表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/19

第8話 命令の街へ ―― 営業という名の仮面

第8話 命令の街へ ―― 営業という名の仮面


 朝の空気は、まだ冷たい。


 屋敷のホールには、命令の声がひとつもない。

 代わりに、ぎこちない物音が散らばっていた。


 窓辺で雑巾を絞る音。

 壊れた椅子を持ち上げて、どこに運ぶべきか迷っている足取り。

 庭の方からは、枯れ枝を集める乾いた気配がくぐもって届く。


 元奴隷たちは、まだ「自分の判断」というものに慣れていない。

 誰かの声を待ってしまって、立ち止まる背中も多い。

 それでも昨日までと決定的に違うのは――


 命令を待って固まっているのではなく、

 「どうしていいかわからないまま」立ち止まっていることだった。


 ほんの少しでも、自分の頭で考えようとしている、その途中。


 ロックはホールをゆっくり見回し、玄関の方へ足を向ける。


 扉の近くにはハクタンとルヴァートがいた。

 ハクタンは杖を胸の前で抱え、落ち着かない指先で布地の端をいじっている。

 ルヴァートは壁にもたれ、腕を組み、ロックをじっと観察していた。


「……みんな、ちゃんと動けてる……?」


 ハクタンが、おそるおそる問いかける。


「ちゃんと、じゃねぇな。」


 ロックはあっさり言う。


「だが、“止まってねぇ”だけで十分だ。」


 ハクタンは小さくうなずいた。

 さっき、無意識に色を見てしまった。


 灰色に固まっていた胸元の光が、

 それぞれ違う方向に、かすかに揺れ始めている。


(……怖い色も、多い……

 でも……昨日より、“前”に傾いてる……)


 ハクタンは瞬きをして、視線をホールの光景に戻す。

 色と、人の動きが、まだうまく一枚に重ならない。


 ロックが玄関脇の棚に手を伸ばし、包みを二つつまみ上げる。


「お前ら。」


 そう呼びかける声に、ハクタンの耳がぴんと立った。


「着替えろ。」


 包みのひとつを、ハクタンに。

 もうひとつを、ルヴァートに放る。


「……?」


 受け取った瞬間、ハクタンの尻尾が小さく揺れる。

 結び目をほどいて、布を広げた。


 ふわりと広がる短めのスカート。

 白いエプロン。レースの飾り。


 見慣れない形の服。


 耳が、分かりやすく跳ね、そのあと一気にしゅんと伏せた。


「ロック……これ……」


 言葉が途中で喉に引っかかる。


 一方、布をつまみ上げたルヴァートは、その場から動かなかった。

 ただ、無言でロックを見る。


 沈黙が一本、長く伸びる。


「……は?」


 低い声が落ちた。


「なんで、私がこれ着なきゃいけないわけ。」


 ロックは、まるでたいしたことではないように答える。


「営業だ。」


「答えになってないわよ。」


 ルヴァートの口元が笑っているのか怒っているのか分からない形になる。


「私、別にあんたの趣味のためについてきたんじゃないんだけど。」


「安心しろ。趣味じゃねぇ。」


 ロックは包みの紙を丸めて、適当に脇に投げる。


「この国の主人どもは、自分が“上”だと信じて疑わねぇ。

 見た目を整えてやれば、“ちゃんとした商会だ”って錯覚しやすくなる。」


「……」


「上等な服と“それっぽい雰囲気”。

 それだけで、話を最後まで聞く確率が上がる。」


 淡々とした口調。

 それ以上の説明は、ない。


 ルヴァートは目を細める。


「つまり、私らは“看板”ってわけね。」


「そうだ。」


「それで、私が納得すると思ってる?」


「思ってる。」


 即答だった。


「……殺すわよ?」


「営業中じゃなきゃ、好きにしろ。」


 ロックはほんのわずかに肩をすくめた。


「お前らは俺の後ろについてくるだけでいい。

 あと――」


 一拍、間を置く。


「営業中は、笑顔で頼む。」


 ハクタンが、びくっと肩を震わせる。

 ルヴァートの眉がぴくりと動く。


「……私、そんな器用な女じゃないんだけど。」


「笑ってりゃいい。“楽してる側”の顔をしろ。」


 ルヴァートは目を閉じ、一度深呼吸し、ゆっくり開いた。


「ロック。」


 名前を呼ぶ声だけは、妙に静かだ。


「“営業中だけ”って、今言ったわね。」


「あぁ。」


「なら、覚悟しときなさい。」


 静かな宣告。

 ハクタンは二人の間に流れる温度におののきながら、そっと口を開く。


「……わ、私も……ちゃんと、やるから。」


 自分でも驚くくらい小さな声。

 それでも、その一歩は確かだった。


 ロックはちらりと視線だけを向ける。


「そうしろ。」


 それだけ。


 やがて、渋々ながら着替えた二人がホールに戻ってくる。


 ハクタンはスカートの裾を両手で押さえ、耳まで真っ赤だった。


「ロック……これ……恥ずかしい……」


「まったくね。」


 ルヴァートはため息混じりに言いながらも、やはりスカートの裾を指でつまんでいる。

 よく似合っている。

 だからこそ、腹立たしさが増す。


「ロック。もう一度だけ聞くわ。なんでこれなの。」


「“街に溶け込む”ためだ。」


 ロックは淡々と答える。


「この国で奴隷を動かしてるのは、主人と、主人に近い“上の人間”だ。

 そいつらにとって、一番扱いやすいのは“きれいに整った使用人”だ。」


 そこで言葉を切り、二人を見た。


「お前らは、ちょうどいい。」


「褒めてるつもり?」


「事実を言ってるだけだ。」


 ハクタンは、視線を泳がせながら小さくつぶやいた。


「……ロックは?……」


「俺は外套でいい。」


 即答だった。


「“命令する側”じゃなく、“売りに来た側”だって見せる必要がある。」


 ルヴァートは舌打ちしたくなる衝動を飲み込み、メイド服の胸元を軽く押さえた。

 そこには、薄くロック印が光っている。


「……わかったわ。」


 ひとつ、息を吐く。


「“営業中だけ”は笑ってあげる。」


 その声の奥に、何かが静かに溜まっていくのを、ハクタンは感じていた。


 ***


 屋敷を出て街へ踏み込んだ瞬間、空気が変わる。


 石畳の通り。

左右に並ぶ家々。その前を、首元に刻印の光を宿した奴隷たちが行き交っている。


 主人たちは、椅子に座ったまま、あるいは日陰に寄りかかったまま、顎をかすかに動かすだけだ。

 顎が上がると、ひとりが立ち、

 顎が横に振れると、別の誰かが止まる。


 飛び交う命令の声は、大きくない。


 短い単語。

 「あれ」「それ」「やれ」。


 けれど、その一つひとつが、ハクタンの耳には、鎖の擦れる音のように聞こえた。


 歩きながら、そっと周囲を見渡す。


 奴隷の胸。

 主人の胸。


 色が、反射のように立ち上がる。

 視界の隅に、胸の奥の光がにじむ。

 それだけで、もう十分だった。


 どの胸も、灰色に近い。

 乾いた灰の塊みたいに動かない色。

 ところどころに、黒い濁りが混じっている。


 命令する人も、される人も。

 「考えなくても生きられる」という、同じ色。


 ハクタンは、袖の下で指先をぎゅっと握った。


 ロックは、一度だけ周囲を見回し、すぐに視線を前へ戻す。


「……本当に、平和な国だ。」


 淡々とした口調。

 ただの感想のように聞こえる。


 しかし、その平和という言葉の中身は、まるで別物だった。


 ルヴァートが横目でロックを見る。


「皮肉にしても、言い草が悪趣味ね。」


「事実だろ。」


 ロックは、ゆっくりと顎を上げる。

 命令の声がかすかに飛び交う通りを、斜めに眺めながら。


「“ここではこういうものだ”って決めつけちまえば、

 誰も“変だ”って言わなくなる。」


「……どこの国の話をしてるの?」


「全部だ。」


 短い答え。


 ルヴァートは鼻で笑い、前を向き直った。


(……ほんと、“整いすぎ”て気味が悪いわね、あんた。)


 乾いた嫌悪。

 それと同じくらいの濃さで、別の何か――興味に似たものが、静かに混じっていた。


 ***


 営業先の屋敷は、通りの奥まったところにあった。


 門構えだけは立派だ。

 高い塀に、重たい鉄の門。

 だが、塀の上には薄く埃が積もっている。


 庭木は伸び放題。

 剪定されていない枝が、隣家の影と絡み合うように長く伸び、その影が地面に歪な模様を落としていた。


 金はある。

 手は動かない。


 命令だけが飛び交う屋敷――そんな印象だった。


 門の前で、ロックは一度足を止める。

 短く息を吸い、吐く。


 眉間の皺が、ふっと消える。

 口元に、“作られた柔らかさ”が灯った。


 その変化を、ハクタンは真横で見てしまう。


(……ロックの、顔……)


 いつもの低い声と、硬い表情。

 昨日、刻印を焼いていた時の、あの冷たい火の目。


 それとはまるで違う。


 笑っている。

 けれどそれは、どこにも繋がっていない笑顔だ。

 火の色とも、怒りとも、何にも結びつかない「形だけ」の笑み。


 胸の奥が、ざわりと揺れた。


 隣のルヴァートも、それに気づいた。


(うわ……気味悪……)


 即座に、内心で毒づく。

 表には出さない。場数だけは踏んできた女の、癖みたいなものだ。


ロックは門扉を軽く叩いた。



 中から出てきたのは、刻印の光を首に宿した奴隷。


 奴隷はロック印をちらりと確認し、何も言わずに門を開ける。


 玄関前。

 扉が開き、主人が姿を現した。


 腹に余裕の肉を蓄えた中年の男。

 衣服だけは過不足なく整えられているが、その目の下には寝不足とも怠惰ともつかない影が溜まっていた。


「……なんだ、お前たち。」


 問いかけは、面倒ごとを嫌う者の声だった。


 その声を受けて、ロックが一歩前に出る。

 深く頭を下げた。


「お忙しいところ、少しだけお時間をいただきまして、ありがとうございます。」


 柔らかい。

 丁寧。

 抑揚は過不足がなく、相手の耳にすっと入る調子。


 その声を聞いた瞬間、ハクタンとルヴァートの背筋が同時に震えた。


(……露骨すぎ……)

(ロックが丁寧にしゃべってる……)


 それぞれの驚きが、胸の内側でぶつかる。


 ロックは、そんな二人の揺れを背中に感じながら、言葉を継いだ。


「本日お伺いしましたのは、

 ご主人様の“ご負担”を、少しだけ軽くするご提案のためでございます。」


「負担を、軽く?」


 男の眉が、わずかに持ち上がる。

 興味と警戒が、半分ずつ。


「はい。」


 ロックは穏やかな笑みを浮かべたまま、呼吸のテンポも変えずに続けた。


「命令をなるべく減らし、それでいて“今まで以上に”屋敷が回る形を、

 ご用意しております。」


「……そんなうまい話があるか。」


 即座に返ってくる拒絶。

 だが、声の底にはほんのわずかに期待も混じっている。


 ロックは、そのわずかな揺れを見逃さない。


「おっしゃる通りでございます。

 “うまい話”だけなら、世の中にいくらでも転がっております。」


 いったん、軽く頭を下げる。


「ただ、私どもが扱っておりますのは、“楽な話”でして。」


「……楽、だと?」


「はい。ご主人様が今、日々お使いになっている“命令”の数を、

 ご自身で数えてみられたことは、ございますか?」


「そんなもん、数えるか。」


「では――」


 ロックは、さも何気ない風に視線を家の中へ滑らせる。


「この玄関ホールに入ってから、最初の椅子が動くまでの間に、

 ご主人様は何度、顎を動かされましたか。」


 主人が、わずかに言葉を詰まらせる。


「……どういう意味だ。」


「“あれを取れ”“それをどけろ”“ここに置け”。

 その一つひとつは小さな動きでございますが――」


 ロックは指を一本、静かに立てた。


「積み重ねれば、一日で“かなりの数”になります。

 命令を出すにも、観察し、考え、判断する手間が必要です。」


「……それが、どうした。」


「その“手間”を、いくつかこちらに預けていただく、というお話でございます。」


 ロックの声はあくまで礼儀正しい。

 だが、その礼儀正しさは、相手の考える余地を少しずつ奪っていく調子をしていた。


「ご主人様は、“座っていていただくだけ”でよろしい。」


 男の目が細まる。


「そんな奴隷が、どこにいる。」


「ここにおります。」


 ロックは、わずかに身を引き、背後を手で示した。


「ルヴァート。」


 声だけは、いつもの調子に近い。


「この部屋を、一通り見て、仕事をしてこい。」


 ルヴァートのこめかみが、ぴくりと動いた。


「…………了解。」


 口では素直に答える。

 その目だけが、氷のように冷たい。


(殺す。あとで絶対、殺す。)


 心の中で、はっきりとした言葉を置く。

 それでも、足は前に出る。


 部屋に入る。

 窓枠の埃。

 床の汚れ。

 脱ぎっぱなしの靴と、積みっぱなしの皿。


 細剣の代わりに持たされた布巾と箒が、彼女の手で淡々と動き始める。


 身体は、慣れている。

 城でも、旅の途中でも。

自分の身の回りを整えることくらい、昔から当たり前にやってきた。


 それでも、今のこの動きには、別の意味がついていた。


(命令されてやるんじゃない。

 “見て、決めて、動く”ってやつね。)


 首元のロック印に、乾いた視線を落とす。


 主人の視線が、ルヴァートの動きを追う。

 足元から腰のラインへ。

 手首から、わずかに見える首筋へ。


 ルヴァートは、背中に刺さるその視線を、何度も経験してきた。


(あぁ、このタイプ。)


 見なくても分かる。

 男の欲と怠惰の温度。


 殺意に近い冷たさが、一瞬だけ胸をかすめた。

 だが、その感情に火をつけるのは、今日の仕事ではない。


 ロックの声が、背中から重なる。


「ご覧の通り、“指示”ではなく“状況”を見て、動きます。」


「……今、お前、仕事をしろとしか言ってなかっただろう。」


「はい。“何をすべきか”を、自分で判断するように、調整してあります。」


 ロックの声は穏やかだ。

 その穏やかさは、主人の「疑い」を拒まずに受け取りながら、

 別の答えで塗りつぶしていく質のものだった。


「ご主人様が魔力をお使いになる必要も、

 細かな命令を出される必要もございません。」


「……」


「“命令しないという贅沢”を、少しだけ味わっていただく形です。」


 “贅沢”という言葉に、男の喉がかすかに鳴る。


 ハクタンは玄関脇で、杖を抱きしめるように両手で握っていた。

 ルヴァートの動き。

 主人の目。

 ロックの声。


 全部が、自分の知らないテンポで動いている気がした。


(……こわい……)


 喉が乾く。

 けれど、逃げたいとは思わなかった。


 ロックが選んだ「悪いこと」の真ん中に、自分も立っている。

 その事実だけは、目をそらしたくなかった。


 ロックは、さらに一歩踏み込む。


「この国では、“働かないこと”がひとつの誇りだと伺っております。」


「……まぁな。」


「でしたら、その誇りを崩さない形で、

 “屋敷の回り方だけ”を変えることができます。」


 声の調子は変わらない。


「ご主人様は今まで通り、座っていてくださればけっこうです。

 違うのは、“座っている意味”だけです。」


「意味、だと?」


「はい。」


 ロックの笑みが、ほんのわずかに深くなる。


「今までは“命令するために座っている”お時間だったかと存じます。

 これからは――“見ているだけで済む”お時間に変わります。」


 その言い回しは、具体的な説明をしていない。

 けれど、耳に滑り込んでくる。


「……そんなものが、本当に……」


「初回につきましては、お試しの期間をご用意しております。」


 丁寧な言い回しの奥に、「責任を取らなくていい」という甘い毒を忍ばせて。


「もしご期待に沿えなかった場合は、契約の継続は不要です。

 ただ――」


 少しだけ、間を置いた。


「一度“命令しない日”を味わわれますと、

 元の生活に戻るのが少しばかり“面倒”になるかもしれません。」


 男の喉が、小さく鳴った。


 その音を、ハクタンははっきり聞いた。


 そこで初めて、意識的に色を見る。

 主人の胸の内側。


「……迷ってる色……」


 危険を分かっている。

 それでも、「楽な方」に傾きかけている色。


 ハクタンは小さく息を呑み、今度は主人の表情そのものを見つめた。

 胸の奥の色と、顔に浮かぶ迷いが、同じ形をしている気がした。


 ロックは、さりげなく横を振り向く。


「……ルヴァート。」


 柔らかい営業声のまま、視線だけで示した。


「契約書。」


 顎で、軽く方向を指す。


 ルヴァートの眉が、ぴくりと跳ねた。


 引きつった笑顔を顔に貼りつけたまま、一拍置いてから歩き出す。


「……はい。」


 声は柔らかい。

 だが、その目だけが、氷のように冷たかった。


(殺す。絶対あとで殺す。)


 心の中で繰り返しながら、契約書をロックの手に渡す。


 ロックは受け取り、主人に向き直る。


「内容は単純です。

 “命令を減らしても屋敷が回るように調整された労働力を、

 一定数、一定時間貸し出す”契約となります。」


 要点だけを、過不足なく説明する。


 主人は、半分も理解できていないようだったが、それで十分だった。

 さっき目の前で見た「楽さ」と、「戻れなくなる予感」だけで、心はもう傾いている。


「……いい。使ってみる。」


 短い言葉。


 ロックは深く頭を下げた。


「ありがとうございます。

 きっと、“座っているだけ”のお時間が、少し心地よくなるかと存じます。」


 ***


 試しに入った数人の奴隷が、屋敷の中で動き始めた。


 命令もないのに、埃を払い、散らかったものを整え、主人の手元に茶を運ぶ。


 動きはまだぎこちない。

 ロック印に慣れきっていない手つき。

 それでも、命令を待つ空白よりは、はるかに「人の動き」に近かった。


 主人は最初こそ目を丸くしていたが、すぐに椅子に深く腰を預けるようになる。


「……いいな、これは……」


 その呟きを背中で聞きながら、ロックは玄関へ向かった。


 ハクタンとルヴァートが、その後ろに続く。


 扉を開ける。

 外の光が差し込んでくる。


 扉が閉まった瞬間、ロックの表情から、営業の笑みがすっと消えた。


 声も、いつもの低さに戻る。


「……ちょろいもんだ。」


 短い感想。


 ハクタンは、まださっきの声の余韻から抜け出せずにいた。


「ロック……さっきの……敬語……

 なんか……こわかった……」


「相手が聞きやすい形にしただけだ。」


 ロックは足を止めない。


「中身は、俺のままさ。」


 その言い方にも、誇りはない。

 言い訳もない。


 ただ「そう選んだ」と言っているだけだった。


 ハクタンは、スカートの裾を握った。


「……でも、やっぱり……やだ。」


 小さく。

 喉が震えない程度の音量で。


 ロックは振り向かない。

 それでも、その一言をちゃんと受け取ったように、わずかにあごを引いた。


「嫌がってろ。」


 淡々とした返事。


「嫌なまま見て、嫌なまま覚えろ。

 それでも続けるかどうかは、お前の選択だ。」


 ハクタンの足が、一瞬だけ止まりかける。

 それから、もう一度踏み出す。


「……うん。」


 自分の声が震えていないことに、彼女自身が驚いた。


 ***


 屋敷の門をくぐった瞬間、空気が変わった。


 さっきまでの「営業」の緊張とは別の、湿った温度。


 ロックが一歩中に入ったところで、背後から影が回り込む。


 腕が首に絡んだ。


 動作は正確で、ためらいがない。


「っ……ぐ……!」


 喉が圧迫され、息が詰まる。


「ル、ルヴァート! ちょ、ちょっと……!」


 ハクタンが慌てて駆け寄る。


 背後からロックを締め上げているのは、言うまでもなくルヴァートだった。


 メイド服姿のまま。

 表情は笑っていない。


 完全な無表情。

 だが、その目だけが鋭く光っていた。


「ねぇ、ロック。」


 耳元で、低い声が落ちる。


「さっき、私を顎で使ったわね。」


「演出……だ……」


 締め付けで、絞り出す声が途切れ途切れになる。


「“ついてくるだけでいい”って言いながら、

 あんたは後ろで、私たち使ってたわよね?」


「……商会の“格”を、出すために――」


「黙りなさい。」


 腕に、さらに力がこもる。


「これは教育。」


「教……育の……範囲……超えて……」


「ロック死んじゃう……!」


 ハクタンが半泣きで訴える。


「死なないわ。」


 ルヴァートは即答だった。


「この程度で死ぬなら、王を焼くなんて戯言言えないでしょ。」


「いや……死ぬわ……!」


 ロックは、逃れようと思えば逃れられるはずだった。

 足の運びも、腕の角度も、全部分かっている。


 けれど――そのまま、されるがままになっていた。


 “これくらいの反動は当然だ”と知っている顔で。


(……顎で使われて、はいそうですかって笑ってられるほど、

 私は“いい奴”じゃないのよ。)


 ルヴァートの胸の奥で、過去の旅路の記憶が一瞬だけよぎる。

 都合よく使って、いざとなったら「荷物」として売り払った連中の顔。


 あれと同じ場所に、ロックを置きたくはなかった。


 だからこそ、締める。

 ここで、線を引く。


 やがてルヴァートは、ふっと腕の力を抜いた。

 ロックが前につんのめるようにして、床に手をつく。


「……次。」


 静かな声が落ちる。


「次、営業で私を顎で使ったら、本気で落とすから。」


 ロックは首を押さえながら、ゆっくり息を吸い込んだ。

 しばらく、咳が止まらない。


 それでも、立ち上がる。

 少しだけ掠れた声で言う。


「……営業中は……我慢しろ。」


 その一言で、ハクタンの肩がびくっと揺れた。

 ルヴァートの眉がぴくりと跳ね、拳が一瞬握られる。


 だが――それ以上は何も起こらなかった。


 代わりに、ルヴァートは大きくため息をつく。


「……ほんと、徹底してるわね。

 悪徳商人。」


「褒め言葉だと思っとく。」


「違うわよ。」


 吐き捨てるように言いながら、その声の端に、わずかな安堵が混じっていた。

 ロックが「自分を悪徳だと分かっている」ことへの、奇妙な安心。


 ハクタンは、まだ心臓の鼓動が落ち着かないまま、二人の間を見比べていた。


(……ロック……)


 本当に、悪いことだと思ってやっている。


 この国の「楽」を売ること。

 命令から解き放たれたはずの手を、別の形で縛り直すこと。


 その全部を、自分の判断として受け入れている。


 それでも――彼の胸の火は、濁らない。


 ハクタンには分かる。

 色を見るまでもなく。


 静かに。

 まっすぐに灯っている。


 この国の「楽」を売り、依存を育て、

 その先で「何か」を焼くために。


 ――その全部を、自分で選んでいる火の色だった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

感想・評価などいただけると、続きを書く励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ