幕間 その5
その巨体が海中に沈んでいったとき、油断なく武器を構えていたジルヴェストの騎士たちは、ようやく歓声を上げた。この海域を我が物顔で泳ぎ、騎士たちに威嚇と攻撃を繰り返していた暴れ海竜がようやく退治されたのだ。
それにはなんと、仮想敵国として定めていたギースレイヴンの助力もあった。ヴィークルを駆るジルヴェストの騎士たちが海竜に襲われ苦戦していたところへ、大陸からの援護射撃が届いたのだ。
ギースレイヴンの大型兵器は、槍の穂先のようなものを射出するものだった。二台あるそれらから発射された金属片は放物線を描いて海竜へと降り注ぎ、何拍か時をおいて爆発することで大きなダメージを与えた。
海竜が倒れたとき、歓声を上げたのはギースレイヴンも同じであった。そしてその喜びはジルヴェストのものよりはるかに大きかった。なぜなら彼らこそ、二百年の長きに渡り海への進出を阻まれて続けてきた被害者であったからだ。
だが、その喜びは長くは続かなかった。
空はにわかに暗雲に覆われ、雷鳴轟き、海が逆巻く。そして叩きつけるような雨が彼らに降り注ぎ始めた。
「な、なんだあれは……」
ギースレイヴンの王子、クリエムハルトは海を割って現れた巨大なひとがたを見て驚愕の声を上げた。周囲の者たちにも緊張が走る。末端の兵士たちの中には、逃げ出そうとして上官に殴られている者もいた。
逆巻いた海水でできあがっていく、天を衝くほど巨大なそのひとがたは、女のように見えた。そして、その女は手にした杖のようなものをギースレイヴンの海岸に展開する兵士らへ向けて薙ぎ払った。
「退避! 総員退避ーー!」
兵士らが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
海の怒りはまず、海竜の命を奪った兵器に向けられた。直径二メートルはあろうかという大きさの槍が、兵器を抉り粉砕していく。そしてその標的が兵士らへと変わるのに時間はかからなかった。
逃げ惑う兵士らの悲鳴と命乞いの声が雨音の合間から聞こえてくる。ジルヴェスト騎士団を率いていた団長は、強風と豪雨いう、ヴィークルを動かすにあたって最悪の天候の中、なんとか機体を持ち直し叫んだ。
「諸君、盟友の危機だ、先程の恩を返すぞ! あの大女の頭を狙え! 撹乱するんだ!」
「了解!」
「了解!」
騎士たちはヴィークルを浮上させ、次々に水でできた怪物に襲いかかる。二人一組の彼らは、ひとりが操縦に専念し、もうひとりが自由に動けるため、初めての場所、そしてこの悪天候の中でもそれなりの働きができるのだ。
『キィイイイイイイアァァアアアア!』
騎士たちが攻撃を始めると、水でできた巨人はうるさそうにヴィークルを振り払った。有効打を与えられないどころか、まるで羽虫のように追い散らされる騎士たち。中にはすでに波間に叩き込まれた者たちもいる。
しかも敵はすでにギースレイヴンの海岸へと上陸し、彼の国の兵士たちを踏み粒さんと足を激しく上げ下ろししている。
「くそ……もはやこれまでか……」
騎士団長が悔しげに歯噛みする。しかし、それを打ち消すような言葉が彼の背後からかけられた。
「諦めるな。まだ終わってはいない」
「なっ、貴方は……!」
振り向いた騎士団長が見留めたのは、思いも寄らない人物だった。恐れ多くも国王陛下を拐い身を隠したジルヴェストの元宰相、シャリアディースがそこにいた。
水色の長い髪を束ねもせずに流したその男は、ヴィークルを使うことなく、騎士団長と同じ目線に浮いていた。そして、彼の周囲にはあの巨大ひとがたによってヴィークルごと叩き落された騎士たちも浮かんでいる。しかし、シャリアディース以外は、どこかつままれた猫のように不安定な有り様であったが。
「私が援護しよう。しばし指揮権をこちらへいただけるかな?」
「な、いきなり現れておいて何を……!」
「これはお願いではない、命令だ。拒否権はない。それとも……貴殿にならこの状況、何とかできると?」
シャリアディースが皮肉げな笑みを作ってそう言うと、騎士団長は苦虫を噛み潰したような顔で黙った。
「ドゥーンナッツ卿、掩護する、その剣であの狂った水の精霊を斬れ!」
「っ! 了解!」
個人的な感情を捨て去る一瞬の躊躇の後、若枝の騎士オールィド・ドゥーンナッツはシャリアディースの指示に従った。すでに指揮権は渡った、今はあのいけすかない元宰相が上官なのである。
オールィドは同乗者に「ギリギリまで引きつけてくれ」と指示し、好機を待つ。その間にも被害は増していき、若き騎士の胸にも重圧がかかっていく。
「くっ……! あと、もうちょっと……!」
だが、功を焦って失敗しては、次の機会などないかもしれない。オールィドは全身の感覚を研ぎ澄まし、ひとがたの動きだけに集中した。
そして、一閃。
刃が吸い込まれていくような感覚。薄っすらと光り輝く一振りの両刃の剣は、見事に水の精霊の首筋を捉え、斬りつけていた。
『キアアアッ!?』
きしるような悲鳴が鼓膜を突き刺す。身をよじって暴れる水の精霊の手が、オールィドたちの乗るヴィークルへ叩きつけられた。
「うわぁっ!」
「ぐうっ!」
水の刃に全身が斬りつけられる。オールィドは遠のく意識の中、敵の無防備になった胸元へ己の剣を力いっぱい投擲した。それは狙いあやまたず一直線に心臓へと飛び、柄まで深く突き刺さった。
『アアアアアアアアアッ!』
ひときわ大きな叫びと共に、水の精霊の姿はただの海水へと還った。轟音と水しぶきが上がり、ジルヴェストの騎士たちもギースレイヴンの兵士たちも、いっしょくたに波に飲み込まれていった。
ひとりそれに巻き込まれもせず浮かんでいたシャリアディースはしかし、苦悶の表情で体を折っていた。全身を走る痛みに爪を立て、耐える。
世界は今、柱となる水の精霊を失い悲鳴を上げていた。
すべての精霊がその損失を肌で感じ、彼女の痛みを共有した。
「ぐうぅ! 覚悟していたとはいえ、いささか、きつい、な……。人間たちを引き上げて撤退せねば……」
シャリアディースは水の精霊シャーベ・スベルベルトに生み出された、彼女の眷属だった。海竜に引き続き、親そのものであるシャーベを喪った痛みは他の精霊たちよりよほど大きかったが、シャリアディースはそれに耐えきった。
そして、無理やり開けられた水の精霊の座は、彼のものになったのだ。
シャリアディースは投げ出された人間たちをすべて拾い上げた。そして、ギースレイヴンの者はギースレイヴンへ、ジルヴェストの者はジルヴェストへと波に乗せて海岸へと連れて行く。幸いにというか、シャーベに直接踏みにじられたギースレイヴンの兵士ら以外に犠牲者はいなかった。
「さて、凱旋か。くくくく……くはははは!」
その日、ジルヴェストに国王が帰ってきた。
水の精霊となったシャリアディースと共に。
世界各国が未曾有の大地震と暴風雨、そして火山の噴火といった天変地異に襲われる中、祝福された島国ジルヴェストは、世の災いも知らず人々の笑顔にあふれたのである。




