借りて、まずはゼリーさんのところへ届けることにした。色々悩んだけど、文章じゃなくてメッセージを吹き込む。
「ゼリーさん。わたし、手紙読んだよ。あのね……わたし、ジャムとは結婚しないから。わたしが好きなのは……ううん、会ったときに言わせて。今から会いに行くから!」
ほぅっと息を吐き出して、胸を撫で下ろす。
緊張したぁ!
でも、これで後はゼリーさんに会うだけになった!
「よし!」
「アスナさん、これを」
伝書機を窓から飛ばし終えたわたしに、先生が大きめのリュックサックを差し出してきた。よくわからないまま受け取ると、先生はさらにお財布をくれた。
「先生、これ!」
「これは殿下からの預かりものです。まだお渡ししていなかった、お小遣いだそうですよ。それと、ジェロニモに渡し忘れていたお金も入っていますから、どこかに寄って昼食や必要なものを買ってくださいね。手土産もあった方がいいかもしれませんね」
「でも……」
「このカバンは私のもので恐縮ですが、使ってください。あちこち寄るより、この方が早い。さぁ、もう行って。ジェロニモをよろしくお願いします」
「ありがとうございます、先生!」
玄関の前には、もうヴィークルが用意されていた。さっそく乗り込んで、座席の真ん前にある水晶球に手を置く。ゼリーさんと一緒に乗ったから、動かし方はもうわかってる。
「アスナさん、お気をつけて」
「はい! いってきます!」
手を振って見送ってくれる先生に手を振り返して、わたしはヴィークルを動かした。先生に言われた通り、街に寄って買い物を済ませて、海の方へ。
しばらくは本当に正しい方向に来ているのか心配になったけど、高い場所を飛んでいったから、見覚えのある山を見つけて軌道修正したりして、何とか辿り着くことができた。
砂浜にヴィークルを停めて、村まで走っていく。ゼリーさんの家まで行く途中で、なぜかそこにいたソーダさんに呼び止められた。
「アスナ、待っておくれ。ジェロニモなら、いないよ」
「えっ……」
ソーダさんが差し出す掌には、わたしが飛ばした伝書機が載っていた。
「どうして……」
「ジェロニモから、伝言を預かっているんだ。聞いてくれるかい」
胸がズキンと痛んだ。
嫌な予感がする……。
「わたし、ゼリーさんに会いに来たの。留守かどうかは、自分で聞きに行くから、いいよ。帰ってくるまで、待ってるつもりだし……」
「ジェロニモは帰ってこない。ジェロニモの家族に迷惑をかけては、ダメだよ」
「なんで! どうしてそんなこと言うの!? そんなの、ソーダさんに関係ないじゃん!」
ソーダさんは、わたしの八つ当たりを優しい微笑みで受け流していた。少しだけ、悲しそうなその笑顔に、どんどん胸がくるしくなっていく。
ゼリーさん……!
どうして、いないの……! どうして、ソーダさんに伝言を? わたしのメッセージは、聞いてくれてないの?
「ジェロニモからの伝言を、伝えるね。伝書機を、耳に当てて?」
ソーダさんはそう言って、伝書機を再生した。
ゼリーさんの低い声が、耳に流れ込んでくる。
『アスナ……。俺では君を、幸せにはできない。家族のもとへ帰るんだ。それが、一番だと思う。君には会えない。だから……俺を探さないでくれ』
……ひどい。
久しぶりに聞いた言葉が、こんな、悲しいものだなんて。
帰れって、言うの?
わたしの気持ちを、聞きもしないで?
幸せって、なんだろう。
わたしの幸せって……?
「アスナ……」
「ごめん、ソーダさん……。今は、ひとりにして……」
ソーダさんは、わたしの手に伝書機を握らせて、そのまま離れていった。風が、わたしの髪の毛を吹き上げて消えた。
わたしはひとり、浜辺に行って海を眺めて過ごした。
泣きたいはずなのに、涙は流れてくれなくて……。何も考えられないまま時間だけが過ぎていった。
夜が来て、星の明かりがゆっくり流れていくのを見上げた。
だんだんと空のグラデーションが明るくなっていく。藍色から紫、橙、ピンクに白……。
「ソーダさん、いるの?」
「……ああ。いるよ」
「そう」
わたしの中にある感情が、ひとつにまとまっていた。
わたしは答えを見つけたの。
わたしは……
▶【帰る】
▷【帰らない】




