第352話 帝国本国への報告
帝都ネメシアの朝は、常に正確だった。
光量は定められた時刻に変わり、空調は区画ごとに最適化され、軍港レグナリアから送られてくる艦隊運用記録も、カルディア・ベイの建造進行報告も、ほとんど秒単位のずれなく中枢へ届く。
それが、帝国本国圏の秩序だった。
少なくとも、リゼル・オルブライトはそう教えられてきた。
外交観測局の中枢記録室には、無数の報告窓が並んでいる。
外宇宙観測艦隊からの文明評価。
管理外宙域の航路記録。
協定文明からの返答。
属領文明の安定指数。
そして、ネメシス帝国が「地球」と分類した星々の観測更新。
リゼルはその中で、アース・エデン接触記録の再整理を行っていた。
帝国式の接触記録としては、アース・エデンは扱いづらい世界だった。
明確な敵意がない。
嘘という概念への反応が弱い。
命令よりも同意に近い支援構造を持つ。
文明としての危険度は低いが、帝国式認証にそのまま組み込むには不安定要素が多い。
そう判断し、彼は報告書の一部を修正していた。
その時だった。
記録室の照明が一瞬だけ暗くなった。
続いて、壁面に並んでいた認証光が、ひとつずつ黄色へ変わる。
リゼルは手を止めた。
「……本国認証網の遅延?」
ありえない、とまでは思わなかった。
ネメシア本国圏でも、局所的な通信遅延や観測系の乱れは起こる。
だが、次に表示された文字で、彼の呼吸がわずかに止まった。
『命令層中枢、応答途絶』
その表示を見た職員の一人が、短く声を上げる。
「確認を。どこの支局ですか」
「支局ではありません。中枢本体です」
「そんなはずはない。命令層中枢は外縁の監察局管轄だろう。停止権限は――」
「停止ではありません。応答途絶です」
記録室の空気が変わった。
静かだったはずの室内に、通信要求と確認音が重なり始める。
リゼルは立ち上がり、自分の端末へ権限を通した。
「一次報告をこちらへ。監察局経由だけではなく、通常軍回線、外縁方面軍回線、中央認証網の三系統で照合してください」
近くの官僚が振り向いた。
「リゼル観測官。これは監察局の事案です。外交観測局が先に触れるべきではありません」
「命令層中枢が本国認証網へ影響する可能性があるなら、外宇宙観測局も無関係ではありません」
「ですが――」
その言葉を遮るように、二つ目の報告が届いた。
『再同期基盤、隔離』
『監察局管理者オルフェン、拘束』
『観測ログ、欠損』
『対象A、自己応答保持』
『対象Y、命令層接続切断』
『外部支援網、ルナ・ドール・リンク実戦投入確認』
『防壁反応、セレス・バスティオン実戦展開確認』
『外縁方面軍レオン隊、監察局越権記録を保全』
誰もすぐには言葉を発しなかった。
報告の意味が、単なる敗北では済まないことを全員が理解していたからだ。
命令層中枢が止まった。
再同期基盤が隔離された。
監察局の観測ログが欠けている。
そして、対象Aが自己応答を保持した。
それは、帝国の分類ではありえない結果だった。
「対象A……?」
中枢官僚の一人が、信じられないという声でつぶやく。
「A系列は、L系列欠損補完のための支援個体だ。自己応答保持など、主目的ではない」
「対象Yによる命令層接続切断、という記述もあります」
「対象Y……ユイか」
「名前で呼ぶな。報告上は対象Yだ」
そのやり取りに、リゼルはわずかに眉を寄せた。
名称にこだわっている場合ではない。
問題は、誰が何をしたかではなく、帝国の命令層が何を失ったかだった。
別の通信窓が強制的に開く。
監察局残存部門からだった。
『本件は監察局内の局所的な観測事故である。中枢記録への拡散を制限し、対象Yおよび対象A関連の未確定情報を封鎖する』
リゼルは即座に、通信記録へ保全印を付けた。
「封鎖要求の発信元を記録」
「よろしいのですか」
「監察局観測ログが欠損している状況で、監察局自身が情報封鎖を要求しています。記録しない理由がありません」
監察局側の声が硬くなる。
『外交観測局に本件への判断権限はない』
「判断権限はありません。照合権限はあります」
『この件は監察局管轄だ』
「その監察局の管理者が拘束されています」
室内が静まり返った。
リゼル自身も、自分の声が思った以上に冷えていることに気づいた。
動揺していないわけではない。
むしろ、心臓は早く打っている。
命令層中枢は、帝国の奥にあるものだ。
それが止まったという報告は、ひとつの施設が落ちたという意味ではない。
帝国が、命令で繋いでいたものの一部が、切られたということだった。
通常軍連絡官からの照会は、監察局より遅れて届いた。
しかし、その内容は監察局の報告より具体的だった。
『外縁方面軍第七機動戦隊、レオン指揮下より照会。監察局による通常軍通信系への過負荷命令、無人機盾運用、監察局端末保護優先命令、ならびに通常軍犠牲前提の防衛転用指示について、本国側記録照合を要求』
リゼルは目を細めた。
レオン。
外縁方面軍の前線司令官。
ルクス・ヴァルキュリアと交戦し、アミィ回収戦以降も防衛線を維持していた人物。
そのレオン隊が、監察局の越権記録を保全している。
これは、単なる前線の混乱ではない。
通常軍と監察局の間に、明確な裂け目ができたということだ。
「通常軍照会を中枢保全記録へ転写してください。監察局の削除要求が入る前に」
「本当にそこまでしますか」
「しなければ、後でどの記録が欠けたのか分からなくなります」
リゼルは端末を操作し、三系統の記録を並べた。
監察局の報告。
通常軍の照会。
中枢認証網の異常記録。
どれも完全ではない。
どれも一部が欠けている。
しかし、欠け方が違う。
監察局の報告は、都合の悪い部分を閉じようとしている。
通常軍の照会は、現場の被害を残そうとしている。
中枢認証網の記録は、命令層停止の波及を機械的に示している。
リゼルは、小さく息を吐いた。
「監察局の報告だけでは判断できません」
その言葉に、背後の中枢官僚が顔をしかめた。
「それは、監察局への不信任と受け取られかねません」
「不信任ではありません。不完全な情報系に依存しないというだけです」
「同じことです」
「違います」
リゼルは振り返った。
「帝国を守るなら、壊れた記録を壊れていないものとして扱ってはいけません」
官僚は沈黙した。
別室では、中枢派の官僚達がすでに騒ぎ始めていた。
命令層中枢停止。
再同期基盤隔離。
対象A自己応答保持。
対象Yによる命令層切断。
そのどれもが、帝国の認証体系にとって危険な言葉だった。
「ネメシア本国認証網への逆流は」
「現在は遅延のみ」
「レグナリア軍港側は」
「一部防衛認証に再照会が発生」
「カルディア・ベイは」
「建造記録の一部が保留状態です」
「インペリウム関連封鎖は」
「確認中」
その単語が出た瞬間、室内の声が落ちた。
インペリウム。
帝国本国中枢の奥に封鎖された最終防衛機構。
皇帝専用機ではない。
監察局の機体でも、通常軍の機体でもない。
帝国本国認証網、命令層残滓、中枢防衛システムを統合する、最後の防壁。
リゼルは、その名を聞いて初めて、指先が冷たくなるのを感じた。
「まだ、そこを動かす段階ではありません」
彼ははっきりと言った。
中枢派の一人が、苛立ったように応じる。
「命令層中枢が停止したのだぞ。本国認証網が揺らげば、ネメシアそのものが危険に晒される」
「だからこそ、確認が必要です。何が止まり、何が残り、どの系統が汚染されていないのかを分けなければならない」
「悠長なことを」
「確認なしに防衛網を再接続すれば、監察局が失った再同期系統まで本国へ引き込む可能性があります」
その言葉に、中枢派の官僚は黙った。
リゼルは画面へ視線を戻す。
命令層中枢は止まった。
だが、帝国本国はまだ動いている。
ならば、今するべきことは一つだった。
「ネメシア本国認証網の緊急確認を開始します」
「外交観測官の権限でか」
「外宇宙観測局の文明分類記録、外交接触記録、地球系文明認証履歴、協定文明接続記録を照合に使います。命令層中枢停止が外宇宙認証に波及するかどうかを確認するためです」
「それは、建前だな」
「必要な建前です」
リゼルは認めた。
今、正面から監察局を疑えば、帝国中枢はさらに割れる。
通常軍の照会を無視すれば、現場の反発は強まる。
中枢派の恐怖に任せて認証網を再接続すれば、ネメシア本国が何を取り込むか分からない。
ならば、外交観測局の権限で、外宇宙認証の安全確認という名目を立てる。
それが、彼にできる範囲の最善だった。
監察局残存部門から、再び通信が入る。
『対象A自己応答保持の記述は未確定情報である。削除を要求する』
「却下します」
『外交観測局に却下権限はない』
「削除権限もそちらにはありません。観測ログが欠損している以上、現時点の報告は未確定情報として保全します」
『対象Yによる命令層接続切断は、敵性工作と判断される』
「その判断記録も保全します」
『レオン隊の越権記録は、通常軍による監察局権限侵害の可能性がある』
「それも保全します」
『貴官は、すべてを記録するつもりか』
リゼルは一瞬だけ黙った。
すべてを記録する。
それは本来、イリス型や観測艦隊の仕事に近い。
だが、今は違う。
これは観測ではない。
帝国が自分の欠損を見失わないための作業だ。
「欠けた記録を、さらに欠けさせるつもりはありません」
そう答えた時、リゼルはようやく自分が震えていることに気づいた。
恐怖か。
怒りか。
それとも、帝国の中枢に穴が開いたことへの本能的な焦りか。
自分でも分からなかった。
ただ、ひとつだけ分かっていた。
命令層が止まったという報告を受け取った瞬間から、帝国はもう、昨日までと同じではいられない。
ネメシア本国中枢の奥で、認証網が再照合を始める。
帝都。
中央軍港レグナリア。
巨大建造ブロック、カルディア・ベイ。
外宇宙観測局。
中央軍司令系統。
監察局残存部門。
皇帝府。
それぞれの記録が、互いを確認し、互いを疑い始める。
帝国は巨大だった。
巨大であるがゆえに、一度揺らげば、どこが軋んでいるのかすぐには分からない。
リゼルは表示される認証図を見上げた。
命令で繋がれていた線の一部が、明らかに途切れている。
そして、その途切れた線の先に、保護済み記録という見慣れない表示が残っていた。
「命令層が止まったなら」
リゼルは静かに言った。
誰に向けた言葉でもなかった。
だが、記録室にいた全員が、その声を聞いた。
「次に守るべきは、ネメシア本国中枢だ」
誰も反論しなかった。
次の瞬間、ネメシア全域へ緊急確認命令が走る。
それは戦闘命令ではない。
出撃命令でもない。
粛清命令でもない。
帝国が、自分自身の傷を確認するための命令だった。
ネメシア認証網の緊急確認が始まった。




