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第14話 観測の始まり、四つの影

第14話 観測の始まり、四つの影


 朝の空気は静かだった。

 けれどそれは、眠っている静けさじゃない。


 昨日、市場に落ちた重さが――まだ石畳の隙間に残っている。

 人の声は戻ってきているのに、呼吸だけが浅いまま。

 誰も、あの足音を忘れていない。


 屋敷の食卓にも、同じものが座っていた。

 湯気の立つ皿。ちぎられたままのパン。

 箸は動かない。目だけが動く。


 ロックがパンをちぎり、低く言った。


「……観測が足りねぇ」


 怒っているわけじゃない。

 焦っているわけでもない。

 ただ、底に沈めたものの音だけが、乾いて響いた。


「四人で動くぞ。……見る場所が違ぇ」


 指示は短い。

 けれど、その短さが空気を切り替える。

 椅子の軋み。衣擦れ。息の入り直し。


 ロックの視線が、ルヴァートに落ちた。


「ルヴァートは上だ。上位層」


 ルヴァートは、以前買った赤いドレスを――今日、もう「道具」として着ていた。

 赤が、彼女の輪郭を一段だけ上へ押し上げる。


「商人でも、担当官でも、富裕層でもいい。

 上が何を前提に笑ってるか……拾え」


「……任せて」


 薄い笑み。

 笑っているのに、灰銀の目は冷えていた。


 ロックはジュラルに目を移す。


「ジュラルは軍だ。訓練、巡回、指揮系統……見えるだけ見ろ」


「了解しました」


 背筋が伸びる。

 その伸び方が、癖みたいに自然で――逆に痛い。


 最後に、ロックはハクタンを見る。


「ハクタンは……奴隷のほう。

 命令の流れ。心が壊れる瞬間。

 お前にしか拾えねぇ違和感がある」


 ハクタンは小さく頷いた。

 頷きながら、ロックの顔を探す。

 探して、見つからない。

 目が合わない。


「……ロックは?」


 声が、細い。

 聞く前から怖い。


「俺は裏通り。城下。……あとスラムにも行く」


 ハクタンの胸が、ぎゅっと縮む。


「ロック……一人で……?」


「見るもんが違うだけだ」


 それで会話を閉めた。

 いつものやり方。

 優しさじゃなく、切断。


 けれどハクタンだけが気づいた。

 肩が、ほんの少しだけ沈んでいる。

 深く見せかけた呼吸の奥に、黒い影が溜まっている。


 言えない。

 言わせられない。

 言ったところで、ロックは「それでも行く」。


 だから、ハクタンは黙った。


 四人は、それぞれの方向へ散った。


     ◇


 上位層の街は、同じ国とは思えない匂いがした。

 香辛料と花油。焼き菓子。

 石畳は欠けていない。

 壁の白は剥がれていない。

 笑い声が、怖がっていない。


 ルヴァートが一歩踏み込むと、空気が彼女を迎えた。


 ――見られ方が違う。


 視線が刺さらない。

 値踏みの刃じゃなく、選別の指。

 「同じ棚に置けるか」を確かめる、軽い目。


 赤いドレスが、その棚を一段上にする。

 肩書も身分証もないのに、布が代わりに喋る。

 この国の上は、そういうふうにできている。


 門番の態度が変わる。

 店員の声が柔らかくなる。

 通りすがりの男が、言葉を選ぶ。


「ルヴァートさん、今日もお綺麗ですねぇ」


「まあ、そんなこと言っても何も出ないわよ?」


 口元だけで返す。

 笑いは与える。

 距離は渡さない。


 彼女は混ざる。

 赤い布を揺らして、場に溶ける。

 溶けながら、拾う。


「そういえば聞きました?」

 酔った商人が、声を潜める。


「王命隊のことか?」

 別の男が、口の端を上げた。


「いやぁ、あれは素晴らしいよ」

「最近は他国から猛者を取り寄せてるって話だ」

「なんでも“壊れにくい”らしい」


 “壊れにくい”。

 言い方が軽い。

 酒の話みたいに言う。


「壊れにくい……」


 ルヴァートは薄く笑う。

 笑いながら、喉の奥が冷える。


「ええ。王命隊に混ぜると反応が良くなるんだとよ」

「痛みも我慢強い」

「あの鉄棒で何度も“調整”しても、なかなか死なないんだと」


 周囲の富裕層が、“上品そうな笑い”をこぼした。

 笑い声が、澄んでいる。

 手が汚れていない人間の音だ。


「しかし王命隊の鉄棒、あれいい音がするよなぁ」

「地下から響く声は美しいぞ。まるで楽器だ」

「芸術だよ、芸術」


 芸術。

 地下。

 声。


 ルヴァートは、笑顔を崩さない。

 崩さないまま、指先だけが冷えていく。

 赤い布の内側で、筋肉が固くなる。


(ロック……あんたが燃やしたがる理由、分かる気がする)


 だからこそ、今は殴れない。

 殴ったら、ここから追い出される。

 追い出されたら、拾えない。


 ルヴァートはグラスを持ち上げ、口をつけた。

 舌に甘い酒。

 その甘さが、余計に気持ち悪い。


     ◇


 城の外周は、音が違った。

 規則正しい足音。

 掛け声。

 鉄が擦れる音。

 整っているはずの場所。


 ジュラルは少し離れた位置から、訓練場を観察していた。

 姿勢だけは、まだ騎士のまま。

 そのままでいないと、吐きそうになる。


 王命隊が整列している。

 だが、あれは隊列じゃない。


 命令の方向に従って、並んでいるだけだ。


 隊長らしき男が短く命令を飛ばす。

 一瞬の遅れもなく、五つの影が全く同じ動きをした。


(……反応速度が異常すぎる)


 筋力じゃ説明できない。

 訓練でも追いつかない。

 何かが「抜けている」。


 恐怖反応がゼロ。

 本来なら身を守る動作が存在しない。

 命令を最短距離で処理するために、

 “本能”の部分が、ごっそり死んでいる。


 ジュラルは、喉が渇くのを感じた。

 これは戦術の話じゃない。

 兵の話ですらない。


 その時、訓練場の奥で兵が叫んだ。


「王命隊の負傷者だ! 地下に運べ!」


 負傷した王命隊が運ばれていく。

 担架ではない。

 兵士が足首を掴み、道に引きずっていく。

 装甲の隙間から血が落ちても、兵士たちは無表情だ。


 地下の巨大な扉が開く。

 その奥から――


 呻き声とも獣の声ともつかない、

 ひきずられるような、生き物の音が漏れた。


 ジュラルの胃が、きしむ。


(……あれは兵士ではない)


 命令の延長線上の……器だ。

 守られてきた側の常識が、音を立てて割れていく。


 拳を握る。

 爪が手のひらに食い込む。

 痛みで、ここに戻る。


 目を逸らしたくなる。

 逸らしたら、また「見ない側」に戻ってしまう。


 ジュラルは、逸らさなかった。


     ◇


 ハクタンは市場を離れ、奴隷たちの暮らす路地裏へ向かった。

 華やかな匂いは消える。

 代わりに、濡れた布と汗と腐った水の匂いがまとわりつく。


 人混みの隙間。

 命令を聞き逃さないように怯える小さな子供。

 命令に逆らおうとした瞬間、胸を押さえて倒れる大人。


 胸の奥が一瞬だけ黒く滲む。

 色視の焦点が“一点”に吸い寄せられる。


(……刻印が……心を押しつぶしてる……)


 見ているだけで胸が痛い。

 立ち止まるたびに息が浅くなる。

 この場所の色は、ずっと同じところを削ってくる。


 刻印の痛みに怯える老人の肩が震えていた。

 その震え方が、ロックが怒りを隠す時の震え方に似ている気がして――

 ハクタンは胸が詰まった。


 その時。

 遠くの通りで、見覚えのある黒髪が揺れた。


(……ロック?)


 ロックは裏通りを抜け、人の少ない細道へ向かっていた。

 肩はいつもより低い。

 足は重く沈んでいる。

 背中が、誰にも触らせない硬さを纏っている。


(あっちって……スラムの方向……)


 追いかけたい。

 声をかけたい。

 抱きしめて止めたい。


 なのに――足が動かない。


(……私は……観測……

 ロックの足を止めたら……ダメ……

 でも……でも……)


 喉が熱くなる。

 耳が、痛いくらいに周りの音を拾う。

 泣き声。命令の声。笑い声。

 全部が混ざって、色になって、胸に落ちる。


 ハクタンは拳を握りしめた。

 尾が小さく震えていた。


     ◇


 ロックは薄暗いスラムの路地を歩いていた。

 日差しは届かない。

 湿気と腐敗の匂いが肌にまとわりつく。

 壁は黒く濡れていて、触れれば指が汚れる。


 壁に寄りかかる男の胸には、刻印の痕が黒く浮き出ていた。

 息は浅い。

 目は虚ろ。

 命令という糸だけで、辛うじて形を保っている。


(……ここだよな)


 この国の“根っこ”。

 城の上じゃない。

 市場の真ん中でもない。

 ここだ。


 ロックは近づかない。

 助けもしない。

 怒りもしない。

 ただ観測する。


 火を大きくしないために、感情を抑える。

 胸の奥の赤は、何度も立ち上がろうとする。

 けれど、ロックは押し沈める。


(燃やすのは……まだだ)


 足元の水たまりに、歪んだ空が映る。

 空だけは青い。

 ここには届かない青。


 スラムの奥で子どもが泣く声がした。

 声は細い。

 助けを求める言葉になりきらない。

 でも、ロックは足を向けない。


 観測だけが、今の答えだから。


     ◇


 夜。

 四人が屋敷へ戻ると、空気は朝よりも重かった。


 夕食が並んだが、誰も箸を動かさない。

 冷たい沈黙が、座ったまま膨らむ。

 灯りの揺れだけが、会話の代わりに呼吸している。


 最初に口を開いたのは、ルヴァートだった。


「じゃ、今日集めた分を……軽くまとめましょうか」


 言葉は淡々としているのに、手が震えていた。

 赤いドレスは脱いでいる。

 布の許可証を剥がしたあとに残るのは、ただの生身の苛立ちだ。


「上の連中、王命隊の話ばっかりよ。

 “他国の猛者を奴隷に混ぜてる”って言ってた。

 仕上がりが良いって、自慢げに」


 ジュラルが静かに続ける。


「軍事的には……破綻しているはずですが」


 腕を組んだまま言う。

 指先が白い。


「命令優先の動き。

 恐怖反応がない。

 隙を作る本能が欠落している……。

 あれは兵士ではありません」


 ハクタンは、指先をぎゅっと握ったまま言った。


「……心が……壊れる瞬間を見た。

 命令に逆らえず、泣きながら倒れる子も……。

 大人も……苦しそうで……」


 ロックは無表情で聞いている。

 だが呼吸が、ほんの僅かに深くなった。

 それが、ハクタンには怖い。


「ロック……今日、どこに……?」


 震える声で尋ねかけた、その瞬間。


「裏通りだ」


 ロックはハクタンの言葉を遮った。

 視線は合わせない。

 食卓の端を見たまま、短く切る。


「まあ……使える情報ばかりだ。

 明日も観測だ。……まだ足りねぇ」


 淡々と言う。

 だが、声の奥に“揺れ”があった。

 ほんの小さな、けれど――ハクタンには聞き逃せない揺れ。


 ハクタンの耳が、ぴくりと動いた。


(……嘘……ついてる……)


 沈黙が落ちる。

 言葉より重い疑念が、四人の間に横たわる。

 誰も責めない。

 誰も許さない。

 ただ、そこにある。


 ハクタンだけが、ロックの心の底に沈む“黒い影”を感じていた。


 言えない。

 でも、わかる。


(ロック……どんどん……一人で背負おうとしてる……)


 夜の空気は冷たく、

 四人の影が長く伸びていた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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