第36話 黒いコート ~side Yui~
崩壊する旗艦通路。火花。警報が響く。
赤い非常灯。その奥に、黒い輸送艇が見えていた。
ラスト・オーダー側回収艇。そのハッチ前。
黒いコート姿の男が静かに立っている。
顔はまだ見えない。しかし、その存在だけで空気が変わっていた。
『決めて、ユイ』
レータの声が響く。同時に。
『戻って来い』
レグナートの低い声も重なる。そして通信越しに聞こえるカイトの声。
『ユイ!』
全部が交差する。ユイは小さく息を呑んだ。
その時だった。ベヒモスが再び咆哮する。
轟音が響く。巨大な腕が通路を薙ぎ払った。
爆発音が響いた。兵士達が吹き飛ばされる。
通路壁が崩壊し、真空警報まで鳴り始めた。
もう旗艦内部は限界だった。レオンが叫ぶ。
「総司令官、退避を!」
だがレグナートは動かない。視線はベヒモスへ向いたままだった。
「……まだだ」
低い声だった。その姿を見て、ユイは理解してしまう。
この男は。ベヒモスを止めるつもりが無い。
完成させるつもりなのだ。その時。ラスト・オーダー側回収艇前の男が、ゆっくり一歩前へ出る。
黒いコートが揺れた。ようやく顔が見える。
若い男だった。灰色の髪。鋭い目。そして、異様なほど静かな表情。
その視線が真っ直ぐユイを見る。ユイの胸が僅かにざわつく。
初対面のはずだった。なのに。妙な感覚があった。
男は静かに通信を開く。
『……初めまして、PT-Y01』
低い声だった。落ち着いている。しかし、その奥に妙な重さがある。
ユイは小さく目を細めた。
「あなたが……隊長?」
男は小さく頷く。
『カイル』
短い返答。そして、少しだけ間を置いて。
『カイル・アストラ』
そう名乗った。レータが肩を竦める。
『うちの隊長』
セラが小さく呟く。
「……この人が」
その時だった。ベヒモスの腕が再び振り下ろされる。
轟音が響く。今度は通路床が崩れた。兵士達が悲鳴を上げる。
レオンが舌打ちした。
「クソッ!」
その隙に、カイルが静かにユイへ手を伸ばす。
『来るなら今だ』
短い言葉。強引さは無い。選択を押し付けてもいない。
しかし、その声には妙な説得力があった。
ユイは迷う。地球へ戻るべきか。帝国へ残るべきか。
それとも。その時。カイトの通信が再び届く。
『ユイ!』
ノイズ混じりの声。
『生きて帰ってこい!』
その瞬間。ユイの目が揺れる。帰る。
その言葉が胸へ刺さった。帝国ではない。
戦場でもない。帰る場所。その感覚を思い出してしまう。
玲奈。カイト。ミオ。地球で過ごした日々。
短い沈黙。そして、ユイは小さく拳を握った。
次の瞬間。ベヒモスが完全に拘束を破壊する。
轟音が響く。巨大な咆哮が旗艦全体を震わせた。
同時に。レグナートが初めて笑う。
「……素晴らしい」
狂気じみた声だった。ユイの背筋が凍る。
そしてカイルは、そんなレグナートを静かに見つめながら低く呟いた。
『やっぱり、あんたは止まらなかったか』
その声だけが、不思議と冷えていた。
旗艦内部が崩壊していく。警報が響く。
爆発音が響いた。軋む金属音。その全てを掻き消すように、ベヒモスの咆哮が響いていた。
巨大な怪物が、拘束を完全に破壊する。
培養槽が砕け散った。黒い液体が滝のように流れ落ちる。
兵士達が逃げ惑う。誰も制御できていない。
それでも、レグナートだけは笑っていた。
「……素晴らしい」
狂気じみた声。ユイはその姿を見て、ようやく理解する。
この男は、最初から止まるつもりが無かった。
ベヒモスも。PT計画も。全部。戦争を進めるための手段でしかない。
その時だった。ベヒモスの巨大な眼が動く。
赤い光。それが、ゆっくりユイ達のいる通路を向いた。
空気が凍る。次の瞬間。巨大な腕が振り下ろされた。
轟音が響く。通路が崩壊する。レオンが叫ぶ。
「散開しろ!」
全員が咄嗟に飛び退く。爆炎。熱風。
ユイも後方へ跳んだ。しかし、着地した瞬間に気づく。
床が崩れている。下は、旗艦中央シャフト。
数百メートルはある奈落だった。ユイの身体が傾く。
「っ――」
落ちる。そう思った瞬間。誰かが腕を掴んだ。
強い力。ユイが目を見開く。黒いコート。
カイルだった。彼は片手だけでユイを引き上げる。
「……危なかったな」
静かな声だった。ユイは一瞬言葉を失う。
その時。ベヒモスが再び咆哮する。今度は近い。
巨大な頭部が通路壁を突き破り始めていた。
兵士達が悲鳴を上げる。レオンも舌打ちする。
「もう限界だ!」
レータが即座に叫ぶ。
『隊長、撤退する!』
アシュのネヴァも後退を始める。ラスト・オーダー側は完全に離脱態勢へ入っていた。
だがユイは動けなかった。視線が揺れる。
帝国。ラスト・オーダー。地球。
どこへ向かうべきなのか、ユイにはまだ分からない。
その時だった。通信越しに、再びカイトの声が聞こえる。
『ユイ!』
ノイズが酷い。それでも必死に呼んでいるのが分かった。
『返事しろ!』
その声を聞いた瞬間。ユイの胸が熱くなる。
帰る場所。さっきカイトが言った言葉。
それが頭から離れなかった。その時、カイルが静かに口を開く。
「お前は、まだ迷ってる」
ユイが振り返る。カイルは静かな目でこちらを見ていた。
責めるでもない。急かすでもない。ただ事実を言っているだけだった。
そして続ける。
「なら今は決めなくていい」
ユイの目が揺れる。
「……え?」
カイルは崩壊していく旗艦を一瞥した。
「今のお前は、どこにも立ち切れてない」
低い声だった。
「帝国にも地球にも、俺達にもな」
レータが小さく笑う。
『珍しく優しいわね、隊長』
カイルは無視した。代わりにユイへ小さな端末を投げる。
ユイは反射的に受け取る。黒い小型デバイスだった。
「必要になったら使え」
短い言葉。その瞬間。艦全体を揺らすほどの爆発が起きる。
ベヒモスだった。ついに上層区画へ侵入したのだ。
警報音が一気に激しくなる。
『旗艦構造維持限界!』
『全員退避!』
レオンがレグナートへ叫ぶ。
「総司令官!」
だがレグナートは動かない。ただ、巨大なベヒモスを見上げていた。
その姿を最後に。カイルが静かに後退する。
「行くぞ」
ラスト・オーダー側GD群が一斉に移動を開始した。
レータ。アシュ。ネヴァ。そしてカイル。
黒い影達が、崩壊する旗艦奥へ消えていく。
去り際。カイルだけが一度振り返った。
そして小さく呟く。
「……帰る場所、か」
その声は、どこか遠くを見るようだった。




