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▶【クッキーくんの手を取る】
わたしは……
クッキーくんの手を取った。
そのとたん、光の粒がわたしを包む。勢いよく滑るような感覚に思わず目をつぶると、驚いたようにわたしの名前を呼ぶ声がした。
「アスナさん? どうして、ここへ……」
「先生!」
ベッドに座る先生は、もう、体のほとんど全部が木になりかかっていた。掛布団の下から伸び放題に伸びた根が、ベッドを抱くようにして蔓延っている。顔の半分も樹皮に飲み込まれていて、自由になるのは左腕だけみたいだった。
先生はぼうっとした表情でわたしを見上げて、それから、泣きそうな顔で笑った。
「人生の終わりに見る夢が、これとは……未練ですね。毒を飲む前に力尽きたのか、それとも毒を飲んだ故の幻か。いえ、どちらでも構いません。アスナさんが、迎えに来てくれたのですから……」
わたしは先生の左手に握られている薬瓶に気がついた。もしかして、これが毒? どうしてそんな物を、と思ったけど、蜂蜜くんの言っていたことを思い出して胸が痛くなった。
もう、先生の命は、長くはないって。
だからきっと、これは先生を痛みから救うための薬なんだ。
でも、今は……。
これを夢だと思い込んでいる今だけは、このお薬は必要ない。そうだよね?
「先生、この瓶、わたしにください」
「これを?」
「はい。わたしに預からせてください」
「では、お願いします」
ほとんど力の入らない先生の手から瓶を受け取って、ポケットにしまう。苦しそうな呼吸と熱い体温に、自然と涙がこぼれた。
「先生、苦しいの? ごめんなさい、わたしのせいで……」
「大丈夫ですよ、もう、そんなに苦しくありませんから。おかしいですね、夢の中でもあなたは、私に謝る……あなたには、笑っていてほしいのに」
「先生、わたし……」
「笑ってください。いつもの笑顔を、どうか私に向けてください。私のためにあなたが泣いてくれるのは、嬉しい反面、心が痛む……。愛していますよ、私の可愛いひと」
「わたしも……。愛しています、アルクレオさん……」
「アスナさん」
わたしから、先生にキスをした。
唇が触れるだけの軽いものから、「好き」って言葉を絡めて、深く、深く……。手を取り合って、互いに求め合った。
窓から差し込む月明かりが、先生の優しい茶色の瞳に灯っている。わたしはそこに睫毛の影がゆらゆら揺れるのを、ずっと眺めていたいと思った。
「このまま時間が止まってしまえばいいのに。明日なんて、来なければいい。ずっと先生と一緒にいたい」
「私もです、アスナさん。けれど、そういうわけにはいかないでしょう。夢はいつか終わりを迎え、私は精霊として新たに生まれ変わるのです」
「先生が、精霊に?」
「ええ。暴走するあなたの魔力に形を与えてやらねばなりません。私が精霊になれば、あなたは普通の人間として生きられる。……仕方のないことだったとはいえ、あなたに酷い態度を取ってしまったこと、ずっと、ずっと悔やんでいました。あなたを泣かせてしまって、すみません」
「ホントだよ……わたし、すごく、傷ついたんだから……。拒絶されて、側にいさせてももらえなくて、きっと嫌われたんだって……」
「すみません……」
わたしの髪の毛に優しいキスが落とされる。わたしは先生の胸に頬をすり寄せて、その謝罪を受け入れた。
「ううん。もう、いいの。大好き」
「ありがとうございます。これが、最期の心残りでした」
わたしが見上げると、先生は満足そうに笑っていた。
「いっそ嫌われてしまえばいいと、あなたが私に呆れて元の世界へ帰ることを選んでくれと思いながらも、こうしてあなたに赦されることを願ってしまう。そんな愚かな男が、私です。夢だと知りながら、それでも、あなたとこうして過ごす時間に満足しているのです」
「先生……?」
「あなたを傷つけ、泣かせても、どんなに嫌われ詰られようとも、それは覚悟の上でした。そんなことより、意識もなく横たわり明日をも知れぬ身のあなたを、日々人間でなくなっていくあなたを見ている方が、何倍も、何十倍も辛かった……!
私だけが、あなたの代わりになれると知って、わたしがどんなに嬉しかったか。そして、あなたを幸せにしてあげられないと思い知って、どんなに悔しかったか」
「あ……」
わたしは、ギュッと抱きしめられて吐息を漏らした。こんな力が、まだ残っていたなんて……。それとも、わたしを抱きしめるために?
「私の中で、あなたの存在が大きく大きく、膨れ上がったのです。そのおかげで、私は初めて、あなたを愛しているのだと知りました。その歓びと、哀しみも……。愛したのがあなたで良かった……アスナさん」
「アルクレオさん……! わたしも、先生を愛してる! それなのに、どうして? わたしは先生を助けてあげられないの!?」
「……アスナ、さん? なぜ……これは、夢ではなかったのですか……」
先生はわたしを引き剥がすようにして身を引いた。瞳の中に怯えのような色が混じっている。わたしはあふれる涙をそのままに、先生の瞳を覗き込んだ。
「わたしは、わたしだよ。これは夢なんかじゃない……現実なの」
「ああ……!」
「だから、わたしの言葉はすべてホントよ。わたしは、先生を愛してる」
「そんな、どうして……」
「先生こそ、どうしてわたしにホントのことを言ってくれなかったの? お願い、精霊になんてならないで! ひとりで死ぬなんて、そんなの、悲しすぎる…………生きて一緒にいられないのなら、わたしも連れて行ってよ……先生!」
「…………!」
わたしはポケットからあの薬瓶を取り出した。
ガラス製の蓋は呆気なく外れる。わたしはその中身を一気に飲み干した。
「いけません!」
毒は、花の蜜のような味がした。
ねっとりと喉の奥へ流れていく雫。体がかあっと熱くなって、心臓が痛いほど脈打ち始める。
先生がかすれた声でわたしの名前を呼んだ。
「なんてことを……。アスナさん、あなたというひとは……!」
「ごめんなさい、先生。でも、わたし、後悔したくないの」
「あなたは、馬鹿ですよ……。でも、嬉しいと思ってしまう私も、馬鹿ですね。すみません、あなたを道連れにして……」
「先生……」
わたしたちは唇を重ねた。
これがきっと、最後のキス……。
「先生、きっと、またわたしを見つけてね」
「ええ。どこにいても、必ず。あなたを探し出しますよ」
「嬉しい……」
心臓が破れてしまいそう。
痛くて、苦しくて、それでも先生の掌の温かさを感じていた。力強い、先生の掌の。
「また、逢いましょう。それまで、さようならです」
「うん……先生、また、ね……」
「安心してください。私もすぐに、あなたを追いかけますからね」
「やく、そく……」
「ええ、約束です」
絡めた小指を持ち上げて、先生は笑った。
あの日、わたしが言ったことを覚えてくれてたんだ。
わたしは、安心して目を閉じた。
きっとまた会える。そのときには、また、約束しようね?
今度こそ、幸せに……。
END『再会の約束』




