第6話 選べない奴らと、最初の一歩
第6話 選べない奴らと、最初の一歩
屋敷の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
さっきまで歩いてきた通りと、石畳の材質は同じはずだった。
なのに、敷地に踏み入れた途端、足の裏から伝わる温度が薄くなる。
夕陽はちゃんと差し込んでいる。
屋根の端や、庭木の葉にオレンジ色の光が乗っているのに――
光そのものから、体温だけ抜き取られたような感覚だった。
風も吹いている。
土の匂いも、どこかから漂う食事の匂いもあるのに、
(……息、してないみたい……)
ハクタンは思わず、喉の奥をさわった。
ちゃんと呼吸はできている。
それでも、深く吸おうとすると、胸のどこかがつかえる。
ロックは庭の中央で足を止めた。
黙って、屋敷全体を見回す。
視線の動きはゆっくりだが、その奥は忙しい。
門、塀、窓、物干し、土のへこみ――
一度も足を止めたことがない家のはずなのに、昔からここを知っているような観方だった。
(……壊れてるな)
心の中でだけ、ロックは結論を下した。
ただ静かなだけの屋敷じゃない。
誰もいないのに、「誰かが立っている姿だけ」残して消えたような整い方をしていた。
庭の石には、砂が乗っていない。
踏み石の間の雑草は、刃物で均一に撫で切りされたみたいに短い。
窓枠には埃一つなく、軒先に干された雑巾は、絞った直後の形のまま固まっている。
さっきまで人がいた。
なのに、気配だけが、ごっそり抜けている。
「……ロック……」
ハクタンが、小さな声で呼んだ。
怖い、とは言わない。
ただ、声の震えが、代わりに全部を語っていた。
ロックは振り返らない。
代わりに、庭の土をつま先で軽くなぞった。
薄い靴跡が、何重にも重なっている。
歩幅はほとんど変わらない。
曲がる場所も、止まる場所も、一ミリもぶれていない。
門から玄関へ。
玄関から庭の端へ。
庭の端からまた玄関へ。
同じ線を、何度も何度もなぞった足跡。
(主人が消えても、掃除だけ続けてたか……
命令の線だけが、地面に残ってやがる)
胸の奥に、小さく砂利がこすれるような違和感が走る。
ロックのなかで、火がほんの少しだけ濁った。
その揺れを、誰にも気づかれたくなかった。
……少なくとも、本当は。
けれど。
「ロック……」
袖の少し下から、視線を感じた。
見なくても分かる。
白い耳を伏せて、こちらを覗いている気配。
「胸の……色……さっきから、ちょっと……」
ハクタンはそこで言葉を探した。
「痛い」と言っていいのかどうか迷う沈黙。
その逡巡ごと、ロックの耳に届く。
ロックは短く、吐き捨てるように言った。
「見るな。大したもんじゃねぇ。」
声は淡々としている。
けれど、自分でも知っている。
その淡々さが、逆に「何か」を隠している色になっていることを。
背後で、ルヴァートが小さく舌打ちした。
「“大したもんじゃない”顔じゃないわよ、それ。」
ロックは答えなかった。
代わりに、玄関の扉へと視線を滑らせる。
「行くぞ。」
その一言で、庭の静けさがほんの少しだけ動いた。
◇
玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、空気がひりついた。
広く、無駄に豪奢なホール。
赤い絨毯。磨き上げられた床。
壁には意味の分からないほど金の装飾が貼りついている。
その真ん中に――十数人の奴隷が、等間隔で並んでいた。
立ったまま。
前を向いたまま。
手には掃除道具。
足元には濡れた雑巾と水桶。
眠っていない。
食べていない。
まばたきさえ、ほとんどしない。
時間だけが、どこかで止められてしまったようだった。
水桶の水面に、ぽとりと雫が落ちる。
どこから落ちたのか分からない水滴が、円を広げて――すぐに静まる。
水だけが動いている。
人間は、動かない。
「……なにこれ。」
ルヴァートが眉をひそめた。
剣に添えた指が、いつでも抜けるように軽く動く。
ハクタンは、息を詰めた。
目だけで、ひとりひとりの顔をなぞる。
疲れ切った目。
ただの無表情とは違う、なにも写していない目。
顔の筋肉は緩んでいるのに、肩と背中だけが不自然に固い。
命令を聞き逃さない姿勢だけ、身体に刻み込まれている。
ロックはホールの中央に進み、全員を見渡した。
「命令が消えてねぇ。」
静かな声だった。
「主は、もういない。
それでも、“命令の余熱”だけで身体が動いてる。」
「余熱?」
ルヴァートが問い返す。
「命令に縛られ続けると、自分の意志が摩耗する。
気づいたときには、自分の足で止まる方法を忘れてんだ。
命令の“形”だけが、身体を支配してる。」
誰も、ロックの顔を見ない。
それでも、声に反応して――奴隷たちの肩が、ほんのわずかに震えた。
生きている。
けれど、生きている中心が、どこにもない。
ロックは小さく息を吐き、奴隷たちの正面に立った。
「――主人は、俺が燃やした。」
その一言が、厚い空気に亀裂を入れた。
誰も叫ばない。
誰も崩れ落ちない。
ただ、“命令の空気”がほんの瞬間だけ揺れた。
長年その場に凝固していた何かが、かすかにきしむ。
この国では、“主がいない”という事実を認めるのは、それ自体が禁忌だ。
命令の源が消えたと理解した瞬間、自分で立っている理由がなくなるから。
ロックは、そこをわざと踏み抜いた。
「お前らは、これからどうする。」
問いかけは、説明ではない。
ただ、そこに穴を開けるように投げられた。
返事はない。
視線は一点も動かない。
全員が、“新しい命令”を探している。
誰の口からその言葉が出てくるのか――ただそれだけを待っている。
(……選べない……)
ハクタンは胸の奥をぎゅっと掴まれた。
誰も「嫌だ」と言わない。
誰も「ここから出たい」と叫ばない。
本当はどうしたいのか。
そもそも“どうしたいか”を考える場所に心が届いていない。
ロックは、その沈黙ごと見据えた。
「だったら、選ばせる。」
その声に、ルヴァートが横目でロックを見る。
目の奥に、かすかな警戒と興味が混ざる。
(ここで“選択”なんて言葉を使う? 本気で?)
ロックは、奴隷たちの前でゆっくり呼吸を整えた。
「殴りたきゃ、殴れ。」
ホールの空気が、わずかに揺れる。
「逃げたきゃ、逃げろ。」
喉の奥で、誰かがひくりと音を立てた。
「ここに残りてぇなら残って働け。
嫌なら今すぐ消えていい。
――どれを選んでも、責任はお前自身が持て。」
“選択”という言葉が、ホール全体に重く落ちた。
命令の欠片が、足元でぱき、と音を立てて割れたような錯覚。
「……え……らぶ……?」
沈黙の中から、かすかな声がこぼれた。
若い男だった。
年の割に細い腕。擦り切れた袖。指の節にはいくつもの古い傷。
声は震えているのに、その震えの芯は、妙に澄んでいた。
ハクタンは息を呑む。
(……ちゃんと……怖がってる……
でも……誤魔化してない……)
彼は、震える両手を握りしめた。
「……殴りたい……です……」
その言葉が落ちた瞬間、ハクタンの胸がきゅっと締め付けられる。
怒り。
感謝。
恐怖。
全部をごちゃまぜにしたまま、それでも、自分の気持ちを自分の言葉で言おうとしている声だった。
ロックは、一切表情を変えなかった。
「そうか。」
肯定でも否定でもない。
ただ、その選択を「聞いた」という事実だけを渡す声。
男は唇を噛み、続けた。
「……でも……殴れない……。
足が……すくんで……。
ずっと……殴っちゃいけないって、言われてて……
でも……それでも……」
顔を上げる。
涙が、ぽろぽろと絨毯に落ちた。
「……助けて、くれて……ありがとうございました……」
ホールに沈黙が落ちた。
謝罪でも、服従でもない。
「殴りたい」と「ありがとう」が、同じ口から零れ落ちた、その矛盾。
(……どっちも……誤魔化してない……)
ハクタンは胸の奥がちくりと痛くなる。
選べないように育てられてきた人間が、それでもどうにかして「自分の言葉」を探し当てるときの痛みだ。
ロックは、男の前に一歩近づいた。
「来い。」
差し出された掌に、静かな火が灯る。
炎、というより、深く息を吸ったときの熱に近い。
熱くない。
焼かない。
ただ、絡みついた影をほどくためだけの火。
ロックの指先が、男の首元の刻印に触れた。
ぱち、と音にならない光が走り、刻印が灰になって散る。
男は崩れ落ちそうになりながら、胸を押さえた。
「……軽い……」
「そりゃそうだ。“命令”は重い。」
ロックの声は乾いている。
けれど、その乾きは、男の肩に余計な重さを乗せないための温度でもあった。
◇
刻印解除は、一人、また一人と続いた。
火は息をするように灯り、消えていく。
奴隷たちは一人ずつ、自分の身体の重さを取り戻していった。
膝が震えて座り込む者。
喉を押さえてしゃくり上げる者。
何度も何度も自分の手を開いたり閉じたりしている者。
ルヴァートは剣に手を添えたまま、ホールの出入口を見張っていた。
視線だけを時々、ロックと奴隷たちへ向ける。
「……あんた、ほんと性格悪いわね。」
ぽつりと呟く。
けれど声音は、さっきまでの刺々しさより、どこか柔らかい。
「こんな静かなやり方で“人を解放する”なんて。
派手にぶっ壊して回る方が、よっぽど楽よ?」
「悪でやってる。」
ロックは、次の刻印へ指を伸ばしながら淡々と言った。
「楽させてやるためにやってんじゃねぇ。
選ぶってのは、こういう面倒ごと引き受けるって話だ。」
ルヴァートは小さく鼻で笑った。
「……そういうところが一番タチ悪いのよ。あんた。」
ハクタンは少し離れた場所から、その光景を見ていた。
色視をわざわざ使わなくても分かる変化が、そこにはあった。
さっきまで止まっていたはずの肩が、呼吸に合わせて上下している。
胸を押さえる手が、命令を待つ形ではなく、自分の鼓動を確かめる形に変わっていく。
目の焦点が、ロックの靴先ではなく、自分の足元へ、そして少し先の床へと移っていく。
(……灰の色が……薄くなってく……)
意識を少しだけ深く沈める。
視界の端に、かすかな揺らぎが見えた。
灰一色だった胸の奥に、白に近い薄い光が混ざる。
まだ弱い。
すぐにも折れてしまいそうな細い線。
でも、それはたしかに――“自分で呼吸している色”だった。
ハクタンはそっと胸に手を当てた。
(……ロックの火と、違う……でも……
みんな、ちゃんと……生きてる……)
そう思った瞬間、目の奥が熱くなった。
刻印が最後の一つまで消えた頃、ロックは床に落ちた灰を靴で払った。
灰は軽く舞い上がり、夕陽に照らされて、薄い金色にきらめいてから消えていく。
「……さて。」
ロックは、奴隷だった者たちを見渡した。
「俺はここを使う。」
その言葉に、ホールの空気がわずかに詰まる。
「屋敷は広いし、道具も揃ってる。
商売するにも、隠れるにも都合がいい。」
ルヴァートが片眉を上げた。
「勝手に決めるわね。」
「悪徳商会だ。遠慮する理由がねぇ。」
ロックは肩をすくめる。
「働きたいなら働け。
嫌なら好きにしろ。
――選ぶのはお前らだ。」
また、沈黙。
さっきよりも短い沈黙だった。
やがて、先ほど刻印を消した若い男が、おずおずと手を上げた。
「……残りたい……です……」
その声に続くように、何人かが、震えながら口を開く。
「働かせてください……」
「ここで、生きたい……」
「……どこに行けばいいか、分からないから……
でも……逃げて、また誰かの奴隷になるのは……嫌で……」
それは、誰かに言わされた言葉じゃない。
空気に従って選んだ「正解の言葉」でもない。
自分の弱さも、怖さも、情けなさも抱えたまま、それでも自分で決めようとした言葉だった。
ロックは小さく肩を竦める。
「勝手にしろ。」
あっさりと。
「その勝手は、お前らの自由だ。」
責任ごと、押しつけるように。
ハクタンは、その横顔を見つめた。
夕陽が、屋敷の壁を金色に染めている。
さっきまで“息をしていなかった”光が、ようやく空気を温め始めていた。
ロックの胸の奥で揺れる火は――
今は、静かで深い赤だった。
黒は、完全には消えていない。
さっき庭でざらついたまま、まだ底に沈んでいる。
けれど、その上に重なる赤は、はっきりしていた。
(……ロック……)
ハクタンは、小さく息を吸った。
(やっぱり……誠実だ……)
声にはしない。
言ったところで、ロックはどうせ「知らねぇ」と一蹴するだろう。
だから――胸の中でだけ、呟く。
選べない人々の屋敷は、この日、初めて。
「選べる場所」へと、ほんの一歩だけ踏み出した。
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