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第164話 届かない音

 ノア・ドックの第一段階改修が、ようやく完了した。

 ルクス・ヴァルキュリアの巨大格納区画では、クロウヴェイル・ノアが新しい接続緩衝フレームに固定されている。

 以前のドックは、艦を収容し、修理し、補給するためのものだった。

 今は違う。

 クロウヴェイル・ノアとルクス・ヴァルキュリアを接続する部分には、帝国式認証を直接流し込まないための独立遮断層が追加されていた。

 さらに、その外側には、アース・エデンから得たハーモニア式負荷分散制御が組み込まれている。

 接続時の衝撃。

 艦体姿勢のずれ。

 エネルギー流路の偏り。

 通信同期の負荷。

 それらを一箇所に集めず、複数の流れに分けて受け流す。

 支配ではなく、支援。

 固定ではなく、緩衝。

 エデンで学んだ考え方が、巨大なドックの構造として形になり始めていた。

 リンはドック管制台の前で、疲れ切った顔をしていた。

「第一段階、完了です」

 その声には達成感よりも、眠気が混じっている。

 グリッドが隣で腕を組む。

「完了と言っても、接続緩衝フレームと遮断層の初期調整までだ。まだ本格運用には早い」

「分かってます。分かってますけど、今は完了って言わせてください」

 リンは管制台に突っ伏しそうになりながら言った。

 通信画面には、クロウヴェイル・ノアの艦橋にいるカイルが映っている。

『こちらの接続負荷も安定している。以前より揺れが少ないな』

「それが目的です」

 リンは少しだけ顔を上げた。

「低空回収後にドックへ戻ってきた時、艦体負荷が一気にルクス側へ流れ込むのを避けます。クロウヴェイル・ノア側にも、ルクス側にも優しい設計です」

『俺にも優しいか?』

「艦長の無茶には優しくありません」

『残念だ』

「残念がらないでください」

 そのやり取りに、近くにいた整備員達が小さく笑った。

 だが、全員が分かっている。

 この改修は、冗談で済むものではない。

 アース・ネメシスでは、クロウヴェイル・ノアは無理な低空回収を行った。

 アース・エデンでは、偽装支援ドローン群の誘導と回収を行った。

 次の未知宙域では、何が起こるか分からない。

 戻れるドック。

 負荷を逃がせる接続。

 危険な規格を直結しない遮断層。

 それらがなければ、次へ進むのは危険すぎる。

 ジンが通信越しに確認する。

『ノア・ドック第一段階の完了を正式に記録する。ただし、第二段階以降が終わるまでは、未知宙域への長距離偵察は許可しない』

 カイルは頷いた。

『了解した。クロウヴェイル・ノア側も、回収支援艦としての追加調整を続ける』

「お願いします」

 リンは端末を操作し、次の項目を表示した。

 第二段階。

 帝国式認証遮断層の実稼働試験。

 第三段階。

 ハーモニア式負荷分散制御の高負荷接続試験。

 第四段階。

 損傷機体回収シミュレーション。

 第五段階。

 通信遮断時の自動帰還手順。

 カイトはその一覧を見ながら、思わず息を吐いた。

「まだまだありますね」

 リンがじろりと見る。

「ありますよ。未知宙域に行くなら、これくらい当然です」

「すみません」

「謝らなくていいです。手伝ってください」

「俺にできることなら」

「余計な改造をしないことからお願いします」

 ユイが隣で小さく笑った。

「それ、前も言われてた」

「信用がない」

「安全確認は必要」

 エデンで覚えた言葉を、ユイは少し得意げに使った。

 カイトは肩をすくめる。

「はい。確かめてください」

 その時、解析室から通信が入った。

 イリスの声だった。

『ナユさんの準備ができました。アース・アンノウン関連信号の確認を開始できます』

 その一言で、空気が少し変わる。

 ノア・ドックの改造は進んだ。

 だが、まだ未知へ向かう段階ではない。

 それでも、情報整理だけは続けなければならない。

 カイトとユイは、リン達に軽く会釈して解析室へ向かった。

 解析室では、すでにリクト、イリス、ナユが待っていた。

 中央の投影装置には、アース・エデンの古い観測記録から抽出された信号が表示されている。

 分類不能。

 未確認地球系文明候補。

 接触保留領域。

 ネメシス側資料では、参照痕跡のみ。

 そして、仮称。

 アース・アンノウン。

 ナユはその表示を前に、少し緊張した表情をしていた。

 彼女は戦闘要員ではない。

 だが、これまで何度か、普通の観測機器では拾えない違和感を言葉にしてきた。

 アース・ネメシスでは、名前をかぶせる音を感じた。

 アース・エデンでは、複数の声がぶつからずに重なる感覚を受け取った。

 では、アンノウンの信号には何があるのか。

 カイトは慎重に声をかけた。

「ナユ、無理しなくていいからな」

 ナユは小さく頷いた。

「はい。深く聞くのではなく、表面だけ確認します」

 カナデも通信越しに参加していた。

『少しでも不快感が強くなったら、すぐに中断してください』

「分かっています」

 イリスが操作を始める。

「信号再生は、通常音声ではありません。通信波形をナユさんが認識しやすい形式へ変換します。ただし、意味解析は行いません」

 リクトが補足する。

「無理に意味を読もうとしない方がいい。まずは、どんな性質の信号なのかを見るだけだ」

 ナユは目を閉じた。

 解析室の照明が少し落ちる。

 投影装置に、波のような光が浮かび上がった。

 音はほとんど聞こえない。

 だが、空気がわずかに震えたような気がした。

 カイトには、それが信号なのか、自分の緊張なのか分からなかった。

 ナユの表情が、少しだけ変わる。

 眉が寄る。

 けれど、怯えではない。

 困惑に近かった。

「……変です」

 ナユが呟いた。

 イリスが記録を開始する。

「どのように変ですか?」

「音が、届いていません」

 リクトが眉をひそめる。

「届いていない?」

「はい。でも、聞こえています」

 カイトは思わず首を傾げた。

「聞こえてるのに、届いてない?」

 ナユは目を閉じたまま、言葉を探す。

「アース・ネメシスは、上から名前をかぶせる音でした。元の声の上に、別の名前が重ねられていた」

 彼女はゆっくり続ける。

「アース・エデンは、たくさんの声がありました。違うまま、少しずつ場所を譲り合っていた」

 ナユは、投影された信号へ意識を向ける。

「でも、これは違います。声があるのに、こちらへ届いていない。向こうから呼んでいるようで、呼んでいない。近くにあるようで、遠い」

 解析室が静まる。

 リクトは端末の波形を見ながら、顔を険しくした。

「信号強度は一定だ。距離による減衰ではない」

 イリスも頷く。

「周期性あり。ただし、同一パターンの反復ではありません。観測するたびに、微細に構造が変化しています」

 ユイは画面を見つめる。

「それって、誰かが送っているんですか?」

「不明です」

 イリスは答える。

「通信、警告、座標信号、自然現象、観測妨害。いずれにも完全一致しません」

 ナユが小さく言う。

「言葉ではないと思います」

 リクトが顔を上げる。

「言葉ではない?」

「はい。少なくとも、誰かに何かを伝えようとしている音とは違います」

「では、何に近い?」

 ナユはしばらく沈黙した。

 その沈黙は、いつもより長かった。

 カイトは少し不安になる。

「ナユ?」

「……境界、みたいです」

「境界?」

「声ではなくて、境目の音です。ここから先は違う、という感じ。でも、拒んでいるわけではない。呼んでいるわけでもない。ただ、そこに境目がある」

 リクトは低く呟いた。

「宙域そのものの境界信号……?」

 イリスが記録する。

「ナユさん主観記録。信号は言語ではなく境界に近い。呼びかけでも拒絶でもない」

 ユイは無意識に自分の腕を握った。

「嫌な感じはありますか?」

 ナユは首を横に振る。

「怖い、とは違います。でも、近づきすぎるのは危ないと思います」

「どうして?」

「たぶん、こちらの名前が曖昧になります」

 その言葉に、解析室の空気が凍った。

 カイトは思わず聞き返す。

「名前が、曖昧になる?」

 ナユはゆっくり目を開いた。

 その瞳には、不安と困惑が混じっていた。

「うまく言えません。ネメシスは、名前を上からかぶせます。エデンは、違う名前が並んでいました。でも、アンノウンは……名前がほどける感じがします」

 誰もすぐには言葉を返せなかった。

 名前がほどける。

 それは、単なる通信異常の説明ではない。

 存在や記録の輪郭が曖昧になるような、不気味な表現だった。

 リクトは端末を操作しながら言った。

「観測記録が固定できない理由は、それかもしれない」

 カイトが彼を見る。

「どういうことですか?」

「対象そのものが変わっているのか、観測する側の記録形式が乱されているのかは分からない。だが、結果として、名称、座標、信号意味が安定しない」

 イリスが補足する。

「ネメシス側資料で該当項目が不完全なのも、意図的削除だけではなく、記録保持そのものが困難だった可能性があります」

 ユイは小さく息を呑む。

「帝国でも、整理できなかった?」

「可能性はあります」

 その答えは、余計に不気味だった。

 ネメシス帝国は、支配し、分類し、名前をかぶせることに長けている。

 その帝国が、記録を固定できなかったかもしれない宙域。

 あるいは、固定することを避けた宙域。

 それがアース・アンノウンなのだとすれば、軽く近づいていい場所ではない。

 カナデの通信が入る。

『ナユさん、負荷はどうですか?』

「少し疲れました。でも、大丈夫です」

『今日はここまでにしましょう』

 ナユは頷いた。

「はい」

 信号再生が停止される。

 解析室の照明が元に戻った。

 途端に、空気が少し軽くなる。

 カイトは、自分が無意識に息を止めていたことに気づいた。

「これ、すぐに行かなくて正解ですね」

 リクトは深く頷く。

「ああ。むしろ、行く理由より、行かない理由が増えた」

 イリスが端末にまとめを表示する。

 アース・アンノウン関連追加所見。

 一つ。

 信号は言語・通信・自然現象のいずれにも確定不可。

 二つ。

 ナユの感覚では、呼びかけや拒絶ではなく境界に近い。

 三つ。

 観測するたびに微細構造が変化。

 四つ。

 名称、座標、意味が安定しない可能性あり。

 五つ。

 ネメシス帝国側でも、記録固定に失敗した、または意図的に保留した可能性あり。

 六つ。

 接近前に、艦・通信・記録・帰還手順の強化が必須。

 ジンにも即座に報告が回された。

 数分後、艦長回線でジンの声が解析室に届く。

『報告を確認した。アース・アンノウンへの接触保留を継続する』

 全員が静かに聞く。

『加えて、アンノウン関連解析は、情報班と技術班の共同扱いとする。ナユの感覚記録は重要だが、本人への負荷を考慮し、連続確認は禁止する』

 ナユは小さく頷いた。

『ノア・ドック改造、レクイエム・ベント試験、クロウヴェイル・ノアの回収支援機能強化が完了するまで、接触準備には入らない』

 リクトが答える。

「了解しました」

 ジンの声はさらに重くなる。

『未知を恐れすぎる必要はない。だが、理解しないまま近づく必要もない』

 その言葉は、今のルクス全体に必要なものだった。

 解析室を出たあと、カイトはナユと少しだけ廊下を歩いた。

 ユイも一緒だった。

 ナユは疲れているようだったが、足取りはしっかりしている。

「大丈夫か?」

 カイトが尋ねると、ナユは小さく笑った。

「はい。少し変な感じが残っているだけです」

「変な感じ?」

「音を聞いたというより、音が届かない場所を見たような感じです」

 カイトには、やはりよく分からなかった。

 だが、それが軽く扱えないものだということは分かる。

 ユイが静かに言った。

「名前がほどけるって、怖いですね」

「はい」

 ナユは頷いた。

「ユイさん達は、名前を取り戻してきました。ユイ、竜奈、クレスケンス。どれも簡単ではないけれど、つながっています」

 ユイは黙って聞いていた。

「でも、アンノウンは、名前そのものがほどける感じがしました。だから、今のまま行くのは怖いです」

 ユイは少しだけ目を伏せる。

「私も、まだ行きたくないです」

 カイトが言う。

「俺も」

 三人は、格納区画へ続く通路の窓から外を見た。

 そこには、改造中のノア・ドックが見える。

 巨大なフレーム。

 光る術式ライン。

 クロウヴェイル・ノアを支える新しい接続構造。

 そして、その奥ではレクイエム・ベント試験ユニットの再調整も続いている。

 未知へ向かうには、まだ足りない。

 だが、足りないものは見えている。

 戻る場所。

 止まる仕組み。

 記録を保つ方法。

 名前を失わないための準備。

 カイトは静かに呟いた。

「まずは、こっちを終わらせないとな」

 ユイが頷く。

「うん。艦も、機体も、私達も」

 ナユも小さく頷いた。

「届かない音を聞きに行くなら、戻ってこられる音も必要だと思います」

 その言葉に、カイトは窓の向こうのドックを見た。

 ルクス・ヴァルキュリアの中に響く整備の音。

 人の声。

 工具の音。

 艦を直す音。

 それは、確かに戻ってこられる場所の音だった。

 アース・アンノウンは、まだ遠い。

 いや、近いのか遠いのかすら分からない。

 だが、少なくとも今は、向かう時ではない。

 ルクス・ヴァルキュリアは、未知へ飛び込むためではなく、未知から戻るための準備を始めていた。

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