第15話 享楽王ヴェルラウト ― 感じることをやめた玉座
第15話 享楽王ヴェルラウト ― 感じることをやめた玉座
朝が、来ていた。
だが、この玉座の主は、その言葉の意味を知らない。
東の空がわずかに白み、城の高窓から光が差し込む。冷たい石床に規則正しく並ぶ奴隷たちの影が、じわ、と伸びていく。
沈黙の中で、ひとりの奴隷が王の枕元に膝をつき、震える指でそっと瞼に触れた。
「……」
ゆっくりと、まぶたが持ち上げられる。
享楽王ヴェルラウトは、自分で目を開けたことがない。
目覚めは「起きよう」という意志の結果ではなく、「周囲の者がそうさせた」結果として起こる現象だった。
視界に入るのは、いつも通りの玉座の間。
高い天井。
過剰な装飾。
意味のないほど広い空間。
そしてその途中――玉座から見下ろせる位置で、王命隊の黒い鎧が、鉄の棒を振り下ろしていた。
鈍く重い音が、石の間に響き渡る。
ごきり、と。
骨が折れる音だ。
「……ぁ……あ……!」
悲鳴が上がる。
しかし、王の耳には、音の種類としてしか届かない。
痛みも、恐怖も、そこに紐づく物語も、彼には一切、結びつかない。
(……音がする。)
その程度だ。
王命隊は、王の朝に合わせて“壊す奴隷”の数を増減させる。
今日の対象は、夜のうちに集められた奴隷商会の不良在庫と、ささやかなミスをした城内奴隷たちだった。
鉄の棒は剣ではない。
切り落とせば、そこで終わってしまう。
折り、砕き、潰し、悲鳴と震えを引き出して、また治療と魔法で“使える身体”に戻す。
何度でも、壊せるように。
王にとっては、歯を磨くのと同じくらい、当たり前の朝の光景だった。
「……水。」
ヴェルラウトが短く言うと、
即座に別の奴隷が盃を差し出す。
口元へ運ばれる液体は、温度も甘みも、香りも、この国でもっとも洗練された酒だ。
だが王は、その全てを感じ取ることができない。
味は、とうの昔に死んでいる。
過剰な享楽の果てに、刺激に反応する機能そのものが、擦り切れてしまったのだ。
それでも奴隷は、わずかな表情の変化を必死に読み取りながら、角度を変え、量を調整し、
「楽しませよう」と手を尽くす。
王は、それを当然だと思っている。
(……何も……変わらないな。)
退屈、という言葉も、ヴェルラウトには持て余すほど複雑だ。
ただ、「何も感じられない」という状態だけが、彼の生の大半を占めていた。
鉄の棒が、もう一度、鈍い音を響かせる。
悲鳴が、少しだけ高くなる。
(……やはり、何も。)
感じようとしたわけではない。
ただ、何も起きないという事実だけが、王の内側にじっとりと残る。
その瞬間――
「へ、陛下ッ……!」
玉座の間の扉が荒々しく開き、側近が転がり込むように駆け寄った。
王命隊は鉄の棒を振るう手を止めない。
奴隷の叫びと、骨の砕ける音の中をすり抜けて、側近は玉座に膝をついた。
「……うるさい。」
ヴェルラウトの声は小さく、薄い。
だが、それだけで側近の肩がびくりと揺れる。
「“邪魔するな”とは言っていない。
“話せ”。」
命令が形を取った瞬間、側近は自分の命の細さを思い知らされる。
「ろ、ロック商会という者が――」
その名が、初めて玉座の間に落ちた。
「奴隷事業を、ほとんど……攫っております……!」
「……攫う?」
ヴェルラウトの瞳が、僅かに細くなる。
理解は遅い。
彼は、奴隷の国の仕組みを「楽しみを供給する装置」としか見ていない。
金の流れも、政治も、支配構造も、彼の世界には存在しない。
ただ――「自分にどれだけ楽しみが届くか」だけが、彼の判断基準だ。
「どこが、だ。」
短く問う。
「命令を待たずとも、自ら動いて働きます……!
上位層の屋敷や商館では、“ロック印”の付いた奴隷が、
主の細かな命令なしに、勝手に判断して動き……」
「勝手に。」
その言葉だけが、ヴェルラウトの意識に引っかかった。
奴隷が命令を待たずに動く。
主の意志ではなく、自分の判断で動く。
それは、この国の構造からすれば、
些細ではあるが、致命的な“異常”だった。
ヴェルラウトの世界では、
奴隷は「命令にだけ従う手」であり、
世界は「王を楽しませるための装置」だ。
その手が、自分以外の誰かの意志で動く。
それは、王から見れば、世界が「別の中心」を持つということだった。
「……それだけか。」
王の声は、まだ平坦だ。
側近は首を振る。
喉が鳴り、言葉が詰まり、それでも吐き出す。
「い、いえ……それだけではありません……!
上位層の資金が……ロック商会に、流れ始めております……!」
「……」
「陛下の娯楽のために用意されていた資金が……
次々とロック商会の“契約”へ……!」
ヴェルラウトは、金の価値を知らない。
だが、意味はわかる。
(……私を楽しませるための物が、減る。)
王の「理解」は、その一点に集約される。
王命隊が、鉄棒を振り下ろす。
奴隷が喉を潰されたような声を上げる。
音は濃くなっているはずなのに、
それでも王の心は動かない。
(……また、何も感じないまま、減っていくのか。)
供給だけが減り、
虚無だけが増えていく感覚。
それを“恐怖”という言葉で呼べたなら、
まだ人間でいられただろう。
だがヴェルラウトの内側には、
恐怖という概念すら育たない。
ただ、「気に入らない」という、
あまりにも幼い感覚だけが残る。
「……まだある。」
ヴェルラウトは、側近の顔を見ないまま言った。
側近は、喉を詰まらせながら頷き、さらに告げる。
「そ、それと……!
ロック商会の奴隷は……
王都の奴隷商会で売られていた刻印奴隷を、買い取り……!」
ヴェルラウトの瞳だけが、ほんのわずか、玉座の間の隅を見た。
王命隊の鉄棒で骨を砕かれた奴隷たちの肌には、
深く刻まれた刻印がある。
王の命令が流れる印。
この国に生きる者が、「王の所有物」である証。
「その上から、“ロック印”と呼ばれる印を……」
側近の声が、震える。
「な、なぞっております……!
陛下の刻印の上に……
別の印を……!」
玉座の間の空気が、一瞬だけ静止する。
王命隊の鉄棒が振り下ろされ、
今度は肩ごと関節が外れる音が響いた。
奴隷が悲鳴を上げる。
それでもヴェルラウトは、そちらを見ない。
(……私の印の上に……)
刻印そのものが消えているとは、誰も思っていない。
だが、王からすればそんなことはどうでもいい。
大切なのは、「上に描かれた」という事実だけだ。
(……私の物に、勝手に何かを書いた。)
この国において、「所有」とはすべて享楽のためにある。
奴隷も、財も、建物も、命も、
王を楽しませるための装置でしかない。
その装置に――
王の知らぬ印が重ねられた。
それは、彼の世界観において、
明確な「汚れ」であり、「不敬」だった。
「ロック商会の印が付いた奴隷は、陛下の宴にも使われはじめており……!
中には“ロック様の奴隷をお借りしている”と、
誇らしげに話す上位層も……!」
側近が言い終えるより早く、
王命隊のひとりの手が、わずかに止まった。
沈黙。
血の匂いだけが、静かに広がる。
ヴェルラウトは、そこで初めて、
ほんの少しだけ顔を上げた。
「……ロック。」
名前を口にした感触は、
理解不能な苦味のようだった。
(……私の刻印に、落書きをした者の名前か。)
王は、努力という言葉を知らない。
誠実という概念もない。
あるのは、ただ一つ。
「私を楽しませる者」と「そうでない者」。
世界は、王を楽しませるためだけに回るべきだ。
奴隷はそのために存在し、
上位層はそのために金を動かし、
この国のシステムはそのために組まれている。
そこに「別の中心」を持つ存在が現れた。
王から見れば、それはただ――
(……不快だ。)
それだけで十分だった。
ロックが何を考えているか。
何を目指しているか。
どんな理屈で奴隷を動かしているか。
ヴェルラウトは、興味を持つことができない。
ただ、「自分を楽しませない」ことだけが、
彼にとっての「悪」なのだ。
鉄の棒が、奴隷の脚を砕く。
悲鳴が、玉座の間を転がる。
それでも、王の心には何も届かない。
届かないくせに――
世界は確実に、王から離れていく。
(……世界が、
私を楽しませなくなるのか。)
それを、恐怖と呼ぶには、あまりにも鈍い。
だが、受け入れるには、あまりにも幼い。
ヴェルラウトは、ゆっくりと息を吐いた。
「……“ロック商会”という者を、連れてこい。」
側近が顔を上げる。
「へ、陛下……!」
「私の刻印の上に、別の印を描いた。
上位層から私への供給を奪った。
奴隷を、私の知らぬやり方で動かしている。」
淡々と、事実だけを並べる。
そこには倫理も理屈もない。
あるのは、王の中で分かちがたい“好悪”だけだ。
「私を楽しませない。
私にとって、不愉快だ。」
王命隊の足音が、静かに揃う。
「世界が――私を楽しませないなら。」
ヴェルラウトの声が、わずかに低く落ちた。
「世界の価値など、ない。」
命じるでもなく、叫ぶでもなく。
ただ、事実を告げるような口調だった。
だがその一言が、この国全体にとっての“命令”になる。
「“ロック商会”を探せ。
その奴隷も、屋敷も、印も、
私の前に、すべて連れてこい。」
玉座の足元で、王命隊が一斉に頭を垂れる。
鉄の棒には、まだ乾ききらない血がこびりついている。
「楽しませない者は、いらない。」
それが、この王の正義だった。
王命隊が、静かに動き出す。
玉座の間から伸びる影が、
じわじわと城下町へ、ロック商会のある方向へと、
這うように伸びていく。
異常な朝は、
この国では、いつも通りの一日だった。
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