第5話 値札の影、選択の火
第5話 値札の影、選択の火
奴隷商館の裏口は、通りから一本外れた細い路地の奥にあった。
昼だというのに、ここだけ時間が薄暗く沈んでいる。
さっきまで歩いていた通りでは、楽師の弦の音と、客たちの笑い声が混じっていたのに、
角を曲がった瞬間、その全部が、誰かに音量を絞られたみたいに遠くなる。
白く塗られたはずの外壁は、この裏側だけ煤けて黒ずんでいた。
雨だれの筋が縦に流れ、泥が跳ねて作った汚れの斑点がそこかしこに残っている。
木の扉には、靴底と拳の跡がいくつも重なっていた。
開けてもらえなくて殴った者と、出してもらえなくて蹴った者の痕。
風がひと吹きするたび、
腐った穀物のにおいと、古い汗と、乾いた血の鉄の匂いが、浅い路地の空気を撫でていく。
ハクタンは、思わず一歩だけロックに寄った。
外套の裾に触れるか触れないかぎりぎりの距離で留まりながら、耳がぴんと立ちかけて、すぐに伏せられる。
(この匂い……)
前にも嗅いだ。
鎖を付けられ、どこかの部屋に押し込まれた時。
暗くて狭くて、誰かの泣き声と怒鳴り声が混ざる空気。
あの時も、こんな腐った穀物の匂いと、汗と、血の匂いがしていた。
記憶の中の空気と、目の前の空気が、じわりと重なっていく。
ロックは、その匂いの中を迷いなく進んだ。
縄で縛られた盗賊三人が、
ずりずりと石畳をこすりながら引きずられている。
口を布で塞がれているせいで、呻き声はくぐもり、喉の奥でくつくつと鳴るだけだ。
ルヴァートは片手で縄をまとめ、もう片方の手を、自然と腰の剣の柄に添えていた。
戦うつもりは今のところない。
けれど、この国の裏路地で油断していい場面なんて一つもない、という感覚が、彼女の身体に染みついている。
「よくこんな臭い場所を、出入り口に選ぶわね。」
乾いた声だった。
嫌悪を隠そうともせず、それでいてどこか観察者らしい距離感を保った口調。
「表に出なきゃ、裏は臭くていいんだろ。」
ロックは短く返す。
扉の前で立ち止まり、
拳で二度、軽く叩いた。
「“捕獲品”の持ち込みだ。」
抑揚のない宣言。
余計な色のない声。
しばらくして、中から金具の外れる音がした。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
がちゃり、と最後の鍵が外れ、木の扉が少しだけ開く。
「……盗賊か?」
隙間から覗いた目だけが、薄暗がりの中で光る。
「そう。」
ロックは、縄を軽く持ち上げて見せた。
「街道で襲ってきた。
まだ動く。労働力にはなる。」
男はロックたちを順に眺めた。
視線が、値札を探すような癖のある動きで滑っていく。
一瞬だけ、ハクタンの瞳とぶつかった。
(……この目……)
憎しみでも、悪意でもない。
“どう使えるか”だけを見る目。
人間としての価値ではなく、“道具としての条件”をチェックする時の視線。
胸が少し、冷たくなる。
「……入れ。」
男が扉を押し開ける。
中から冷えた空気が、路地へと流れ出た。
◇
薄暗い廊下の床には、乾いた泥と靴跡が層になっている。
壁にいくつも打ちつけられたランプは、最低限だけ灯されていた。
その灯りが、廊下の先に人影を長く伸ばしている。
ハクタンは、その影に目を留めてしまい、慌てて視線を外した。
(足跡も……影も……
全部、“誰かがここを通ってきた”って証拠なのに)
この路地に来る前までは、街のざわめきの中で人の気配が薄まっていたのに、
今は逆に、見えない誰かの残り跡が――重く感じられる。
廊下を抜けると、少し広い部屋に出た。
中央に古い木の机があり、その上には帳簿と羽ペンが置かれている。
壁際には鍵のかかった棚が並び、その上には番号の振られた木箱が整然と並んでいた。
棚の隙間からは、布や縄や、鉄の鎖の端が覗いている。
部屋の真ん中には、一本だけ太い柱が立っていた。
柱には鎖を通す金具が取り付けられ、その横に、古い血の跡が薄く染み付いている。
机の向こうに、先ほどの男が立っていた。
四十代くらい。
後ろで束ねた黒髪に、伸びかけの無精ひげ。
袖をまくり上げたシャツは前まできちんとボタンが留められているのに、目の奥だけがどこか擦り切れている。
ハクタンは、その目を観た。
驚かない人の目だ。
悲鳴も血の匂いも、“商品”になった人間の顔も、もう何度も見てきた人間の目。
男は机の裏から棒を一本取り出した。
先端は少しだけ丸く削られているが、ぶつけられれば十分痛いだろう。
男は、縄で繋がれた盗賊たちの前に立つと、
棒の先で足を突き、肋骨を軽く小突き、肩のあたりを押し上げて筋肉の張りを確かめた。
足を踏みつけ、顎をこじ開け、歯並びと舌の色をちらりと見る。
呻き声が上がるたびに、男は“壊れていない”ことを確認するように小さく頷いた。
「壊れちゃいねぇな。」
男は棒を肩に担ぎ、盗賊たちをまとめて眺めた。
「骨も折れてねぇ。
傷は表面だけ。
顔が潰れてねぇ分、荷扱いも楽だ。」
「さっきまで、女や子どもから金を巻き上げてたくらいには元気だったわ。」
ルヴァートがため息混じりに言う。
「強くはないけど、弱すぎるわけでもない。
少なくとも、さっきボコる前まではね。」
男はルヴァートの腰の剣に視線を滑らせた。
その目に浮かんだ色は、恐れでも敬意でもなく――ただ、“危険な道具”としての評価。
「……なるほど。
そっちの嬢ちゃんが“仕立て直してくれた”わけだ。」
視線が、ハクタンにも静かに流れてくる。
ハクタンは無意識に背筋を伸ばした。
彼女の手は、杖の柄を少し強く握っている。
男は粗雑に指を折りながら言った。
「十五だな。」
「十五?」
ルヴァートが眉をひそめる。
「一人十五。三人で四十五。」
数字だけが、乾いた音で宙を跳ねた。
ロックは表情を変えずに顎を引き、男の言葉の続きを待つ。
「ただで手に入れた拾いもんにしては、悪くねぇ額だ。」
男は淡々と続ける。
「こいつらがこのまま道で人を襲い続けりゃ、そのうち誰かを殺し、どこかの偉ぇ奴の怒りを買う。
そうなる前に“合法的に”鎖につなぐ。
――それが、この街の“健全な取引”ってやつだ。」
“健全”という言葉が、この部屋の空気にまったく馴染んでいない。
(健全……)
ハクタンは、胸の奥がちくりと痛む。
「道端に転がしておけば、ゼロだ。」
男は肩をすくめた。
「ここに連れてきた分だけ、“値段”がつく。
お前らにとっちゃ、悪くねぇ話だろ。」
「……悪くないの、かな……それ。」
ハクタンは、気づいた時には口に出していた。
自分の声に驚いて、慌てて口元を押さえる。
男は一瞬だけハクタンを見たが、
すぐに興味をなくしたように視線を戻した。
「“悪いかどうか”を考える奴は、ここで仕事しねぇ。」
男は棒を机に立て掛け、帳簿を引き寄せた。
羽ペンで何かをさらさらと書き込み、
棚の上から小さな袋をひとつ取ってくる。
「四十五だ。」
袋を、机越しにロックへ放った。
ロックは片手でそれを受け取り、ほんのわずかに手首を沈めて重さを測る。
袋の口を指で少しだけ開き、金貨の縁が光るのを確認した。
「数えないの?」
ルヴァートが横で首を傾げる。
「誤魔化されても、今の俺には誤差だ。」
ロックは淡々と答えた。
「……大口叩くじゃない。」
ルヴァートの声には皮肉が混じるが、本気で止める気配はない。
ロックは布袋の重みを指先で転がしながら、少しだけ目を伏せた。
(盗賊三人で四十五。)
金貨がぶつかる音は軽いのに、
その裏側には三人分の“命の値段”がぶら下がっている。
(それなら――。)
「一つ、聞いていいか。」
ロックが顔を上げる。
「なんだ。」
「この街で――一番高い奴隷は、いくらだ。」
部屋の空気が、ぴんと張った。
埃の舞い方すら、さっきまでと違うように見える。
男はペンを持ちかけていた手を止め、ロックの顔をまじまじと見た。
「買う気か?」
「値段を知りたい。」
ロックはそれ以上飾らない。
男は舌打ちともため息ともつかない息を吐き、
机の下から別の帳簿を引き出した。
「一番高い、ねぇ。」
ページをぱらぱらとめくる音が、やけに大きく響く。
「血筋。
能力。
教育。
見てくれ。
病気の有無。
それから――買い手の欲の深さ。」
指を一本ずつ折りながら呟く。
「そういうのを全部盛った“最高品”なら……」
帳簿の端、上の方。
あまり使われていないページの一角で、指先が止まった。
「――金貨一二〇〇枚、ってところだな。」
ハクタンの喉がきゅっと鳴った。
「せ……せんにひゃ、く……」
頭の中で数を並べようとして、途中でやめる。
十五と四十五と一二〇〇。
盗賊三人分の値段と、一人の奴隷の値段。
比べようとした瞬間、
自分の中の何かが「やめろ」と警告を出した。
「一二〇〇ね。」
ルヴァートが腕を組む。
「それは、さっきの盗賊たちとは何が違うの?」
「これは“そこらの盗賊”だ。」
男は肩をすくめる。
「一二〇〇クラスは、“血筋持ちで魔法の素質あり”だ。
家柄もそこそこで、教育にも金がかかってる。
言葉も通じるし、見栄えもいい。
病気も持ってない。」
そこで一度、唇の端を持ち上げた。
「そして何より、“買い手の期待”が乗る。」
「期待。」
ロックが短く繰り返す。
「“この奴隷を買えば、自分の得になる”。
そう思ってもらえるほど、値段は跳ね上がる。」
男は机を指先でとん、と軽く叩いた。
「この国じゃ、“得にならねぇ人間”には値がつかねぇよ。
逆に、“得になる”って思えりゃ、いくらでも払う。」
ハクタンは、自分の胸の痕を無意識に押さえた。
(“得になる”……)
自分が奴隷だった頃、その言葉を正面から聞いたことはない。
けれど、命令の裏側にいつもぶら下がっていたのは、
きっとその感覚だったのだと思う。
“お前をここに置いておくと、私の得になる”――そのために、鎖は繋がれていた。
ロックは、男の言葉を淡々と聞いていた。
笑いもしない。
眉もひそめない。
ただ、“この国のルール”として、その価値観を受け取っている。
(盗賊三人で四十五。)
指先で布袋を転がしながら、頭の中で算盤を弾く。
(最強の奴隷が一二〇〇。)
ひとつの駒を買うだけで、それだけの額が吹き飛ぶ。
しかも、その駒が本当に“役に立つかどうか”は、買ってみるまで分からない。
(この国で“戦力”を金で買うなら――
俺の懐なんて、今は塵みてぇなもんだ。)
ロックの視線が、ほんの少しだけ床へ落ちた。
ハクタンは、そのわずかな陰りを見逃さなかった。
(ロック……)
普段は、何を考えているのか読み取りづらい男だ。
怒っているのか、楽しんでいるのか、ただ観測しているだけなのか、分かりづらい。
けれど今、その横顔には、
“自分の力量を正しく測った時の、静かな悔しさ”がほんの少し滲んでいた。
◇
奴隷商館の裏口を出ると、
路地の向こうに夕暮れの光が滲んでいた。
まだ空は明るいのに、路地の中だけ薄暗い。
さっきまでいた部屋の匂いが、靴の裏にくっついてきている気がする。
扉が閉まる音が、背中の方で重く響いた。
振り返れば、傷だらけの木と黒ずんだ壁しか見えない。
けれどその向こうでは、今も誰かの値段が書き込まれ、消されているのだろう。
ロックはしばらく黙って歩き、
路地の出口あたりで立ち止まった。
夕陽が、三人の影を長く伸ばす。
ロックは、手の中の布袋を軽く掲げた。
「……分かった。」
ロックがぽつりと零す。
「何が?」
ルヴァートが肩越しに覗き込む。
「盗賊三人売って四十五。
最強が一二〇〇。」
ロックは布袋を指で弾いた。
「――今の稼ぎ方じゃ、王に辿り着く前に足りねぇ。」
淡々とした言い方なのに、その言葉だけが、よりずっと遠くを指している。
「王、ね。」
ルヴァートは薄く笑う。
「またずいぶん、遠いところを見てるわね。」
「“焼く瞬間”に金はいらねぇ。」
ロックは目を伏せた。
「だが、そこに行くまでの準備には、山ほどいる。」
旅路。
情報。
人の動き。
金で買えるものと、買えないもの。
この国の奴隷制度ごと王を焼くなら、ただ突っ込んでも届かない。
「だから、稼ぐ。」
ロックは布袋を握り直した。
「俺が選んだ喧嘩だ。
払うべき金は、俺が払う。」
それは正義の宣言ではない。
誰かを救うと約束する言葉でもない。
ただ、自分の選んだ行いに、誠実であろうとするための独白だった。
「……どうするつもり?」
ルヴァートが、隣で腕を組む。
「さっきの話を聞いた限りだと、“一番強い奴隷”を買うには、まだまだ足りないみたいだけど。」
「足りねぇな。」
ロックは素直に認める。
「三人でちまちま稼いでたら、王に辿り着く前に俺の方がくたばる。」
「じゃあ、やめる?」
「やめねぇよ。」
ロックは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「“やめる”って選択肢が欲しかったなら、とっくにこの国を避けてる。」
ルヴァートが、ふう、と息を吐く。
「なら、どうするの。
奴隷を買う金も、人を雇う金も足りない。」
「人手はいる。」
ロックははっきりと言った。
「強い奴隷を一人買う金がなくても、“動かせる人間”がいれば稼ぎ方はいくらでも増やせる。
俺一人が動くより、十人で動いた方が早い。」
「でも、その“十人”を雇う金がないのよ。」
「雇うとは限らねぇだろ。」
ロックは、ほんの少しだけ目を細める。
「“持ち主のいなくなった屋敷”なら――知ってる。」
その言葉に、ハクタンの肩がびくりと揺れた。
ルヴァートが眉をひそめる。
「……まさか。」
「お前の元の屋敷だ。」
ロックは、あくまで事実を確認するような口調で言う。
「主はもういねぇ。
屋敷も、奴隷も、“誰の責任にもなってねぇ状態”で放り出されてる。」
それは、ロックとハクタンだけが知っている情報だった。
あの日。
ロックが“誠実の火”でハクタンの主を焼き切った時、
主は焼け落ち、命令は途切れた。
けれど――あの塀の内側には、まだ鎖が残っている。
ハクタンは、唇の内側を噛んだ。
(わたしだけ……
刻印が消えて、外に出て……
あの庭を、別の場所から見てる)
それがずっと、どこかで「ずるい」と感じていた。
置いてきた誰か。
置いてきた自分。
そこに、向き合わずにいるのは、
楽で、苦い。
「あの屋敷には、まだ奴隷がいる。」
ロックは、空に伸びる城壁の影を眺めるように目を細めた。
「誰かがそのうち丸ごと買うか、勝手に乗っ取るかするだろう。
どっちにしろ、あそこの奴隷はまた“別の主の命令”で働かされる。」
ハクタンの胸が、きゅっと縮む。
自分のいた場所が、
ただ“別の主の道具置き場”になる未来を想像してしまう。
「だったら――」
ロックは、言葉を区切った。
「誰かに取られる前に、
王に辿り着くための“拠点”として俺が貰う。
その方が効率的だ。」
それは、本当に効率だけを考えた話だった。
屋敷という寝床。
奴隷という人手。
金を払わずに得られるなら、これほど効率のいい話はない。
その言い方は、冷たく聞こえる。
ハクタンは、胸の奥がじわりと熱く、そして冷たくなるのを感じた。
(わたしがいた場所を……
“効率”って言葉で片づけないでほしいって思う自分と)
同時に。
(でも、そうやってちゃんと“道具として見てる”ロックだからこそ、
“道具扱いされてる誰か”を、道具のままにはしておかない気もしてしまう)
自分でも、矛盾だと分かる感情が、胸の中で擦れ合う。
「ロック。」
小さく名前を呼んだ。
ロックの黒い瞳がこちらを向く。
「その……本当に、そこに行く、の?」
「行く理由は、二つだ。」
ロックは指を二本立てる。
「一つは、王に辿り着くための“人手”と“場所”を確保するため。」
それは、完全にロック側の合理の話だ。
もう一つは――と言いかけて、ロックは少しだけ言葉を切った。
ハクタンは、その“間”を待つ。
喉が渇く。
そこに水を注ぐように、言葉が落ちてくるのを待つ感覚。
「もう一つは?」
勇気を振り絞って問いをつなぐ。
ロックは、ハクタンから視線を逸らさずに言った。
「お前の過去を、“ぼやけたまま”にしておきたくねぇ。」
ハクタンの指先が、杖の柄をぎゅっと握りしめた。
「今のままだと、“なんとなく怖かった屋敷”で終わる。」
ロックの声は静かだ。
「それはそれで、いつかお前を噛む。
何かがうまくいかねぇ時に、“あの時のせいだ”って、形の分からねぇ影を全部あそこに押しつける。
そういう“得の悪い言い訳”を、俺はあまり好かねぇ。」
ハクタンは、自分の胸の内側を見透かされたような気がした。
(“あの屋敷のせいで”って……
きっと、何度も思った)
刻印の痛み。
命令されるたびに削られていく、自分の感覚。
自由に歩いている人を見るたびに感じる、小さな嫉妬と諦め。
全部、あの屋敷に押しつけてしまえば楽だった。
「行きたくねぇなら、行かなくていい。」
ロックは、はっきりと言った。
「別の“元手ゼロ”を探す手もある。
お前の屋敷じゃなくても、どっかには似たような場所があるだろうよ。」
「ロック。」
ルヴァートが横から口を挟む。
「それ、本気で言ってる?」
「さてな。」
ロックは淡々と答える。
「俺が欲しいのは、“人手”と“場所”だ。
それを手に入れるやり方は、一つじゃない。」
「でも、“ハクタンの屋敷”を選んだ。」
「そっちの方が、俺の責任を観測しやすいからな。」
ロックは、ほんの少しだけ笑った。
「俺が主を焼いた責任を、“あんたのせいだ”って攻撃できる相手がいる方が、人間らしくなるだろ。」
ハクタンは、その言葉に、何と返していいか分からなかった。
優しいわけじゃない。
慰めているわけでもない。
ただ、“責任の線”をどこに引くかを話している。
それでも――。
(“誰かのせい”なんて……
奴隷だった頃には、そんな発想なかったな……)
命令は一方的で、結果も一方的で、
その全部を呑み込んで、自分の中だけで処理するしかなかった。
あんたのせい、という考え方は、
それだけで少し、世界の形を変える。
「……行きたくない、です。」
ハクタンは、自分の胸の内をそのまま言葉にした。
ルヴァートがわずかに目を見開く。
ロックも、何も言わずに、ただ聞いている。
「怖いし……
思い出したくないこと、たくさんあって……」
喉がきつい。
言葉を押し出すたびに、胸が締め付けられる。
「できれば、ずっと見ないふりしてたいです。」
それは本音だった。
逃げたい。
見たくない。
その本音を、否定せずに口に出したのは、
奴隷だった頃には、できなかったことだ。
沈黙が落ちる。
ロックは、その沈黙を急かさなかった。
ハクタンは、息を整える。
そして、もう一度だけ口を開いた。
「……でも、“知らないまま”も……嫌です。」
指先が震える。
それを押さえつけるように、杖を強く握る。
「もし、あの屋敷が……
わたしを刻印に繋いだ場所なのに、
何も知らないまま別の国に行って……
あとで、もっと嫌な形で思い出したら……」
そこまで言って、
喉の奥で言葉が詰まった。
想像しただけで、息が苦しくなる。
「きっと、わたし……
その時、“あの時ちゃんと見ておけばよかった”って、
嫌な後悔の仕方をする気がして。」
ルヴァートが、ゆっくりと瞬きをする。
ロックは、何も挟まない。
ただ最後まで聞く。
「だから……」
ハクタンは、自分の足元から目を上げた。
ロックの瞳と、まっすぐぶつかる。
「怖いけど。
行きたい、です。」
その声は、とても小さかった。
けれど、はっきりと“選ぶ”という形になっていた。
ルヴァートが、ふっと笑う。
「ちゃんと、自分の言葉で言えるじゃない。」
その声には、少しだけ柔らかさが混ざっていた。
ロックは、ほんの少しだけ目を細める。
「了解。」
それだけ言って、
ハクタンの選択を前提として受け取る。
褒めもしない。
慰めもしない。
その代わりに――責任の線を引く。
「確認。」
ルヴァートが、ハクタンをまっすぐ見る。
「もしあの屋敷に行って……
嫌なことを思い出したり、危ない目に遭ったりしたら。」
言葉を選びながら、ゆっくり続ける。
「あんたはロックを恨む?」
唐突な問い。
ハクタンは目を瞬いた。
(なんで、そんなこと……)
けれど、ルヴァートの灰銀の瞳は真剣だった。
冗談を混ぜる余地はない。
ハクタンは、少しだけ考えてから、首を横に振る。
「……選んだの、わたしだから。」
その答えに、ルヴァートは満足そうに息を吐いた。
「よし。」
肩の力を、やや抜く。
「じゃあ、私も“選んで”付き合う。」
わざとらしく腕を伸ばし、肩を回す。
「暴れる必要が出てきたら、遠慮なく言って。」
「え、あ……暴れは、しないよ……!」
慌てて首を振るハクタンに、
ロックがほんの少しだけ口元を緩めた。
「暴れるかどうかは、向こう次第だ。」
ロックは、二人のやり取りを横目で見ながら歩き出す。
「いつ行くの?」
ルヴァートが横に並びながら問う。
「日が沈むころだな。」
ロックは、丘の方角へ目を向けた。
「でかい屋敷なら、灯りも多い。
警備も、“油断してる場所”も、暗くなってからの方が見つけやすい。」
「戦う気は相変わらずないくせに、そういうところだけ抜け目ないわね。」
「戦えねぇ分、観測くらいはちゃんとやる。」
ルヴァートは、ふっと笑った。
「じゃあ、それまでに腹くらいは満たしておきましょう。
空腹で暴れる主人なんて、見たくないもの。」
「暴れるのはお前とハクタンだろ。」
ロックの返しに、
ルヴァートは「かもね」と肩をすくめ、
ハクタンは「あ、暴れはしない……と思う……!」とまた慌てる。
三人の影が、夕暮れの石畳に長く伸びた。
鎖の街の中で、一つの屋敷が、静かに“標的”として浮かび上がる。
値札の付いた命。
一二〇〇という数字。
四十五という重み。
観測した。
選んだ。
――あとは、その選択に、悪として誠実に責任を取るだけだ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
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