第17話 灰色の街、赤い火の影
第17話 灰色の街、赤い火の影
裏路地は、まだ朝の冷たい空気を抱えていた。
足音だけが、四人の逃走を知らせるように乾いた石畳に響く。
ロックは一度も振り返らなかった。
あの屋敷で生まれ始めていた日常――笑い声、ぎこちない会話、温かい食卓――それらを背負ったまま、ただ前へ進む。
壁の影が、何度も角を曲がっていく。
屋敷の匂いが、街の匂いに薄められていく。
ルヴァートが小さく息を吐いた。
「……ねぇ、ロック。
こうして後ろ姿だけ見てるとさ……なんか、ほんとに屋敷を捨てたんだなって実感するわ。」
ロックは走りを崩さない。
「何だよ、今さら寂しくなったのか。」
「なるに決まってんでしょ。」
ルヴァートが肩をすくめる。
「なんだかんだで、あのガタガタの屋敷……居心地良かったじゃない。」
ハクタンも、小さく言った。
「……うん。
みんな、やっと……笑ってたのに。」
ロックは短く息を吐いた。
それでも前を向いたまま。
「笑う時間があったなら、それで十分だ。
あそこを守るために全滅するのは……馬鹿のやることだ。」
ルヴァートが小さく苦笑した。
「そういう言い方するから、あんたは悪に向いてないって言うのよ。」
帰らない日常。
それを理解しながらも、誰も足を止めなかった。
遠くで、重い衝撃音が響いた。
王命隊が屋敷に到達したのだろう。
その音は、過去を断ち切る刃のようにスラムへ届く。
ロックは眉一つ動かさず言った。
「急ぐぞ。」
◇
広い通りに出ると、ロックは自然と話し始めた。
走りながら、呼吸するより自然に。
「城の出入り口は三つ。
使えるのは裏の二つだけだ。
正面は戦士奴隷が固まってる。」
四人は細い路地を抜け、次の大通りへ出る。
スラムへ向かう道はまだ人影もまばらで、足音がよく響いた。
走りながら、ロックは思考をそのまま言葉に落とす。
「……三つ。」
ハクタンが小さく繰り返す。
「戦士奴隷が最前線に?」
ルヴァートが眉を寄せる。
「あいつらは“命令で動く壁”だ。」
ロックの声は淡々。
「王の側に置かれるのは当然だ。」
ジュラルが速度を合わせながら報告する。
「訓練場は城の東に集中しています。
王命隊の動きは単純で直線的。
命令の伝達に依存しすぎていて……横の連携は薄い。」
「つまり、正面からぶつかるのは愚策ってわけね。」
ルヴァートが腕を組む。
「正論の国と比べれば、連携の粗がよく見えます。」
ジュラルは淡々と言う。
「……もっと言えば、個の判断が捨てられている分だけ、対処しやすいかもしれません。」
「医療区画はどう?」
ルヴァートが訊く。
「損耗した戦士奴隷はそこに集められてる。
負荷が高すぎて壊れかけの奴らばかりだ。」
ロックは淡々と言う。
ルヴァートは眉を上げた。
「働ける奴隷はロックに流れて、城は人手不足。
それで王は娯楽奴隷を異常に消費してる。……笑えない状況ね。」
その言い方に、ロックは肩をすくめるだけだった。
ハクタンが視線を道の先へ向けたまま呟く。
「……スラムが近い……
灰色が……濃くなってきてる……」
「色の話か?」
ロックが短く問う。
「……うん。
誰も……未来を見てない色。」
ハクタンの声は震えていた。
「王命隊の色は……空っぽのまんま……。」
ロックは少しだけ目を細める。
「この国が壊れてる理由だよ。
色を見るまでもねぇけどな。」
◇
四人の速度は自然と速まり、ロックが次の指示を口にする。
「城に入ったら、ジュラルが前だ。
あいつらの突進を、まずお前が止める。」
「承知しています。」
ジュラルは短く答えた。
「ですが、止めるだけでよいのですね。」
「ああ。」
ロックは続ける。
「んで、ルヴァート。
お前は刻印の位置を露出させろ。
切れ味は一番信用してる。」
ルヴァートは軽く鼻で笑った。
「“露出させろ”ってあんたね……。
まあいいわ、派手にやってあげる。
あたしの剣が泣かない程度にはね。」
ルヴァートは軽口を叩きながら、目だけは獰猛に光っていた。
「頼りにしてる。」
言葉が、飾りなく落ちる。
その一言に、ルヴァートはわずかに目をそらす。
「……やめてよ、そういう言い方。」
ロックは続ける。
「ハクタンは俺の護衛。
それと、操られてる奴と、自分で従ってる奴の区別をつけろ。」
「……うん。
ちゃんと、見る。」
短い返事。
未完成のままの音が、背中に残る。
ロックは前を見る。
「そこまで渡してくれりゃ……あとは俺が燃やす。」
ロックは静かに言った。
「全部だ。」
その言葉の裏側で、ハクタンはふとロックの胸元に目を落とす。
(……ロック……
赤い火の後ろ……黒が……揺れて……)
赤い火の奥で揺れる黒。
誰にも気づかれない影。
痛みのようなものが胸を打った。
けれど、ハクタンは言葉を飲み込む。
ロックの邪魔をしたくない。
ただそれだけだった。
◇
大通りを抜け、さらに細い道を進むにつれ、空気が変わり始める。
壊れた家の瓦礫。
雨風を防げず裂けた布切れ。
焦点の合わないまま、地面の一点を見つめる子供。
見栄を張るような偽りの笑顔で金を求める女。
ロックを見るなり怯えて壁に隠れる老人。
逆に、牙をむく獣のような目で睨む若者。
空気が、生きていない。
呼吸していても“命の色”がない。
「……あんた。」
ルヴァートが呆れ半分、本気半分の声を出した。
「ほんとに、こんなとこ……一人で歩いてたの?」
「別に珍しくねぇよ。」
ロックは淡々と返す。
「……バカじゃないの。」
言い捨てて、ルヴァートはロックの半歩後ろに入る。
刃の位置が、自然に人波の外側を押さえる。
ジュラルは静かに前後の気配を読み続ける。
彼の足音は、周囲の腐った空気を押し返すように淡々と響いた。
ハクタンはロックの横に寄り、また胸を見る。
(……黒い……
さっきより……また……)
影は、確かに濃くなっていた。
誰も気づかない。
ハクタン以外には。
だがハクタンは何も言わない。
言えば、ロックが足を止めてしまう気がした。
さらに道を進むと、スラムの中心を抜ける細い抜け道へ出た。
そこは、叫び声とすすり泣きが混じる“沈んだ音”が常に流れている場所。
――“視線の棘”が刺さる。
軽蔑でも、憎悪でも、怯えでもいい。
どれであっても、彼らの視線は“誰かを殺したいほどの色”を帯びていた。
ロックはまっすぐ歩く。
後ろを歩く三人は、自然と彼の“壁”のように位置取っていた。
「……行きましょう。」
ルヴァートが囁く。
「ここ、長居したら……心がすり減るわ。」
「この先を右に折れれば、城の裏道へ入れます。」
ジュラルの声はいつも通りだが、微かな緊張を含んでいた。
「急ぐぞ。」
ロックが歩幅を広げた。
壊れた街の中で、四人の影が長く伸びていく。
その影は、ただ戦場へ向かうだけではない。
それぞれの胸に“覚悟”と“恐れ”と“諦念”が混ざり、重さを増していた。
(ロック……。
どうか……燃え尽きないで……)
ハクタンの祈りのような心の声だけが、誰にも届かぬまま薄暗いスラムに溶けていく。
城は、もうすぐそこだ。
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