第16話 軍来襲――屋敷放棄と悪の合理
第16話 軍来襲――屋敷放棄と悪の合理
その日の屋敷は、妙に軽かった。
廊下の先で、箒の先が壁に知る。
布が擦れる。
誰かが水桶を運び、こぼれた雫を足で避ける。
ぎこちない。遅い。
けれど、止まってはいない。
ロックはその音を背中で聞きながら、歩幅だけは変えずに広間へ向かった。
声をかけない。
目を合わせない。
通り過ぎる時だけ、視線が一度、床をなぞる。
そこに落ちている欠片のようなもの――笑い声の残り香みたいなもの――を拾って、捨てるみたいに。
広間。
ハクタンは椅子の上で足をぶらぶらさせていた。
耳が小さく動く。何かを拾っている。
ルヴァートは帳簿を机に広げ、指先で紙をめくっている。
ロックの席の前には、木のコップが置かれていた。
「ロック、今日は仕事どうする?」
「上位層からの依頼、だいぶ溜まってるわよ」
ルヴァートが帳簿をぱらぱらと鳴らす。
「こっちの胃は痛いのに、あっちは楽しそうに“ロック印がどうのこうの”って騒いでる」
「……暇つぶしにゃ、ちょうどいい」
ロックがコップを一口だけあおる。
その瞬間。
扉が、音を立てずに開いた。
風は入ってこないのに、空気が一段落ちる。
足音は荒くない。
息も乱れていない。
それでも、その歩みだけで屋敷の温度が一度、薄く塗り替えられた。
「ただいま戻りました」
ジュラルだった。
背筋はいつも通り、真っ直ぐ。
けれど目の奥だけが、少し深い。
ロックはコップを置く。
何も聞かない。
ジュラルも、すぐには言わない。
短い沈黙が降りる。
紙の端をめくる音も止まった。
「……軍が動きました」
ハクタンの耳が跳ねる。
ルヴァートは帳簿を閉じ、軽口を封じた。
ジュラルは淡々と続けた。
「正規軍の一部と、奴隷兵の混成部隊が王都中心部から出撃。そのうちの主力は……こちらへ向かっています」
ロックの顔は変わらない。
「それだけか」
「……いえ」
ジュラルの目が、わずかに狭くなる。
「王命隊の七割が、ロック商会の屋敷方面へ行軍中」
「七割?」
ルヴァートが眉を動かす。
「包囲の速度も異常です。明らかに、“標的”を絞っている動き」
ジュラルはロックを見る。
「王命隊は、“ロック印の奴隷”だけを優先的に探している様子です」
ハクタンが喉を鳴らす。
「……ロックの、印……」
ロックは椅子から立ち上がった。
ゆっくりと。
けれど迷いの動作がない。
「到着まで、どれくらいだ」
「……屋敷の周囲を本格的に封鎖されるまで、持って一刻」
ジュラルは余白を挟まない。
「奴隷を探しながらの行軍だと考えても……ほとんど猶予はありません」
ロックは短く息を吐いた。
「――屋敷は捨てる」
その一言で、広間が固まる。
火の粉みたいな音もないのに、空気だけが硬くなる。
最初に口を開いたのは、ルヴァートだった。
「……ちょっとは迷いなさいよ」
肩をすくめる。
顔は軽く見せているのに、目は外していない。
「迷ってりゃ全員死ぬ」
ロックは肩を回す。
関節が鳴るほどではない。
ただ、身体の“向き”だけが切り替わる。
ハクタンが、そっと隣に立った。
視線がロックの胸元へ滑る。
赤い火。
まだ揺れていない。
(……いつもの、ロック……)
頷きかけて、ハクタンは止めた。
頷く動作が、今は重すぎる。
「……どう動く」
ジュラルが問う。
「まずは、ここの奴らを散らす」
即答だった。
「元奴隷を巻き込んで戦う意味がねぇ。数も力も、あいつらが上だ。正面からやり合ったら、ただの虐殺になる」
言葉は乾いている。
どこにも飾りがない。
「王命隊から見りゃ、ロック印は“王の刻印を汚した不敬”だ。あいつらの目に、お前らは“見せしめにぴったりの玩具”にしか映らねぇ」
ルヴァートが口の端だけで歪む。
「……ほんと、趣味悪い国」
「だから、戦わねぇ」
ロックは切った。
「ここで構えたら、全員まとめて殺されるだけだ」
沈黙。
反発は生まれない。
ジュラルは“線”を引き直す顔をしている。
ルヴァートは“現実”を数える目をしている。
ハクタンは“色”を見ている。
誰も、ロックの言葉を飾り直さない。
「……伝えに行く」
ロックが広間を出る。
ハクタンが慌ててついていく。
ルヴァートとジュラルが少し遅れて背中を追った。
玄関ホール。
元奴隷たちが集められていた。
顔色は薄い。
刻印の痕はまだ肌に残っている。
けれど目の中に、かつてなかった“自分”の影が、薄く宿り始めている。
「ロックさん……?」
誰かが名を呼ぶ。
声は小さい。
それだけで、ホールの空気が引き締まる。
ロックは壇も何も使わず、同じ床に立った。
距離を作らない。
逃げ道だけは作る。
「よく聞け」
声は大きくない。
それでも、全員の呼吸が揃って止まる。
「これから軍が来る」
ざわり、と小さな波。
隣の肩が触れ、すぐ離れる。
「王命隊だ。正規軍や奴隷兵も混じってる」
ロックの目が、一人ずつをなぞる。
「狙いは、ロック商会と――お前らだ」
誰かが息を呑む音。
床板がきしむ。
「でも、戦わねぇ」
ロックは言う。
「ここで構えても意味がない。力も数も、向こうが上だ。お前らを前に出したところで、殺されて終わりだ」
現実を、現実のまま落とす。
受け止める時間は与えない。
「だから――全員、今すぐ散れ」
また、ざわめき。
「隊列を組むな。固まるな。誰かと一緒に逃げようとするな。名前も、商会の印も、絶対口にするな」
言葉がホールを縫っていく。
針みたいに短く、刺さって残る。
「顔を変えろ。姿勢を変えろ。今まで通りの動き方をするな」
ルヴァートが腕を組んだまま、小さく笑う。
「“ロック商会です~”って顔は、今日だけ封印ね」
硬かった何人かの口元から、かすかな息が漏れた。
笑いではない。
音が抜けただけ。
ロックは懐から小さな袋を取り出した。
灰色の粉。水を混ぜた匂い。
屋敷の湿り気と混ざって、古い倉庫みたいな臭いになる。
「これ、何……?」
ハクタンが小さく問う。
「偽の刻印だ」
ロックは袋を振り、粉を指先につける。
「もともと誤魔化すためのものだ。魔力を乗せた灰と水で描いてるだけ。痕は残らねぇ」
近くの元奴隷の腕を取る。
薄く光っているロック印を、ぐっと擦った。
淡い光がにじみ、肌色に溶ける。
消えるというより、汚れみたいに広がって、やがて見分けがつかなくなる。
「……っ」
少年のような元奴隷が、自分の腕を見て震えた。
「今から全員、刻印を拭え」
布切れが手渡されていく。
手が震える者もいる。
布を握れない者もいる。
隣が代わりに結び直す。
「消して、隠して、別人みてぇな顔で歩け」
ロックは続けた。
「印がない奴隷は怪しまれる。連れていかれる危険もある」
そこで一拍、落とす。
元奴隷たちの目が揺れる。
「……それでも、ロック印が付いているよりは多少マシだ」
ロックは静かに言う。
「“王を汚した印”でいるよりは、まだ生き残れる」
細い肩が震える。
握りしめた拳が白くなる。
ロックは、そこで初めて視線を少し落とした。
「……悪いが、お前らを完全に守る余裕はねぇ」
取り繕える言葉じゃない。
取り繕う時間もない。
「……お前らが襲われてる間は、向こうも手が塞がる」
ホールが凍る。
息が引っかかる音が、いくつも重なる。
その沈黙を、ルヴァートが割った。
「……前から思ってたけど、あなた悪に向いてないわよ」
ため息まじりに、肩をすくめる。
けれど足は動いている。
元奴隷の手に布を押し込み、結び目を締め直す。
「そんな顔でそんなこと言う人、悪役にしちゃ優しすぎるの」
「……うるせぇ」
ロックは視線を上げた。
「優しいかどうかなんざ、どうでもいい。生き残れる確率が、ちょっとでも上がりゃそれでいい」
それだけ。
ハクタンは、ロックの胸を見る。
赤はまだ澄んでいる。
けれど底に、薄い影が沈み始めている。
(……さっきより……黒い……)
元奴隷の一人が、震える声で口を開いた。
「ロックさんは……?」
「城に行く」
即答だった。
次の瞬間には、当たり前の口調になる。
「王を焼きに、な」
空気が揺れる。
誰も笑わない。
ロックは一歩、前へ出た。
「だから――走れ」
声がホールに落ちる。
「振り返るな。誰かが捕まるのを見ても、助けに戻るな。生き残ったやつだけが、その先でまた選べる」
残酷に聞こえる言葉のまま。
それを、受け取れる目が増えている。
「……はい」
一つ。
また一つ。
「はい」が、ホールの端から端へ連鎖していく。
玄関の扉は、すでに分厚い家具で塞がれ始めていた。
ハクタンとルヴァートが、元奴隷たちと一緒に棚や机を運ぶ。
ジュラルはその配置を、短い指示で組み替えていく。
「もっと重いものを前へ。王命隊がぶつかったとき、簡単には崩れないように」
「こんなもんでどう?」
ルヴァートが棚を押し込み、息を短く吐く。
「十分です」
ジュラルは頷く。
「正面からの突入は、多少は遅らせられるでしょう」
ロックは玄関上部に掛かっていた古いマントを引きはがし、階段の影に引っかけた。
遠目には、人影がそこに立っているように見える。
「……気休めの策にしちゃ、十分だ」
「王命隊は、まず正面を見る」
ロックは淡々と言う。
「バリケードと影が見えりゃ、“中にいる”と思う。その分だけ、外への目が鈍る」
「……一刻ほどは持ちます」
ジュラルが静かに告げる。
「それ以上は、保証できません」
「一刻もいらねぇさ」
ロックは背を向ける。
「俺たちは、とっくにいない」
裏口は、表の豪奢さとは違い、驚くほど質素だった。
荷の搬入に使われていた小さな扉。
湿った木の匂いがする。
そこから、元奴隷たちが少人数ずつ、ばらばらの方向へ散っていく。
消した腕を抱え込む者。
口を結んだまま走り出す者。
足がもつれて転びかけ、起き上がる者。
誰も泣かない。
泣く間がない。
「ロックさん……!」
最後に出ていく女が、振り返って叫んだ。
声が割れる。
足だけは止まらない。
ロックは立ち止まらない。
「生きろ。それだけ覚えときゃいい」
それだけ残して、扉の外へ出た。
冷たい風が頬を撫でる。
裏路地は人の気配が薄い。
屋敷の壁が、背中の熱を奪っていく。
遠くで、軍靴のような重い足音がかすかに響いている。
ハクタンが、そっとロックの隣に並ぶ。
また視線が、ロックの胸元へ滑った。
(……黒い……)
赤い火の底に薄く落ちていた影が、ほんの少しだけ濃くなっている。
迷いの黒じゃない。
諦めでもない。
ただ――沈んでいく。
沈めていく。
「ロック……」
呼びかけかけて、ハクタンは口を閉じた。
ロックは振り返らない。
ただ、一歩、また一歩と歩を速める。
「行くぞ」
短い言葉に、ルヴァートとジュラルも続いた。
屋敷の壁を背に、四人は路地の奥へ消えていく。
少し離れた場所で、城の方角から重い音が響いた。
軍靴が石畳を踏み鳴らし、甲冑が擦れる音が重なっていく。
隊列が、綺麗に畳まれた布みたいに街を割ってくる。
正面玄関の向こうで、王命隊が動き始める。
だが、その時には――ロック商会の主も、仲間も、もうそこにはいなかった。
誰もいない屋敷だけが、静かに、嵐を待っている。
その屋敷を背に、ロックは一度も振り返らなかった。
胸の奥で、赤い火が静かに揺れる。
その底に沈む薄い黒に気づいているのは、世界でただひとり、ハクタンだけだった。
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