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第4話 鎖の街を歩くための準備

第4話 鎖の街を歩くための準備


 廃屋の奥は、外から想像していた荒れ方とはまるで違っていた。


 軋んだ扉を抜けた先は、しんとした空気の、小さな物置部屋だ。

 長く人の出入りはないはずなのに、床の埃は薄く払われている。

 壁際には木箱がいくつも積まれ、布をかけられた棚には、磨かれたまま眠るランプや皿が並んでいた。


 隠している、というより──「ここで止まってしまった」という整頓の仕方だった。


 ロックは周囲を一瞥すると、ためらいなく手前の木箱の一つに足をかける。

 靴底でぐいと蓋を押しやり、金具のきしむ音をさせた。


「……ほんと、遠慮ないわね」


 背後から、乾いた声が落ちる。

 ルヴァートが肩をすくめ、壁にもたれた。


「遠慮して得があるなら、考える」


 ロックは短く返し、箱の中を覗き込む。


 布に包まれた金属が、こつんと触れ合う低い音。

 布をめくると、赤黒いガントレットと、装飾をそぎ落とした軽鎧、鞘に収まった一本の剣が現れた。

 錆はない。手入れだけは、つい最近までされていたようだ。


 ルヴァートの目が細められる。

 視線が、一瞬だけ鋭くなった。


「……それ」


「お前のか」


 問いというより、確認。

 ロックの言葉に、ルヴァートは何も言わないまま歩み寄り、剣の柄を取った。


 鞘を握る手は、迷いなく自然な位置をなぞる。

 体が覚えていた重さが、掌の感覚とぴたりと噛み合う。


「返してもらうだけよ」


 ルヴァートは軽く剣を振ってバランスを確かめ、赤い髪を後ろで束ね直す。

 ガントレットを嵌め、軽鎧の留め金をひとつずつ締めていく指は、無駄な動きがひとつもない。


 長く付き合ってきた道具を取り戻した人間の、静かな手つき。

 さっきまで奴隷服の布に隠されていた体の線が、戦うための形に戻っていく。


「……落ち着いたか」


 ロックが尋ねる。

 ルヴァートは、ほんの少しだけ口元を歪めた。


「奴隷にされた時よりは、マシね」


 軽口にしては、沈んだ響きが混じっていた。


 ロックは別の木箱の蓋を外す。

 こちらはさきほどより一回り小さい箱で、中には簡素な軽装と、握りやすそうな短い杖が一本収められている。


「ハクタン」


 名を呼ばれ、肩をびくりと跳ねさせる気配。

 ロックは顎で箱を示した。


「これ、着てみろ。杖も持て」


「……わ、わたし?」


「サイズ、合いそうだ」


 ハクタンはおずおずと箱の中を覗き込む。


 薄い革の胸当てと、身体に沿う柔らかな布のローブ。

 色はくすんだ灰と茶だが、奴隷服と違って、生地に「守るため」の厚みがあった。


「……これ、ホントに、使っていいの……?」


「ここ、ただの物置だろ。

 役に立たねぇで眠ってるよりマシだ」


 ロックはあっさりと言う。


「奪うのが嫌なら、“借りる”でもいい。

 どっちにしろ、決めるのはお前だ」


 選択肢だけを差し出し、押し付けはしない言い方。


 ハクタンはしばらく箱とロックの顔を交互に見ていたが、やがて小さく息を吸った。


「……か、借りる……

 ちゃんと返せるように、がんばるから」


 そう呟いて、服と杖を胸に抱えた。


「着替えてくる」


 物置の隅へ移動し、古い棚を仕切りにして背を向ける。

 奴隷服を脱ぎ捨てると、冷たい鎖の擦れた感触がふと肌に蘇り、ハクタンは思わず肩をすぼめた。


(もう……あれには、戻らない……)


 胸の前で小さく呟きながら、革の胸当てを身に通し、ローブの紐をぎこちなく結ぶ。

 布が肌に沿って落ち着く感触は、鎖とは違う、体温を包む重さだった。


 ローブの裾を整え、短い杖を握る。

 手に馴染む木の感触に、ほんの少しだけ心が落ち着く。


「……お、またせ……」


 振り返り、部屋の真ん中に出る。

 ハクタンは杖を胸の前で抱えたまま、恐る恐る一歩進み──


「……ど、どう……かな……?」


 言い終えると、勇気を振り絞るように、その場でちいさく一回転した。

 軽装がふわりと揺れ、金の瞳が、不安と期待の混ざった色でロックを見上げる。


 ロックは、黙って観測した。


(歩幅は狭いが、布の遊びがあるぶん動きやすそうだ。

 杖の重さも、腕の使い方を間違えなきゃ問題ねぇ)


 評価を終えてから、短く言葉にする。


「……似合ってる」


「……っ」


 たったそれだけの言葉に、ハクタンの耳まで一気に赤くなる。


「に、にあって……」


 言葉の続きが出てこなくて、杖を抱きしめる指先だけが、ぎゅっと力をこめた。

 胸の奥で、小さな火がぽっと灯ったように温かくなる。


(ロックの“似合ってる”は……

 ちゃんと、見てから言ってくれてる……)


 ルヴァートが横目でじろりと見る。


「……あざといわね、その回りかた」


「えっ!? ち、ちが……!

 べ、べつに、そんなつもりじゃ……!」


 ハクタンが慌てて両手を振る。

 杖がカツンと床を叩き、その音が小さな部屋に弾んだ。


 ロックは二人のやりとりを流し見ながら、廃屋の出入口へ視線を向ける。


「装備はそれでいい。

 行くぞ」


「ちょっと待って」


 ルヴァートの声が、ロックの背中に向かって飛ぶ。


「あなたは? 武器は」


「俺は戦えねぇ」


「……何それ」


 あまりにも平然とした言い切りに、ルヴァートの眉がわずかに跳ねた。


「さっきの火は?

 奴隷刻印を解いた、あの……」


「あれは“燃やす相手”を選ぶための火だ。

 誠実か不誠実かを観測する。

 刃みたいに振り回すもんじゃねぇ」


 ロックは淡々と言う。


「剣も握れるが、戦士としては雑魚だ。

 前に出れば足を引っ張る」


「……じゃあ、本気で“戦わせるつもり”なのね。私に」


「戦える奴が戦うのが、いちばん損が少ねぇ」


 合理、という言葉をわざわざ口にするまでもない口調。


 ルヴァートは一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。


「……最低だけど、分かりやすいわ」


 そこには、呆れと、少しばかりの安心が同居している。

 役割がはっきりしている方が、まだ戦いやすい。


「行きましょう。

 どうせ黙ってても、巻き込まれるんでしょうし」


「巻き込む気はある」


「開き直り早いのも、腹立つわね」


 ハクタンは二人の会話を聞きながら、杖を握り直した。


(ロックは……“理由がある時だけ動く”……

 だから、わたしも……動くって決めたなら、前に出ないと)


 小さな胸の鼓動を押さえ込むように、一度だけ深呼吸をした。


 ◇


 廃屋を出て、鎖の街へ戻る道。


 昼間と同じ灰色の空気が、さっきより濃く感じられた。

 通りを行き交う人々は、三人をちらりと見るだけで、すぐに視線をそらす。


 見てしまえば、何かを選ばされる。

 そんなふうに怯えた横顔が、あちこちにあった。


(……みんな、目の奥が……薄い……)


 ハクタンは色視を意識しないようにしながらも、視界の端に混じる色の気配から目をそらせない。

 諦めを幾層にも塗り重ねて固めたような灰色が、人々の背中にこびりついていた。


 ロックはその中を、一定の歩幅で進む。

 視線は正面に向いているが、その意識は街全体を撫でていた。


(王の命令が、街ごと薄めてやがる。

 命令だけ残して、考える頭を削る。

 さっきの門の見張りと、同じ構造だ)


 眉間に寄りそうになる皺を指先で押さえ、ロックは肩の力を抜いた。

 怒りに飲まれる前に、構造だけを切り分けておくために。


 その時だった。


 横道から、がさりと砂を踏みしめる音がした。


「おい、そこの三人」


 掠れた声が、灰色の空気をかき混ぜる。


 路地から、軽装の男たちが二人、じわりとにじみ出るように現れた。

 痩せこけた頬。油の抜けた刃物。

 ただし、その目には、門番たちが持っていなかった“生臭さ”が差している。


「その外套、いい布じゃねぇか。

 売ればしばらくは、遊んで暮らせるな」


「女が二人もいるとは、景気のいいこった。

 おい、痛い目みたくなきゃ、置いてけよ」


 言葉の端々に、誰かから借りてきた脅し文句と、自分の腹を満たしたいだけの欲が混ざり合っていた。


 ハクタンは思わずロックの横に身を寄せる。

 色視には、彼らの灰の中に、濁りながらも赤い火種のような色が見えた。


(……こわい……

 でも、この赤……

 さっきの見張りの、空っぽの灰とはちがう……)


 ロックの胸の奥で、誠実の火は静かなままだった。


(燃えねぇな)


 自分の腹を満たしたい。楽をしたい。

 誰かのものを奪う理由としては最悪だが──

 少なくとも、自分の欲に蓋はしていない。


 不誠実かどうかで言えば、まだ曖昧な領域。


「……火が、反応しねぇ」


 ロックはぽつりと言う。


「こいつら、ただ腹減ってるだけだ」


「へぇ。分析ありがと」


 ルヴァートは剣の柄に軽く手を添える。

 まだ抜かないが、いつでも動ける距離。


 その前に──


「……ロックの前には、誰も行かせない……!」


 震える声が、一歩前に出た。

 ハクタンだった。


 彼女は両手で杖を握りしめ、ロックの前に立つ。

 その足取りはおぼつかないのに、位置だけは譲らない。


 息を大きく一度吸い込み、目を閉じる。


 足元から、薄い光が立ち上がった。

 透明な膜のようなものが、ロックたちの前面にふわりと広がる。


 結界。


 まだ心許ない厚みだが、吹き付ける砂混じりの風が当たると、表面に細かな波紋が走る。

 光の薄幕が、ハクタンの腕の震えに合わせて、かすかに揺れた。


「なんだぁ、ガキが先頭かよ」


 一人の盗賊が笑い、刃を構える。


「痛い目見たくなきゃ──」


「うるさいわね」


 軽く舌打ちする音が、ハクタンの背後から聞こえた。

 ルヴァートが一歩前に出る。


 剣が鞘から滑り出る、短い金属音。

 その瞬間、空気の重心が変わった。


「女が前に出てくんのか?」


「その口ぶり、今のうちに直しときなさい」


 ルヴァートの声音は、氷のように冷たい。


 次の瞬間、彼女の姿がふっと揺らいだように見えた。


 盗賊の一人が、何が起きたのか理解するより早く──

 手首の外側に浅い痛みを覚え、握っていた刃が地面に転がり落ちる。


「……え?」


 視線を下げると、袖の布が細く裂けて血がにじんでいた。

 いつ切られたのか分からない。


 ルヴァートは大振りも踏み込みもなく、

 ただ「必要な位置」に、必要な角度で剣を滑らせている。


 もう一人の盗賊が慌てて踏み込むが、その足首を狙った短い軌跡が、動きだけを奪う。

 誰も致命傷は負っていない。

 だが、誰もまともに武器を握れなくなった。


「……ちっ」


 残った方が一歩下がる。


「なんだこいつ……!」


 ルヴァートは肩越しにロックを睨んだ。


「ほんとに、見てるだけなのね、あなた」


「戦えねぇって言っただろ」


「せめて、ちょっとは悪あがきしてみなさいよ」


「悪あがきで死んだら、損だろ」


 ロックの返答は、砂漠の風みたいに乾いている。


 ルヴァートは大袈裟にはため息をつかず、代わりに剣先をわずかに下ろした。


「……そういう合理性、ほんと腹立つわ」


 けれど、その言葉の中には、

 否定しきれない理解の色がうっすらと混じっていた。


 ハクタンは結界を維持しながら、二人を見比べる。


(ロックは……ほんとに前に出ない……

 でも、その代わりに……

 わたしとルヴァートさんが“前”なんだ……)


 その自覚が、怖さと同じくらい、彼女の足をその場に固定した。


 ◇

「動くな」


 路地の奥から、刃物で空気を裂いたような声が落ちてきた。


 世界が、一拍遅れて止まる。


 足首から冷たい何かが這い上がり、骨の一本一本に鎖を巻きつけられたような感覚。

 肺が縮み、胸郭の内側に「動くな」という烙印を押し込まれたみたいに、意志の方が押しつぶされていく。


「……っ」


 ハクタンの膝が、かくりと折れかける。

 結界の光は、風にあおられた蝋燭みたいに一瞬だけ細くなり、揺らぐ。


(からまって……くる……!)


 彼女の目には、色がはっきり見えた。

 見えないはずの命令が、黒紫の泥として形を持ち、二人の身体にまとわりつき、関節の一つひとつを鈍く固めていく。

 さっきまでただの空気だった場所が、一面の沼に変わる。


 ルヴァートの足も止まった。

 踏み込もうとした体勢のまま、前に出るはずだった力が、皮膚の下で硬く凍りつく。


(……また……これ……!)


 胸の奥がきゅっと縮む。

 “自由を奪われる”瞬間の匂い──それだけは、本能が鋭く嗅ぎ分ける。

 自分の自由が奪われた時の「力の線」が、今また自分に食い込んでくる。


 細い路地の奥から、黒いローブの男がぬるりと姿を現した。

 痩せた頬に浮かんだ隈。乾いた唇が、優越と疲労を混ぜたいやな形に歪んでいる。


「“動くな”と言った」


 二度目の言葉が落ちた瞬間、見えない鎖はさらにきつく締まる。

 ハクタンの結界から、光が一層削り取られた。


 ロック以外の二人の周囲だけが黒紫に塗りつぶされる。

 ハクタンにはそれが、まるで身体の線をなぞるようにぴったり張り付く「膜」として見えた。


(……いやだ……動きたい……のに……でも……)


 心の中でどれだけ叫んでも、筋肉が応えない。

 命令の色が、意志の層を削り落としていく。


 そんな空気の底で──


 ただ一人、ロックだけが、歩みを止めなかった。


 普通に。

 何もない道を歩くみたいに。


 黒紫の泥がロックの足首に触れた瞬間、

 そこだけが、水面から弾かれた油のように、ぴち、と弾けてはじき飛んだ。


 男の目が、あり得ないものを見たように見開かれる。


「なぜ、お前は止まらない」


 喉の奥に、生まれて初めての“怯え”の色が混じる。


「命令なんざ、聞く気がねぇからな」


 ロックは、本当に不思議そうな顔で言った。

 “普通は従うものだろ?”という前提を一切持っていない目。


「それだけだ」


(それ“だけ”で、通れる魔法じゃない……!)


 王の声。

 特権魔法。

 逆らえば即座に処罰される「絶対」の象徴。

 その中を、こいつはただの石畳みたいな顔で歩いてくる。

 ルヴァートは強張った視線だけをロックに向ける。

 脳が理解を拒み、呼吸が乱れそうになる。


(この国の命令って……ここまで……

 “自由を奪う”ためだけに作られてる……)


 声ひとつで、呼吸も、視線も、選択も──全部奪われる。


 ハクタンの胸の奥で、小さな火がふっと灯る。

 ロックの胸の内側から、橙の光がぼんやりと膨らむ気配。


 ロック自身は色を見ていない。

 だが、男の魔法がどんな「形」でまとわりついているのか、その構造だけは正確に理解している。


(命令を薄めた残滓か。

 自分の声を“王の声のつもり”で振り回して、

 相手の思考をまっすぐ削ぐための……

 この国の空気の劣化版だな)


 男の唇が乾いた音を立てる。


「この魔法は絶対だ。

 王の命令から分け与えられた“力”だぞ!」


 声の端に滲む焦り。

 “絶対”を掲げている本人が、絶対を信じ切れていない。


「王様の安物コピーだな」


 ロックは吐き捨てるように言った。


「中身のねぇ命令ほど、いちばん燃えやすい」


 右の掌が、静かに開かれる。


 そこに灯った火は、小さい。

 しかし、濃い。


 爆ぜる炎ではない。

 空気に染み込んだ黒紫の“命令の形”だけを照らし、縫い取るように燃す灯火。


 ハクタンには、その火の流れがよく見えた。

 ロックの胸から掌へ、一本の細い線で繋がる橙。

 街の灰とは違う、芯のある色。


(……やさしい……けど、やさしさじゃない……

 切り分けるための火……)


 ロックが、軽く指先を払う。


 橙の火が、空気へとにじみ出る。

 二人の体を縛る黒紫の膜だけを選んで絡みついた。


 触れたところから、音もなく、しかし確実に焼けていく。


 じゅ、と。

 耳には届かないほど小さな、焼け焦げる気配。

 皮膚の内側で鳴ったように感じられる。


 ルヴァートを覆っていた膜に、細かい亀裂が走る。

 ピシ、と乾いたひび割れの音。

 そこから、橙の光が差し込む。


「……っ……!」


 麻痺していた指先に、感覚が戻る。

 筋肉が、自分のものとして再び結び直されていく。


(命令が……剥がれてる……!?

 声ひとつで奪われた自由が……戻ってくる……?

 そんな……そんな力、あるわけ……)


 ハクタンの周りの膜にも、同じひびが走った。

 黒紫の上に橙の紋が描かれ、意味だけを抜き取られるように崩れていく。


「……やめ──」


 男が何かを言いかけた瞬間、ひび割れは一気に全体へ広がった。


 殻が割れるような感触。


 砕けた黒紫の破片は、人の肌には触れず、

 空中に浮かんだまま橙の火に舐められ、静かに消えていく。


 ハクタンの体から、重さが一気に抜け落ちた。


「……っ、う、動ける……!」


 膝が笑いながらも、杖を支えて踏みとどまる。


 ルヴァートも、小さく息を吐き出す。

 固まっていた肩が、軋むように動く。


「安い命令だな」


 ロックは男を見下ろした。


「自分で選ぶ痛みを、全部他人に投げてる」


 男の顔から表情が抜け落ちる。

 誇りだったはずの「特権」が剥がれ落ち、

 膝から崩れ落ちたそこには、ただの疲れ切った人間だけが残った。


 今まで威圧としてまとっていたものが、全部灰になり、足元に崩れ落ちている。


 ルヴァートは、まだ少し震える指で剣を支えながら、ロックをまっすぐ見た。


「……ねぇ、ロック」


 声が、わずかに低く揺れる。


「アンタ……何者なのよ」


 吐き出すような言葉だった。


「自由を奪う魔法よ?

 たった“声”で、人を止めて、縛って、意志を削る……

 普通は、逆らえない。私も……ハクタンも……こうやって、縛られたのに」


 その目が、ロックの歩いてきた足跡をなぞる。


「なのにアンタだけ、当たり前みたいな顔して突っ切るじゃない。

 どうして怖くないの? どうして膝が震えないの?

 なんで……そんなふうに立っていられるのよ」


 羨望と怒りと恐怖が全部混じった声。

 理解の外側にある人間を前にすると、人はこういう声になる。


 ロックはほんの一瞬だけ瞬きした。


「……別に、なんでもねぇよ」


 淡々とした声で。


「動けるから動いただけだ。

 止まる理由がなかった」


 説明にもならない説明。

 だけど、ロックにとってはたぶん“本当の全部”。


「魔法がどうとか、絶対だとか、気にする価値がねぇ。

 必要だと思ったから歩いただけだ」


 それは異能でも英雄性でもなく──

 ただ“観測したうえで選んだ最短の行動”というだけの顔だった。


 ルヴァートは呼吸を一度止め、次の瞬間ふっと笑った。


「……ねぇ、それってさ」


 少しだけ息が震えている。


「一番……タチ悪いわよ。

 “特別”みたいな顔しないで、当然みたいに越えてくるの……」


 言葉は刺々しいのに、声には救われたような色が混ざっていた。


 剣を握り直し、静かに続ける。


「で? どうするのこいつら? 殺すなら今だけど」


「殺す理由がねぇ」


 ロックは即答する。


「こいつが今までばら撒いた命令の“尻ぬぐい”まで、俺の仕事じゃねぇ」


 それは冷たさというより、線引きの言葉だった。


 ハクタンはその一言に、胸が少しだけ痛くなる。


(でも……ロックは、見てないわけじゃない……

 見たうえで、“ここまで”って決めてる……)


 倒れた盗賊たちが、地面にうめき声をこぼす。

 手首や足首を押さえながら、それでもこちらを睨みつける目もある。


 ロックはその中の一人に視線を止めた。


 飢えたような目。

 灰の奥に、まだ火種みたいな赤がしぶとく残っている。


「……」


 短く考え込んだあと、ロックは口を開いた。


「こいつら」


 顎で、盗賊たちをしゃくる。


「売れるか」


「……は?」


 最初に声を上げたのは、ルヴァートだった。


「今なんて言った?」


「働ける腕と足がある。

 こいつらの“得”は、奪うことしか知らねぇだけだ。

 だったら、売って金に換えたほうが、まだマシだろ」


 あまりにも淡々とした口調。


「……アンタ、本気で言ってるの?」


「悪でやってる」


 それは、言い訳ではなく宣言だった。


 ハクタンは思わず、杖を握りしめる。


「ろ、ロック……

 それって、すごく……悪い……」


「悪いことをする時は、“自分の得のためだ”って正直に言う。

 それが誠実だ」


 ロックは盗賊たちの顔を順番に見ていく。


「こいつらに“二度と奪いに来ない”って約束させるより、

 働かせたほうがマシだ。

 命まで奪うほどの不誠実は、まだ見てねぇ」


 ルヴァートは短い沈黙のあと、剣を鞘に戻した。


「……やっぱり、本物の悪ね、あなた」


「褒め言葉か」


「半分はね」


 口調はとげとげしいが、その目はロックの背中から離れなかった。

 自分がどんな相手と組むことになったのか、その輪郭を確かめるように。


 ハクタンもまた、胸の中でざわざわと揺れる何かを抱えながら、ロックを見ていた。


(ロックは……

 本当に、“悪として”誠実なんだ……)


 灰色の風が、路地を抜けていく。

 倒れた盗賊たちの呻き声だけが、安っぽい夕方の空気に混じっていた。


 ロックは視線を、地面から街の奥へと上げる。


「……行くぞ」


「どこへ?」とルヴァート。


「売れそうな場所」


 それだけ告げて、ロックは歩き出した。


 ハクタンは一瞬だけ足を止めかけてから、短く頷き、その背中を追う。

 ルヴァートも、剣の重みを肩で確かめながら、その隣に歩を並べた。


 鎖の街の中に、三つの影が、まだばらばらの温度のまま、ゆっくりと馴染んでいく。


 火はまだ小さい。

 だが確かに──悪として燃やすための形を、三人で取り始めていた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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