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▶【わかった】
わたしは頷いた。
先生の体を元に戻してもらいたい。それだけじゃなくて、できればわたしが普通に生活できるようにしてほしい。そんなの無茶かもしれないけど、シャリアディースは魔法が使えるんだもん、交渉してみる余地は充分にある。
そして、そのためならたとえどんなに難しいことだとしても、チャレンジしなくちゃ!
「わかった。まず、どんな望みか聞かせて。それから、わたしがお願いしたいことも聞いてくれる?」
「いいとも。まずはこちらから」
ニヤリと笑うシャリアディースに、わたしは思わず身構えた。
いくら先生を助けるためって言っても、あんまりにも身勝手な願いだったらお断り。他の誰かに相談するつもりだった。でも、シャリアディースの口から出た言葉はそういうものじゃなかった。
「泉に潜るの? わたしが?」
「ああ、そうだ。女性しか入ることを許されていない魔法の泉なものだから、困っていたのだ。それに、魔力が高い女性じゃないと、泉の魔力に中てられて倒れてしまうしね」
「ふぅん……そういうことなら……」
「頼むよ、アスナ。君にしか頼れないのだ。あれは私にとっては大事な物、どうしても諦められない」
シャリアディースは熱っぽくそう言って、わたしを見つめてくる。魔法の泉に大事な物を落とすなんて、コイツもそういう人間的なドジをやらかすんだね。素潜りなんてプールの授業で「宝物探し」をしたとき以来だ。上手く潜れるといいんだけど……。
「さあ、行こう」
「あ、わたしのお願いなんだけど……」
「大丈夫だ、聞かなくてもわかる」
「そ、そう……?」
シャリアディースはわたしの手を取って、さっき先生を映した水鏡に触れた。すると、わたしは引っ張られて気づいたらどこかの部屋にシャリアディースと浮いていた。また、無重力状態だ。
わたしたちの足の下には、大きめの子ども用プールくらいのレンガ造りの円があって、中にはなみなみと水みたいなものが入っている。それはキラキラと七色に光っていて、ランプひとつしかない部屋なのにとても明るかった。
「すごい、キレイ……」
「ここが魔法の泉だ」
「ここ、ジルヴェスト? それとも、どこか他の土地なの?」
「ジルヴェストだ。王宮の地下だよ」
「へぇ」
お城の地下にこんなものがあるなんて知らなかった。それにしても、水面がキラキラしてるからか、深さがまったくわからない。あまり濡れたくないんだけど……。
「では、さっそく入ってくれたまえ」
「う、うん。わかってるけど……」
「なにか? ……ああ、濡れてしまうのを気にしているのか。縁に腰掛けて靴を脱ぐといい。何なら、服もすべて脱いでしまって構わない」
「ぬ、脱ぐワケないでしょ、バカッ!」
思わず叱りつけると、シャリは悪い顔をして笑った。
まったく……!
魔法の泉を覗き込むと、円の中には階段があって、深く入っていけるようになっている。裸足になったわたしは、そっと泉の水につま先をつけた。
その瞬間、突き刺すような痛みを感じた。
「痛っ……! 何? 待って、この水すごく冷たい。こんなの無……」
振り返ったわたしは思わず固まってしまった。シャリアディースが、まるでガラス玉みたいな瞳でわたしを見ていた。そこに映る感情は、無……。
「言い忘れていたが、アスナ、私の本当の望みは別にあるんだ。私が欲しい物、それは……君のすべてだ、アスナ」
「あっ」
伸びてきた手を避けることができなかった。
わたしは泉に背中から落ちていった。
「ああああああああッ! いや……たすけ……! いっ! あぐうううう!」
痛い痛い痛い!
痛みで動けない。助けて! 死にたくない!
手を伸ばしても、どこにも掴めるところがない。体中が軋む。泉の水はまるで生き物みたいに絡みついて、わたしの口や、鼻や、耳にまで侵入してこようとする。
騙された! どうして こんな ひどい
信じてたのに……
先生……
永遠に続くように思えた拷問も、終わりを迎えた。指一本動かせずに泉に沈んでいくわたしを、誰かの腕が引き上げる。……ううん、誰かなんて考えるまでもない。憎んでも憎み足りない、アイツに決まっていた。
「おお……なんと麗しい。水の精霊となった私に実に相応しい精霊であることだな。ああ、アスナ……いや、今はもう違うな。君の名前を教えておくれ、蓮花の精霊よ」
何を、言ってるの……?
わたしの顎を持ち上げて、わたしの顔を愛おしげに覗き込んでくるシャリアディース。猫なで声が気持ち悪い。
引っぱたいてやりたいのに、体がちっとも思い通りに動かない。それどころか、わたしの口はわたしの意思に反してしゃべり始めた。
「わたしの、名前は、アッシュ・レイ……」
「アッシュ・レイ。いい名だ。変化したのは髪と瞳の色だけかな? それとも、アスナとしての記憶はもう消えてしまったか。まぁ、どちらでも構わない。君は私の魔力なしに生きていけない、私の可愛い花嫁なのだからね」
冗談じゃない! そんなの絶対に嫌!
どうしてわたしがシャリアディースなんかの……!
やめて! 顔を近づけないで!
いや! 嫌だ……! 離して!
わたしはシャリアディースに思い切り爪を立てた。涙がこぼれていくのがわかる。それでも、体は動かない……!
「ほう。どうやら、アスナの記憶と人格が残っているようだな。だが、それもしばらくのことだ。それに、私に逆らえないことに変わりはない。……その記憶も感情も、ゆっくりと溶かして啜り取ってやろう。アスナ……いや、アッシュ・レイ」
「………………」
わたしの体はキスを拒めなかった。温かくてぬるっとしたものが口の中に入ってくる。嫌悪感に体が震えた……。
やめて……もうやめて!
わたしは、わたしが好きなひとは先生だけなのに!
視界に入る長い髪は池に咲く蓮の花のように白の中にほんのりピンクが混じっている。それがシャリアディースの銀に近い水色の髪と絡み合い、混じり合って、まるで織られる前の絹糸のよう。
小さな抵抗ひとつできずに、わたしは、シャリアディースに喰らい尽くされてしまった。わたしが、わたしでなくなっていく……。ううん、泉に落とされた瞬間から、わたしはもうアスナじゃなくなってしまったんだ……。
わたしを蓮花の精霊と彼は呼ぶ。
蓮の花のように、水に抱かれて咲いていることしかできないのなら、いっそ……記憶も感情もない、本物の花になってしまいたい。
END『狂い咲きの蓮花』




