第二章 存在しないはずの記録
※この物語は、とある大学生の体験談をもとに構成されています。
その日の夜。僕は大学の友人であり、民俗学ゼミで古い資料の扱いに慣れている千彰をアパートに呼び出した。
昼間、父親が呟いた「誰も、知らなかった」という言葉が、どうしても耳から離れなかったからだ。
「……なるほど。これがその『育児日記』か」
千彰は眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、僕が机に置いた和綴じのノートを興味深そうに見つめた。 部屋の隅に置いた扇風機が、首を振りながら生温かい風を送っている。
「父さんのあの様子、絶対に何かを知っているか、逆にものすごく恐ろしいことに気づいてしまったかのどちらかだと思うんだ。気味が悪くて、一人じゃ開けられなくてさ」
「賢明な判断だよ。じゃあ、開けてみよう」
千彰が手袋をはめた手で、そっと表紙をめくった。 ページから、古い紙特有のツンとした匂いが鼻を突く。
最初の数ページには、祖父のあの几帳面な筆跡で、赤ちゃんが生まれた時の喜びや、日々の成長が淡々と綴られていた。
『◯月◯日、待望の男の子が生まれた。名前は陸。元気に育ってほしい』『◯月◯日、初めて寝返りを打った。娘(母さん)も大喜びだ』
「なんだ、普通の日記じゃないか。僕の赤ん坊の頃の……」
ホッと胸をなでおろしかけた僕の横で、千彰がピタリとページをめくる手を止めた。 彼の目が、信じられないものを見たかのように見開かれている。
「……いや、おかしい。陸、君の生年月日は何年何月だっけ?」
「え? 2006年の7月14日だけど」
「そうだよね。君は今、二十歳の大学生だ」
千彰はノートの最初のページを指差した。
「この日記の最初のページを見てみろ。ここに『平成九年(1997年)七月十四日、陸が生まれた』って書いてある」
「え……?」
頭の中が真っ白になった。 平成九年? 1997年? 計算が合わない。もし僕が1997年生まれなら、今は二十歳どころか、もうすぐ三十歳になっていなければおかしい。
「書き間違い……じゃないよね、祖父さん幾帳面だったし」
「それだけじゃない」
千彰はさらにページをめくっていく。 日記は、その「1997年生まれの陸」が五歳になるまで、細かく、愛情を込めて続けられていた。 そして、2002年の夏休みのページで、日記は突然途絶えている。
そこから数十ページ、真っ白な空白のページが続いた後――。 唐突に、また日記が再開されていた。
『2006年7月14日。 今日、二度目の陸が生まれた。今度こそ、あんなことにはさせない』
「二度目の、陸……?」
声が震えた。2006年7月14日。それは、僕の本当の誕生日だ。
千彰が僕の顔をじっと見つめた。その目は、冷徹な事実を突きつけようとしていた。
「陸。君の前に、もう一人の『陸』がいたんだ。 そして、お父さんが言った『誰も知らなかった』という言葉……。
もしかして、お父さんや君の母親は、『最初の陸』が死んで、今の君にすり替わったことを、本当に『誰も知らなかった』んじゃないか?」
二度目の陸とは、一体どういう意味なのか。次回、二人は真相を確かめるため、かつて祖父が暮らしていた古い家へと向かいます。(第3章「過去の答え合わせ」へ続く)




