幕間 曼珠沙華の谷
「 ここが、曼珠沙華の谷か …… 」
王子さまの目の前には、曼珠沙華の花が月の光に照らされて一面に咲いていました。王子さまの国にも秋になれば曼珠沙華が咲きましたが、こんなに沢山揃って咲いているのは王子さまも初めて見たのです。これだけ沢山あると、その花たちの風に揺られる音がまるで何か囁いているように聞こえて、この国で不思議なものを沢山見てきた王子さまも思わず息を飲みました。しばらく見とれたあと、王子さまはレンズ職人に頼まれたとおり袋の中身を花畑に撒きました。夜風に乗って虹色の粉が遠くまで飛んでいきます。
ふと空を見上げると、二つの月が夜空に掛かる虹を照らしていました。王子さまははっと職人の言葉を思い出します。
――― 月に虹が掛かるとき、その虹を渡って曼珠沙華の谷に死者が帰ってくる ――― もしそれが本当なら、ハルイチにもう一度会えるのかな。
王子さまにはそんなことはとても信じられませんでした。もし本当だとしても、それは不思議な夜の国の住民だけのことであって普通の世界からきた普通の人間である自分に、そんな奇跡は起こらないような気もしました。それにそんなこと信じて、もし見えなかったら。落ち込むだけではありません。あんなに切なく願ったことに期待させた、罪も無いレンズ職人を憎んでしまうかもしれないと王子さまは思いました。それがどれほど身勝手なことか、よくわかっていてもです。
それでも、今はきっと二度と手にできないかもしれないチャンスだ。
王子さまはそんなふうにも思ったのです。この国の、この谷に来られたこと。眼鏡を手に入れたこと。夜空に虹がかかっていること。恐らくは、王子さまの人生の中で二度と揃わないであろういくつかの条件が今、みごとに揃っていました。
震える手で、レンズ職人からもらった木の箱を開け眼鏡を取り出します。眼鏡には、死者が渡る橋になるというその虹と同じ色に輝くレンズがはまっています。深呼吸をし、心を決めて。眼鏡をかけてみた、そのときでした。
「 やれやれ。とうとう見つかってしまいましたな 」
王子さまの目の前にはいぶし銀の毛並みに白く長い眉毛を持った、老犬がおすわりをしていました。ため息交じりの喋り方とは裏腹に、尻尾はふさふさと振られています。
「 ハルイチ!おまえ、どうしてこんなところに、っていうか、なんで喋って …… 」
「 坊ちゃま 」
一度に沢山湧き上がった疑問に呑まれている王子さまに、老犬がぴしゃりと声をかけます。
「 私がここにいるのは当然のことですぞ。私めは坊ちゃまの犬なのですから。いつもお側にいるのが私の存在意義です。喋ってるのはちょっとした年の功というやつです …… と、言いたいところですけどな。こんな所までお供ができたのも、こうして坊ちゃまに直接語りかける言葉を持てたのもきっとそれのおかげですじゃ 」
そう言って老犬は王子さまの胸元のお守りを前足で指しました。
「 そのお守りに付いている石は、私の骨の一部でしてな。自分の体のことは自分が一番良くわかるものでしてな。私にとっての最後の秋、坊ちゃまが次の春に王になるための試練の旅にお発ちになられると聞いたとき 」
淡々と語りながら、老犬の瞳は不思議に澄んでいきます。
「 ――― 私は、自分の老いた体ではご帰還をお迎えすることはできないと悟りました。かといって、お供するにもこの老いぼれた体では足手まといになってしまう。だから、私は最期を迎えるとき、残り全ての力を振り絞って庭師のところへ行き、頼んだのですじゃ。私の魂がこの体を離れたときには、それでも坊ちゃまのお傍にいられるようにしてくれと。あの庭師は、獣たちの魂ととても近いところにいる一族の出身でしてな。あの世界では私は言葉こそ話せませなんだが、しかしきちんと心を汲み取ってくれた。あれは、もののわかる心優しい男です 」
城を発つ日。真っ黒なひげを強情そうに伸ばした赤銅色の庭師の顔。その顔のぎょろりとした目に涙を浮かべて旅の無事を祈る言葉を口にしながら、庭師はこのお守りをくれたのでした。
王子さまは胸が一杯になって、あとはもう何にも言えなくなってしまいました。何も言わずに、老犬をただ抱きしめました。その王子さまの頬を流れる涙を、老犬は自分も王子さまも子どもだった頃のようにぺろぺろとなめます。
「 坊ちゃま。私が姿を現して言葉を話すことができるのは、この不思議な谷だけです。けれどいつでもお傍にいることをお忘れなきように。私はいつまでも、ぼっちゃまの犬でありますぞ 」
そう言うと、老犬は昔よくそうしてじゃれたときのように王子さまの胸に向って跳ねました。そして王子さまのお守りの中に、吸い込まれるように入っていったのでした。
「 ハルイチ …… 」
ハルイチがお守りの中に入って姿を消した後も、王子さまはしばらく曼珠沙華の花畑の中に座っていました。一部始終を見守っていたリスの夫婦は、そんな王子さまにそっと寄り添って声をかけます。
「 小説家さん。誰か、とっても大事な人に会えたのね 」
リスの夫婦は眼鏡をしていなかったので、老犬の姿は見えなかったのです。けれど王子さまの様子だけ見ていれば、どれだけ大事な相手が現れたのかはわかります。
「 君、この谷は風が少し冷たい。今日はもう疲れただろう?僕らの家で一度休むといい 」
「 家に着いたら果実酒を温めて出してあげるわ。あと、こないだもらったお餅屋さんのクルミ餅が残っているから焼いてあげる。双子の家は、その後にお邪魔しましょう 」
そう言って、小さな小さな前足で二人ともそっと王子さまの背中をずいぶん永い間、撫でてあげました。夜空ではそんな三人を見守るように、二つの月が輝いていたのでした。




