第13話 街を裂く王命隊
第13話 街を裂く王命隊
朝の光は、いつも通り屋敷の床に落ちていた。斜めに差し込む筋が、古い板の傷をひとつずつ撫でていく。
けれど――空気だけが、昨日と違う。
元奴隷たちの足取りが、ほんのわずかに柔らかい。廊下ですれ違うときの肩の硬さが、薄れている。洗濯物を干す手が、焦りの角を失い始めている。道具を落としたとき、叩かれる未来を先に想定して身を縮める癖が、少し遅れる。
ほんの誤差みたいな変化だ。
でも、この国では誤差が命になる。
(……昨日より、ちゃんと息してる……)
胸の奥が、ふっと温かくなる。
その温かさは――すぐ別の感覚に上書きされた。
階段を降りていくロックの背中が見える。
歩幅は変わらない。いつもと同じテンポで、いつもと同じ距離を刻んでいる。
なのに、落とす足音がやけに静かだ。
肩は力んでいない。
でも逆に、“張り”がない。外に向けて立っているのではなく、内側へ沈む重さだけが残っている。
(ロック……昨日より、少しだけ硬い……)
色視を使うまでもない。
ロックは“何かを決めている時”の静けさを纏っていた。
声をかけようと、口を開きかけて――やめた。
ロックが自分から言わないことは、言わせても無意味だ。
言わせたとしても、たぶん言葉の形だけが出てくる。
それを一番よく知っているのは、ハクタンだった。
◇
朝食を済ませると、ロック商会の四人は街へ出た。
依頼が二つ。軽めのはずだった。
――その時までは。
門をくぐると、街の匂いが一気に押し寄せてくる。
石畳の湿り気。干した布の埃。油の焦げ。人の汗。売り声。
春の空気は少し湿っていて、冷たくはないのに、肌の上で薄い膜を作る。
市場に着いた頃には、朝の喧騒が通り全体を覆っていた。
魚の匂い、野菜の匂い、焼きパンの匂い。
笑い声と怒鳴り声が混ざって、どれが本気でどれがただの生活なのか、境目が溶けている。
「今日のついでに、城の動きも見れればいいんだけどね。」
ルヴァートが、軽く肩を回しながら言う。
声は軽いのに、視線は街の奥へ滑っている。明るい場所の中の、暗い規則を探す目だ。
「俺の“ついで”は大体ついでじゃ済まねぇんだよな。」
ロックが淡々と返した。
笑ってはいない。怒ってもいない。
ただ、乾いた事実だけを落とす声。
「……ロックさん。」
ジュラルは横目でロックを観察している。
背筋を崩さず、歩幅を合わせながら、それでも“ずれ”だけは見逃さない。
「昨日から、いつもより疲れているような気がします。」
「気にすんな。」
短い。
それだけで会話を閉めるような言い方。
声が静かで、いつもより少しだけ低い。
ハクタンの耳が、ぴくりと動く。
(……本当に、何か隠してる……
でも今は、それより……)
通りの奥から、怒鳴り声が聞こえた。
「離せッ! 俺は盗ってねぇって言ってんだろが!!」
人だかりができている。
誰かが必死にもがき、押さえつけられているのが見える。
盗賊か、命令違反の奴隷か――どちらにせよ、この国では“処理すべき存在”と判断される類だ。
「騒がしいわね。」
ルヴァートが、軽く眉を寄せる。
「市場で揉めると、すぐ――」
ジュラルが言いかけた、その瞬間。
ハクタンの耳が、鋭く立った。
(……この音……)
遠く。
はっきりとは聞こえない。
けれど、市場の喧騒とは違う――重い規則性を持った振動。
地面を踏みしめるような音。
一定。
乱れない。
揺れがない。
「ロック……来る。」
小さく言うと、
「ああ、分かってる。」
ロックは前を見据えたまま応えた。
もう、身体が先に“避ける準備”をしている。
通り全体の空気が、ざわりと震えた。
人々の声が止まり、
半分本能のように左右へ散っていく。
道が、開けるように割れる。
押し合いへし合いしていたはずの人間が、一本の筋を避けていく。
その中心――黒い影が歩いてきた。
王命隊。
鎧は黒鉄。
装飾がない。威圧のための飾りではなく、ただ動くためだけに形作られた無機質な外装。
顔が見えないほど深く覆われた兜の奥には、何の光もない。
何十人もいるわけではない。
たった五人。
それなのに、通りは完全に“王命隊の領域”へと変わった。
男を押さえ込んでいた市場の警備奴隷が、逃げる暇すらなく道を開けた。
開けた、というより――そこにいたことが許されなくなったみたいに、身体が勝手に退いた。
押さえつけられていた男が、顔を上げる。
喉の奥から、声にならない音が漏れる。
「来るな……来るなって……!」
その叫びが終わる前に、
王命隊の一人が一歩、地面を踏みしめた。
たった一歩。
それだけで、周囲の空気が震えた。
鉄棒を握った腕が動いた。
速さは人の視界を滑るようで――
気づいた時には盗賊の前に立っていた。
盗賊は、防御の形を作ろうと腕を振り上げた。
必死に。
人間の反射で。
だが次の瞬間。
「ぎッ……あああああああッ!!」
鉄棒が、盗賊の肘を的確に打ち折った。
刃ではない。
切り裂きもしていない。
なのに骨が砕けた音が、市場の朝に混ざらず、浮いたまま響く。
棒は重さに特化した武器だ。
命を奪わずに四肢を壊す。
そういう道具。
盗賊が倒れた瞬間、王命隊の別の隊員が踏みつける。
悲鳴が上がる。
だがそれは命乞いではなく、
ただ痛みの反射だった。
その悲鳴に、王命隊は反応しない。
盗賊を守ろうとした別の盗賊が、背後から体当たりする。
狙いも何もない。
必死に、ただ押し倒すだけの動きだった。
王命隊の一人が、石畳に倒れる。
一瞬の沈黙。
盗賊は荒く息を吐き、
倒れた王命隊の手から鉄棒を引き剥がした。
次の瞬間。
振り下ろされた鉄棒が、別の王命隊の腕を打つ。
鎧が歪み、
中で、鈍い音がした。
「折れた……!」
誰かの声が、場違いに高く響く。
王命隊の腕は、不自然な角度で止まっていた。
周囲の奴隷がざわつく。
常識なら、そこで終わりのはずだった。
だが、王命隊は違う。
折れた腕のまま、鉄棒を握り直す。
痛みの反射も、躊躇もない。
倒れた隊員を、そのまま踏みつけて前に出る。
足元の存在は、すでに“障害物”ですらなかった。
「……ありえない……」
ジュラルが、低く呟いた。
言葉が震えないのが、逆に怖い。
「腕が折れているのに、“握る”という動作だけは続けられる……?」
「違うわよ。」
ルヴァートが呟き、睨む。
声の表面は冷たく保っているのに、目だけが嫌悪を隠しきれていない。
「ただ命令されてるだけ。
そこに苦痛とか恐怖とか……ないのよ。」
折れた腕のまま、王命隊は前へ進む。
骨の角度がおかしくても、動きは乱れない。
関節の痛みは存在しない。
血が流れても、足音ひとつ変わらない。
盗賊の仲間が必死に逃げようとした。
だが王命隊は、倒れて動けない盗賊の体を踏み越えて追いかける。
敵も味方も関係ない。
命令の優先度だけが全て。
(……人間じゃない……)
ハクタンの耳がわなわなと震えた。
色視を使うまでもない。
あの中には“心”がどこにもない。
盗賊の仲間が振り下ろした刃が王命隊の鎧に弾かれる。
反撃の鉄棒が胴を砕く。
男の体が折れ曲がり、地面に倒れ込んだ。
血はほとんど出ない。
だからこそ、骨と肉の破壊音が生々しく響く。
叫ぶ者がいる。
泣く者がいる。
でも、その声は通りの外縁に落ちていく。
真ん中だけが、無音だった。
作業音だけが続く。
「……処理してる。」
ロックが静かに言った。
「戦ってるんじゃねぇ。
与えられた命令を“消化”してるだけだ。」
その声は感情がなかった。
あまりにも冷静で――逆に胸に重さが残る音だった。
盗賊たちが全員動かなくなると、
王命隊が手を止めた。
しかし、その場を去るわけではない。
鎧の隙間から血が落ちる盗賊に近づき、
腕や足首を無造作につかむ。
そのまま、地面をずるずると引きずり始めた。
生きている盗賊は呻き声を上げる。
死んでいる者は、ただ石畳に打ち当たる。
王命隊は気にしない。
救助でも看病でもない。
そこにあるのは“回収作業”だけ。
通りの人間も、動けない。
顔を背ける者はいるのに、足が前に出ない。
止められないからじゃない。
止めるという発想そのものが、この国の生活から削られている。
ルヴァートが低く呟いた。
「……連れて行くのね。」
「ああ。
王に献上するんだろ。」
ロックの声は冷たく沈んでいた。
引きずられていく身体が、石に擦れて音を立てる。
その音だけが、いつまでも耳に残る。
「娯楽か……」
ジュラルが吐き出す。
“騎士”の言葉のはずなのに、今はどこか遠い。
「娯楽? 甘ぇよ。」
ロックは一瞬だけ、苦々しく笑った。
笑いの形をした、硬い吐息。
「“資源”だ。
壊して、直して、また使う。
この国じゃそれが普通だ。」
王命隊は引きずる音を響かせながら、市場の端へ消えていく。
そこは城へ続く道だ。
誰も止めようとしない。
止められないのではなく――
止めようという“発想”が、最初から存在しない。
沈黙。
市場の喧騒が、音を取り戻せないまま凍りついている。
焼きパンの匂いだけが、場違いに甘い。
ロックだけが、戦いの跡をじっと見つめていた。
その目は何も語らない。
けれど、呼吸が静かに深まっていく。
何かを飲み込み、
何かを整理し、
そして結論を出した時のロックの呼吸。
ハクタンはロックの横顔を見て、胸が締め付けられた。
ようやくロックが口を開いた。
「……あれはダメだ。」
小さな声だった。
だけど、誰よりも重かった。
「正面からやり合ったら勝ち目がねぇ。
あいつらは戦士の形をしてるだけで……中身は空っぽだ。」
ルヴァートが頷く。
「同意見よ。
反応速度も痛覚の欠如も、命令優先の行動も……
あれ、兵士じゃない。
ただの処理装置。」
「人間と同じルールで戦ってない。」
ジュラルが呟く。
「あれが今の五人程度ならまだしも、もっと多くの兵がいては厳しいでしょう。」
ハクタンはロックを見た。
ロックの胸の奥の火は、今はもう見えなかった。
けれど、その静けさだけで理解できる。
ロックは、もう“勝ち方”の話をしていない。
“壊し方”の話に、足を移している。
派手な決断はしない。
ただ、内側で切り替わる。
その切り替えが一番怖いことを、ハクタンは知っている。
ロックはゆっくりと吐き出した。
「観測が足りねぇ。」
言葉は短いのに、余韻が長い。
「戦う前に……あいつらの“根っこ”を見つける。」
その言葉とともに、
市場の空気が、ようやく揺れ始めた。
誰かが小さく息を吸い、誰かが泣き、誰かが笑い声を無理に作る。
けれど、元の喧騒には戻らない。
戻るための“気持ち”が、まだ見つからない。
四人は誰も話さなかった。
ただ、王命隊の足音の残響が、
まだどこかで鳴っている気がした。
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