第六幕 魔法使い
曼珠沙華の谷を去ってリスの夫婦の家に着くと、リスの夫婦は様々にもてなしてくれました ( とは言っても、王子さまは夫婦のお家に入るには体が大きすぎたのでお家に入ることはできなかったのですが )。めすのリスが温めて出してくれた果実酒のおかげで王子さまの体がぽっと温まり、やがて心地よい眠気が訪れました。そこでリスの夫婦の家がある木の根元で、さっそくあのおふとん屋さんがくれた寝袋を使ってみることにしました。まずはカバンから取り出し、縛っていた紐を解いてやって地面に置きます。するとすぐにとぷくーっと膨らんで、王子さまがもぐりこむのに十分な大きさになりました。体を入れるらしき小さな裂け目があって、どうやらそれを広げて潜り込むようです。完全に中に入ってしまうと、潜り込むときに広げた裂け目はふにゃふにゃとまた縮まって元の小さな裂け目に戻りました。これでまゆの中の温かさも外に逃がさないで済みます。中はどこもかしこもふかふかで温かく、かと言って外の空気が吸えずに息が詰まってしまうようなこともありません。王子さまはあらためてこの寝袋のよくできているのに感心し、それからすぐに心地よい眠りに落ちたのでした。
どれだけ眠ったでしょうか。ふと目が覚めて寝袋から顔を出してみると、寝袋に入る前は水色だったスズアカリランの花は今はオレンジ色に光っていました。軽く伸びなどしてみると、どうやら疲れは十分に取れているようです。木を見上げて夫婦の家の様子を伺ってみると、夫婦もどうやら目を覚ましているようでした。
「 おーい、おはよう……じゃなかった、善き人にこそ幸いあれ 」
王子さまがそう声をかけると、めすのリスが家からにゅっと顔を突き出して
「 善き人にこそ幸いあれ。小説家さん、目が覚めたのね。よく眠れたかしら?疲れは残っていない? 」
「 ありがとう。おかげさまでずいぶん気分よく起きられたよ 」
「 よかったわ。それじゃ、少し腹ごしらえしたら、昨日お話しした双子のところに案内するわね 」
「 あ、奥さん 」
「 なあに? 」
「 あの、宿代とか食事代とか案内料とか、支払いはどのようにすればいいだろう?僕、この国の通貨は持っていなくて僕の国の通貨でよければ、それで支払わせてもらいたいのだけど 」
そう言うとめすのリスはしげしげと王子さまの顔を見つめて、それからきゃきゃっと笑い出しました。
「 いやあねえ、小説家さんたら、この国に入ったときの約束をもう忘れちゃったの? 」
「 忘れてなんかいないさ。お話を一つ聞かせる、というやつだろう?それはもう少し仕事をしてからと思っていたけど…… 」
「 それでいいの。それが、小説家さんの言う宿代やら案内料だわ。この国にはね、お金というものはないの。自分のできることと、他の人のできることと交換するの 」
王子さまには、それは簡単なようでとても難しい仕組みに思えました。それでも、郷に入っては郷に従え、です。
「 わかった、ありがとう 」
「 それじゃあ少し待っていてね。ご飯を持っていくわ。またお餅だけど、前のクルミ餅とは違うのを用意するわね 」
そう言うと夫婦は家の中から食器やら材料やら色々と運び出し始めました。どうやら王子さまと一緒に木の下で食事にするつもりのようです。王子さまも手伝って、三人は野菜や木の実と一緒にスープで煮込んでやわらかくしたお餅をおいしく食べたのでした。
やがて食事が終わり、十分に食休みもしたらいよいよ出発です。王子さまはこれから案内してくれるという双子について、いろいろと尋ねたくてたまりませんでした。男なのか、女なのか。お餅屋さんはお餅を作り、おふとん屋さんはおふとんを作るけれどその双子というのはこの国で何をして過ごしているのか。けれど、少し眠って元気いっぱいになったのかリスの夫婦はまたしても張り切ってしまって、王子さまのことを考えずに走り出したのでした。王子さまは慌ててまたリスの夫婦を追いかけます。
走って走って、王子さまがそろそろ音を上げてリスの夫婦に「待ってくれ」と叫ぼうかと考え始めた頃ようやくリスの夫婦の足が止まりました。
「 ここが双子さんのお家よ 」
めすのリスが言います。小さいけれどしっかりと作られているらしい木の小屋で、その周りには、ちょっと見るとごみ捨て場かしらと思ってしまうように雑多にいろんな物が置いてありました。袋入りの飴玉、ブリキのおもちゃ、ケースに入った手風琴、色々な種類の野菜、手編みらしいケープ、お餅屋さんでみかけたようなストーブ、ガラス瓶などなどです。
「 双子さんはね、たまにこの国を出て外でお仕事をしてくるの。そうしてこの国では手に入りにくいようなものもたまに持って帰ってきてくれるわ 」
「 それをこの国の住民は、自分の作ったものやなんかと取り替えてもらう。他の住民にはできないことだから、とても助かっているんだよ 」
王子さまは夫婦の説明には何も答えずに、立ち尽くしていました。心臓がばくばくしているのは、リスの夫婦を必死に走って追いかけたからだけではありませんでした。よく考えてみれば、最初から彼らに会いに来ればよかったのです。身分を偽っているとはいえ、最初にリスの夫婦に 「 こういう人がこの国にいると聞いているから会わせてほしい 」 と言ってしまえばこの夫婦は何も疑わずにすぐに会わせてくれたことでしょう。
それをしなかったのは、僕がこの人たちに会うのをどこかで恐れていたからだ。
王子さまはそう思いました。お城を出る前に聞かされていた、彼らのうわさ。聞いたこともない言葉で呪文を唱える。その呪文を聞いた言葉は、枢機卿が説教のときに広げるあの偉大なる経典に説かれているものとはまったく異なる楽園を見る。その楽園を見た者は、けっしてそれまで信じていた神をあざ笑うようなことはしないかわり、崇めることもなくなる。それから、そのひとの何かが少し、ほんの少しだけれど決定的に変わるという。たとえば今まで言わなかったことを言う。今までしていなかったことをする。そのひとの変化を、喜ぶ者もいれば怒る者もいるという。
僕は、何が変わるのだろう。
何より僕は、何故わざわざ向き合って呪文まで聞こうとしているのだろう。
王子さまは自分の背中に冷たい汗を感じました。そうです。王子さまはいつのまにか、彼らに会うだけではなく彼らの唱える言葉を、きちんと向き合って聞こうと決めていました。王子さまが父王さまと枢機卿に言い渡されたことは、彼らの様子を見て彼らの処遇を決めること。べつに王子さまが直接向き合わなくとも、それらの力の及ばない距離で観察して処遇を考えたってよかったのです。それを考えると王子さまは思わず、立ち止まりってしまいました。ごくり、と王子さまののどが鳴りました。
「 小説家さん? 」
めすのリスが少し心配そうに首を傾げてこちらを見ています。
でも僕は、知りたい。偉大なる教典には書かれていないという、その世界を。枢機卿の言葉に従っているだけでは、一生知り得ぬ世界を。
王子さまはにっこりと笑って
「 大丈夫だよ、なんでもない 」
とめすのリスに言ってやりました。めすのリスはその言葉に安心したのか、自分もにっこりとしてまた前を向き、小屋のとびらに声をかけました。
「 善き人にこそ幸いあれ。双子さん、お邪魔するわね 」
めすのリスはドアをノックした後、中にいる者の案内を待たずにドアを開けてしまいます。ドアを開けると、少し奥の方に人影が二つ見えました。しかし出迎えに近寄ってくるわけでも怯えてもっと奥に行くわけでもなく、ただそこにじっと動かず立っていました。背丈は王子さまより少し低いくらい。全身をすっぽりと黒いマントで包んでいて、頭にも大きなフードをすっぽりと被っています。
「 双子さん、この人はね、旅の小説家さんなのですって。珍しいお話を集めているそうよ 」
「 双子さんはお話はしないけれどね、ウタを聞かせてくれる。ウタだってきっと君の本を豊かにするだろうから、たっぷり聞かせてもらうといい 」
めすのリスが双子に説明すると、おすのリスは王子さまに向かって説明します。ですが、王子さまには、おすのリスのその言葉がよく理解できませんでした。おすのリスの言う 「 ウタ 」 というのは何なんだろう、と考えました。枢機卿がいう、双子が唱えるという呪文のことかしら、などと考えましたがそれでもまずは自分の口からも挨拶を述べなくては。そう思って一歩その双子の方に歩み寄りました。
次の瞬間、カタンというような音がして目の前にいる双子の口が大きく開きました。そして王子さまが驚いた瞬間、その口からとても普通の人の声とは思えない、そして二人で出しているとは思えない重なり合う音の流れが王子さまを飲み込もうとするように飛び出してきました。王子さまは思わず目を閉じ腕で顔を庇いました。音は次々と溢れてきて、王子さまの耳だけではなく体全体をさらうように流れていくのが目を閉じていても感じられました。まるで鉄砲水に飲み込まれて水が体にぶつかるみたいに、王子さまの全身に音がぶつかってきます。しかしやがてその音のぶつかり方が少し穏やかになってきたように感じられ、王子さまは目を開けました。そしてその途端、腰を抜かしそうになりました。
目を閉じる前は確かにあの双子の小屋の中にいたはずです。けれど王子さまが今いる場所は、あたたかい日の光に満たされたどこまでも遠くまで広がる草原でした。いつのまにか、あの音が体にぶつかってくるような感覚はすっかり消えています。代わりに草原にいるときに出会うような、頬を撫でる風の感触や草の香りを感じたのでした。恐る恐るしゃがんで足元の草に触れます。それはやっぱりしなやかな、王子さまのよく知っている草の葉の手触りでした。
ここは、どこなんだろう?
考えてみてもわかりません。けれどとても懐かしいような、自分のすぐ近くにずっとあった場所のような気がしました。王子さまはその心に任せて、草原を歩き始めました。歩いて歩いて、気が変わればそこに座って辺りの景色を楽しみます。ふと気が付くと、王子さまの隣にあの若い司書が王子さまと同じように、気持ちよさそうに風に吹かれて座っています。
君、どうしてこんな所にいるの?
王子さまはそう聞こうとして、やっぱりやめました。どういうわけかはわかりませんが彼女がそこにいるのが、とても当たり前のことに思えたのです。あとはただ二人、何にも言わずにただそよ風と日の光と、草の香りを感じていました。
やがて、一際強い風がさあっと吹きました。するとその風に乗って、草原に咲く小さな素朴な花の綿毛がいっせいに舞い上がりました。王子さまと司書は舞い上がる綿毛に肌をくすぐられて子どものように笑います。やがて沢山の綿毛は高く高く空へ昇って、見えなくなりました。
綿毛は、還ったのだ。
王子さまは何故かそんなことを思いました。花としてただ自然によく生きて、命をまっとうして、赦されて還った。それは良いとか悪いといった生き方ではなくて、命をまっとうしたということだろう。そんなことを、自然に悟りました。
やがて、王子さまは自分の体が浮き上がるのを感じました。司書を見ると、彼女はまだ浮き上がるときではないようでした。けれど穏やかに微笑んで王子さまを見守っています。それほど待たなくても、またすぐにお互い軽やかな綿毛になって、空で再会するのだとわかりました。そして、そのことをちっとも恐ろしく思いませんでした。それどころか生まれて初めてなぐらいに穏やかで、幸せなでした。いよいよその体は地面から離れて、風に乗り舞い上がりました。空がぐんぐんと近づいてきて、王子さまはすうっと目を閉じました。
目を開けると、王子さまは元通り双子の前に立っていました。いつのまにか、双子の口から溢れる音も止まっています。
「 小説家さん……? 」
めすのリスが心配そうに顔を覗き込みます。
「 僕は …… 今 …… 」
あの草原は、司書はどこに行ったのだろう。王子さまはぼんやりとそう考えていました。
「 おいおい大丈夫か?双子のウタがすごいのは知ってるけど、君、ウタを聞いている間ぴくりとも動かなくなってたよ。なんだか魂が抜けたみたいだったが …… 」
「 …… 僕、本当の魔法なんて初めて見た 」
王子さまはまだどこかぼんやりしたまま、そう呟きました。
「 魔法?そうだなあ、確かにあの二人の 『 ウタ 』 は魔法みたいにすごいもんな 」
「 なんだい、その 『 ウタ 』って 」
「 え?ウタはウタよ 」
「 だから、それが何だかわからないんだよ 」
「 小説家さん、まさか本当に、ウタを知らないの? 」
「 知らなかったよ。でも今のが『ウタ』ってやつなら、ようは魔法の一種ってことだろう? 」
王子さまがそう言うとリスの夫婦は心底驚いたという顔をしていました。その顔は、いつかリスの夫婦に 「 シュウキョウ 」 を知らないと言われた王子さまと同じ顔をしていました。そのうち王子さまが冗談を言っているのかと疑い始めましたが、どうやら本当に知らないのだと最終的には信じたようです。
「 歌が存在しない国ってのも、この世界にはあるんだな …… 」
おすのリスが感慨深げに頷きます。
それから夫婦は長い時間をかけて、彼らなりに言葉を尽くして王子さまに 「 歌 」 とはどういうものなのかを説明しました。時として奇跡のようなものを起こすこともあるけれど、魔法ではないこと。歌われる言葉は魔法の呪文ではなくて、王子さまが話すのと同じ言葉を使って作られていることなども説明しました。けれど夜の国にある小さな木の小屋から一瞬にして草原に飛ばされた王子さまには、いくら説明されても魔法としか思えませんでした。けれど、そんな王子さまにも確実に理解できたことがありました。
ーーー ウタというものは、枢機卿の言うように忌むべきものの類じゃない。旅に出る前に聞かされていたように偽りの楽園を見せるわけでもなかったし、この二人には教典が説く楽園を否定するだとか、そんな意図がわけでもない 。 ただ、聞いた人間はその楽園よりも本当に自分の心の底で思っていた、一番の幸せの形を引っ張り出されるだけなんだろう ーーー
王子さまの国の偉大なる教典は、教えに沿った行動をきちんと積んだ者がその命を終えたときに行くという楽園の存在や、その素晴らしさを説いています。きっと、それはそれで正しい楽園で、けれど自分がウタの中で見たものも、それはそれでまた一つの楽園なのだろう、そんなふうに受け止めたのです。
さて、リスの夫婦が言葉を尽くして説明している間、双子はぴくりとも動きませんでした。歌わないでいる間は、そこに夫婦や王子さまがいることをわかっているのかどうかもあやしく思えるほどでした。そんな双子の姿を見て、王子さまは
ーーー ああ、この二人には歌うことに悪意もない。そして、善意も。歌うことがこの二人に与えられた命の形だから、歌っているのだ。本当に、それだけなんだ ーーー
そんなふうに思いました。そうしてその瞬間、与えられた課題に提出する王子さまの答えが決まったのでした。




