初めての……
アイスくんが帰ってきたのは、今日もお月様が空のてっぺんを越えたくらいの時間だった。わたしは机の上の燭台を持って部屋を出る。アイスくんはまず、お台所へ向かったみたい。
「アイスくん、おかえりなさい。入ってもいい?」
「……起こしちゃった? ごめん。もちろんいいよ」
ふたりしかいない隠れ家なのに、アイスくんはささやき声で言う。わたしはドアを開いて、わたしと同じく蝋燭を持って立っているアイスくんの顔を見て、思わず悲鳴を上げていた。
「アイスくん! どうしちゃったの? ちゃんと食べてる? 寝てる!?」
「ど、どうしたの、アスナさん」
「だって、目の下のクマすごいよ!?」
アイスくんてば、少し見ない間に痩せてない!?
これは、早く寝かせてあげないと……!
「邪魔してごめんね、話があったんだけど、また明日にするね。おやすみなさい」
「待って、アスナさん。どうしたの? 話って? 大丈夫だから、聞かせて……」
アイスくんがわたしの手を掴んで引き留めてきた。優しい声で、なだめるようにそう言う。わたしはゆっくり、アイスくんの方へ引き寄せられた。
でも、こんな疲れてるときに、聞かせるような話じゃない気がするよ……。
だってわたし、「家に帰る」って言おうとしてるんだよ!?
「本当に、明日でいいから……。疲れてるときに、こんな話……聞かせたくないよ」
「僕は、アスナさんのことなら何でも知りたい。トラブルがあったなら聞いておきたいし、それに……そんな言い訳なんか抜きにしても、今はアスナさんと一緒にいたいな」
そうやってアイスくんが笑うから、わたしは胸が苦しくなった……。
アイスくんは今、大変な時なのに、こんなになるまで頑張ってるのに、わたしは何も手助けできない。それどころか、わたしは自分のことばっかりで……
「ごめんなさい……!」
言葉と一緒に涙がこぼれて。
止まらなくなっちゃう……。
「ごめんなさい、ごめ…なさ…」
「アスナさん」
子どもみたいに泣きじゃくっちゃって、言葉がちゃんと出てこない。そんなわたしを、アイスくんはギュッと抱きしめてくれた。
「帰っちゃうんだね」
アイスくんが優しい声で、確認するように言う。わたしは小さく頷いた。見上げた顔は、悲しそうに、でも諦めたように微笑んでいて、わたしは胸がいっぱいになった。
「アイスくんが好き」
たくさん言いたいことがあったはずなのに、出てきたのはとても短くて、それでいてぜんぶの想いがこもった言葉だった。アイスくんの目が丸くなる。熱い涙が最後にひとつぶこぼれ落ちて、わたしはもう一度だけ言葉を繰り返した。
「わたし、アイスくんが好きなの」
「…………」
「でも、帰らなきゃ……。帰りたいと、思ってたの、ずっと。それなのに、今は…………体がふたつあればよかったのにね。そしたら、ずっと、アイスくんと一緒にいられるのに」
アイスくんはもう一度わたしを抱きしめて、耳許でささやく。
「嬉しいよ……。アスナさんが僕のこと、そんな風に思ってくれていたなんて。こんなに、悩んでくれていたなんて……。ああ、でも、帰ってしまうんだよね……」
「うん……。でも、ちゃんと伝えたほうがいいって、気がついたから。ねぇ、アイスくん、わたしが帰っちゃうとしても、ここにいる間は、わたしと……その……恋人でいてくれる?」
「……! アスナさん、僕は……!」
アイスくんはわたしの両手を取って、何かを言おうとした。でも、途中で急に固まった。何かおかしなことでもあったのかな、怪訝そうな顔をしてる。
「シャーベだな。ごめん、なんか……、変なこと吹き込まれたよね? ちゃんと言って聞かせるから、本当にごめん」
「え、待って、アイスくん。わたし、自分の意思で言ってるよ? 確かに、シャーベさんの考え方は聞いたけど……。
たとえ、ずっと一緒にいられなくても、わたし、アイスくんの恋人になりたい。アイスくんに好きって言ってもらえて嬉しかったの。わたしも同じだけ気持ちを返したい……それじゃ、ダメかな? やっぱり、側にいられないのにこんなこと言われても、迷惑かな……」
「そんなことない! 僕は……でも、アスナさんこそ……。後悔しないの? 僕なんかと……」
「後悔なんてしないよ。初めて本気で好きになったんだから! アイスくんこそ、断るなら今なんだからね? わたし、やっぱり無理って言われたら、ちゃんと納得するから!」
そりゃ、ちょっとは泣いちゃうかもしれないけどね。
泣いちゃうけどね!
「断るなんて、そんな……絶対にありえないよ。アスナさんがこの世界にいる間は、絶対に、離さない……」
「アイスくん……」
ぐいっと引き寄せられたかと思うと、アイスくんの顔が近づいてくる。おでことおでこがそっと触れ合って、「本当にいいの?」って確認してくるみたいに目の中を覗き込まれる。わたしは瞼を伏せてちょっとだけ上を向いた。
触れてくる唇は柔らかくて、ちゅっと音を立ててすぐに離れた。
「…………」
「…………」
わたしたちは同時にクルッと後ろを向いた。
は、はずかしい!
はずかしすぎる~~~! アイスくんの顔、マトモに見れない!!
まるでため息みたいに空気が口から抜けていく。それでようやく、息を止めていたことに気がついた。ああ、顔が熱い。ほんの一瞬の出来事だったけど、わたしたち、キス……したんだ。
顔を見るのも見られるのも恥ずかしいけど、でも、何か言わなくっちゃ。
「あのっ」
「アスナさ……」
同時に振り返ってぶつかりそうになって、同時に「ごめん」だなんて、漫画みたい。
「アスナさん、外で星でも眺めながら、少し話さない?」
「うん。じゃあお茶淹れるね」
ここで過ごすうちに自然に身についた動作で、わたしはストーブの灰を掻き立てて火をつけた。お湯が沸くまでの間、わたしたちは何だかソワソワして、黙ってしまっていたけど、それは嫌な感じじゃなかった。少しずつ、心が落ち着いていく。
あったかいお茶とマグカップ、それから毛布をふたりぶん。
ふたりで夜空を見上げて話し始める頃には、すっかり元通り。ううん、手を繋いでるぶん、前よりもっと、近い距離。




