起 - ミユウとマリカ
2071年 1月下旬。横浜の空は雲ひとつない青空で、風は冷たく乾燥していた。
ここは神奈川県立横浜中央高校。2030年代、少子化に対応するため、付近のいくつかの県立高校を統合して作られた学校だ。
校舎の壁は一見すると重厚な木材のようだが、暗褐色の太陽光発電パネルである。
その壁で作られた電気は、たとえば教室内のエアコンに使われる。
しかし、たった今エアコンを起動したばかりなので、まだ化学室は寒かった。
.oO(うー、今日も しばれるねぇ。)
化学室では一人の少女が椅子に座り、手を制服のスカートの下に挟んで暖めつつ、かじかむ足首やつま先を落ち着きなく動かしていた。
サカタ・ミユウ(坂田 美優)、料理部の1年生。玉子型の顔は、年相応の幼さを残している。暗褐色の髪はセミロングで、今日はポニーテールにしている。高1女子としては平均的な体型をしているが、冬服を着ているので体型は隠れている。
ミユウが座っている化学室の一角は、料理部の活動場所として割り当てられている。4人席ほどの広さの机には、化学室の机としては標準的な、ガスバーナーや水道が内蔵されている。
机の上には、化学室の机には不釣り合いな、ティーサーバーが置かれていた。白を基調にしたデザインの家電である。机に置くとミユウの顔くらいの高さになる。それがモーターを唸らせてセラミック臼で緑茶を粉に挽き、熱い湯とミルクで混ぜて泡立て、カップに抹茶ラテを注いだ。
ミ.oO(いや知ってるよ? これが本当の抹茶じゃないってことは。)
ミユウはティーサーバーの横にあるガラス瓶を開け、そこからゼロカロリーの人工甘味料をスプーン一杯、カップに入れた。
料理部用の机は窓際にある。窓のそばには、他にも化学室には不釣り合いなものが置かれている。
食器棚。冷蔵庫。食器洗い機。
冷蔵庫のドアはフレキシブルディスプレイになっていて、庫内の食材が見えるようになっている。その画像を覆い隠すように、大きなゴシック体の文字でテキストウィンドウが表示されている。その内容は、
【!!料理部専用!! - 在庫の変化はリアルタイムで部員・顧問に送信されます】
ようやく暖房が効き始めたころ、廊下のほうから物音が聞こえて、化学室のドアが開いた。がさがさとバイオビニール袋の音をたてて入ってきたのは、少年のような外見の、しかし女子の制服を着た生徒だった。
エノモト・マリカ(榎本 真理香)である。
ミユウと同じ一年生。体は細身で身長は170cmを越える。髪は黒のショートで、わざとくせをつけてワイルドなボリューム感を出している。顔つきも鋭角的で、女子らしさを残しているのは目と唇の丸みだけだ。
マリカは手に持ったビニール袋を掲げて、満足げに言った。
マ「今年も大量に取れたよ。」
袋の中には金柑の実が入っていた。直径3cmほどの柑橘類の黄色い果実。それが両腕で抱えるくらいの量、ひとつの袋に入っている。マリカはその袋を左右の手にそれぞれひとつ、計2つ持っている。
ミユウは抹茶ラテから口を離し、ちょっと眉を上げて驚きを表した。
ミ「すごいね。何キロくらい?」
マリカは手にかかる重さを推測した。
マ「片方が…3キロくらい。ふたつで6キロ。」
マリカは金柑の袋を机に置いた。手を放すと果実の重みで袋がひしゃげ、実がこぼれそうになった。
ミ「あっ…これでいいかな?」
ミユウは壁際の棚から大きなボウルを2つ取り出し、机に置いた。
マ「さんきゅ。」
マリカは袋ごとボウルに入れた。ボウルの形が袋を支えるので、手を放しても実がこぼれなくなった。
マ「いまミユさ、すごいエスパーだったよね。うちが金柑の袋 置こうとして、だめだボウルかザルが必要だ、と思ったら、もうミユがボウル出してた。」
ミ「おー、そうかも。マリカとは何ヶ月も一緒に部活やってるからねー。」
マリカがティーサーバーからストレートの緑茶をカップに受けて、葉の香りを嗅いでいる。
それを見ながら、ミユウは、自分のポニーテールの髪先をいじった。
マリカは視線に気付いて、
マ「ん?」
ミ「マリカの髪ってさ…たしか本当はまっすぐなんだよね。」
ああこれか、といった表情で、マリカは癖をつけた黒髪を触る。
そんなマリカを見て、ミユウは教室での雑談を思い出した。
ミ.oO(クラスの女子が…恋愛動画の定番「壁ドン」…美少年がヒロインを壁際へドン!と追い詰めて、「オレ以外の男と しゃべんじゃねーよ」とか「好きって言うまで逃さない」とか言うシーン…で誰がいいかって話になって…なぜかマリカが その美少年役にふさわしいって結論になったんだよね…美少年風なのは否定しないけど、私の部活の友達を、そういうネタにされるのは嫌だな。)
そんなミユウの脳内を知らず、マリカは答える。
マ「まっすぐな黒髪でショートにすると、日本人形みたいな おかっぱか、亀の頭みたいになるんだよね。」
ミ「そっか。あんまり気に入らなかったんだ。」
ミユウがふと窓の外を見ると、上から青いホースが垂れてきた。顔を窓に近づけてホースの行き先を目で追うと、地上から身振り手振りで合図を送る人間がいた。学校の制服を着た男子生徒で、黄色いヘルメットをかぶっている。その生徒は屋上に向かって合図を出しているから、屋上にも仲間がいるのだろう。
ミ「あれは…何だろ? 生徒会?」
マ「いや、あれも部活だよ。たしか…電気部って言ったっけ。」
ホースは横に移動され、窓から見えなくなった。マリカは窓を開けて窓の横の壁を見た。ミユウも隣に並んで覗き込む。
暗褐色の壁には、太ったヤモリのような形の、直径25cmのロボットが貼り付いて、垂直な面を自由自在に動き回っている。ときおり上から垂らされたロープのところまで行き、水を補給する。
マ「ああやって壁の発電パネルを掃除してるんだ。」
ミ「ふーん…わかったから窓閉めようよ。寒い。」
2人で茶を飲み終わってから、マリカが立ち上がった。
マ「さて、先輩たちが来る前に、水洗いだけやっとこうか。」
ミ「おー。」
それぞれ棚からザルを取り出し、水道の下に置いた。
水道のレバーを倒した。蛇口根元のパネルには「30℃」と表示されている。床に埋設されて見えないが、冷水のパイプと熱水のパイプがあり、熱水は西地区コジェネセンターから送られてくる。温度センサの値をもとに冷水・熱水の流量が制御され、蛇口から設定温度±0.5℃以内の ぬるま湯が出てきた。
ぬるま湯がミユウの手に当たり、かじかんだ指を溶かしていく。