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第10話 正義の剣と、折れる音

第10話 正義の剣と、折れる音


 沈黙には、厚みがあった。


 ただ音が消えている、というだけではない。

 部屋の空気そのものが、どこか見えない膜で包まれたみたいに重い。

 息を吸うたび、喉の奥でそれがひっかかる。


 部屋の中央。


 ロックの喉元に、冷たい刃が触れていた。

 薄く切れた皮膚から、赤い線がひとつ、ゆっくりと伝い落ちる。

 床に落ちるまでのその一滴が、やけに長く感じられた。


(……ロックの火……)


 ハクタンは無意識に息を止めていた。

 色視を使おうとしているわけではない。

 それでも、胸の奥にはいつもの「火の位置」が、はっきりと意識されている。


 深い。


 いつもより、ずっと。


 赤は赤のままなのに、その底に黒が沈んでいるような、静かな覚悟の色。

 本来なら恐怖で揺れていい場面なのに、そこにあるのは揺らぎの少ない炎だけだった。


(こわいはず、なのに……揺れてない……)


 喉に刃を当てられて、平然としていられる人間なんていない。

 体はきっと、汗もかけば、心拍だって上がっているはずだ。


 それでもロックの火は、震えない。

 恐怖や焦りの黒は、表面には浮かんでこない。


 揺れているのは、ロックではなかった。


 剣を突きつけている側――ジュラルのほうだ。


 剣を握る手。

 伸びた腕。

 背筋。

 どれも騎士として鍛え上げられた、教本どおりの美しい「型」を保っているはずだった。


 けれど、その美しさの中に、細かい震えが混じっている。

 指先から肩へ、肩から呼吸へ、その揺れはじわじわと広がっていた。


 ロックは、その揺れを静かに見ながら――ほんの一瞬だけ視線を横へ滑らせる。


 ハクタン。

 伏せられた耳と、不安げに揺れる尾。

 口を開きかけて、噛み殺すように閉じた唇。


 ルヴァート。

 壁にもたれた姿勢は崩れていないのに、足先にかけた力だけがかすかに強まっている。

 今にも飛び出す準備だけは済ませている身体。


 ロックは短く、目だけで「まだだ」と告げた。

 声にはならない、わずかな合図。


 それを受け取って、二人は動かないことを選ぶ。

 この場で、動かないという選択だけが、ロックの選択を尊重する形だと分かっていたから。


 視線が、ふたたび喉元の刃へ戻ってくる。


 観測。

 選択。


 ――その順番は、ここでも変わらない。


     ◇


「……まずは、名だ。」


 沈黙を破ったのは、剣を握る男の、押し殺した声だった。


「名を言え。

 私は、“誰を斬るかも知らぬまま”刃を振るうことはできん。」


 ロックは、喉に当たる刃の冷たさを感じながら、ゆっくりと口を開いた。


「ロックだよ。」


「……それだけか。」


「それ以上でも、それ以下でもねぇよ。」


 短い呼吸のやりとりのあいだにも、赤い滴が、ぽたり、と床に落ちる。

 朱色の点が一つ増えるごとに、この場にいる全員の心拍が、ほんの僅かに早くなった。


 男――ジュラルは浅く息を吸い、自分の胸に積もったものを、簡潔なひと言に収める。


「私はジュラル。

 ――かつて、“正義”のためだけに剣を振ってきた男だ。」


 国の名は出ない。

 けれど、その背後にある「型」の匂いは、隠しきれていなかった。


 ロックは、わずかに目を細める。


(やっぱり……この国の剣じゃねぇな。

 “あっち側”の、正しさで動く剣か。)


 善悪を切り分けることを叩き込まれた、“正義の剣”。

 奴隷の国には似合わない、まっすぐすぎる線だ。


「じゃあ、ジュラル。」


 ロックは、喉へ当たる刃をそのままに、口角だけをほんのわずかに吊り上げた。


「次は――なんで俺の喉に、その刃があるのか、教えてくれ。」


 問いが落ちた瞬間、ジュラルの呼吸が僅かに乱れる。

 胸の奥で何かがぶつかり合う音がしたように、ハクタンには思えた。


「お前は……鎖を焼いた。」


 絞り出される声は掠れているが、芯はまだ折れていない。


「あれはただの刻印ではない。

 秩序を保つための“形”だ。

 逃げ出そうとする悪を縛り、乱れを抑え、

 悪意を広げぬための枷だ。」


 言葉の一つひとつに、自分に言い聞かせてきた時間の重さが滲んでいる。


「それを焼いた。

 決まりを壊した。

 ――それは、この世界において“悪”だ。」


 ハクタンは、喉の奥で声にならない声を飲み込んだ。


(“この世界”……どこの話、してるの……)


 奴隷の国の話だけじゃない。

 もっと別の枠組み。

 ジュラルが立ってきた「正しさの座標」の話だと、感覚で分かる。


 ロックは、そのまま淡々と問いを重ねた。


「ひとつ、聞かせろ。」


 喉から血を垂らしながらも、声は一定だ。


「その“正しい形”。

 お前が、自分で選んだのか?」


 ジュラルの呼吸が止まる。


 剣先が、ごくわずかに揺れた。

 それは刃の震えというよりも、握っている男の心の揺れが、そのまま金属に伝わったものだった。


「私は……選んだ!」


 押し付けるような声。

 強く言わなければ、自分が崩れそうで。


「私は、“正義”を選び、“悪”を斬ってきた!

 秩序を守るために、何度も剣を振り――」


「本当に?」


 ロックの問いは、あまりにも淡々としていた。

 そこには嘲笑も、同情もない。

 ただ、事実かどうかを確認するためだけの声音。


「“選んだ”って言葉はな――」


 ロックは、喉の痛みに顔をしかめもしないで続ける。


「そんな軽いもんじゃねぇよ。」


 ハクタンの喉が、ひゅっと鳴った。


 ジュラルの剣先が、ほんの少し沈む。

 その沈みと同時に、彼の中でずっと表面を覆っていた「白」が、一瞬でひび割れた気がした。


     ◇


「私は……正しい側に立ってきた。」


 ジュラルが低く言う。

 剣先は、まだロックの喉元から離れない。


「この国では刻印は正義だ。

 奴隷制は秩序だ。

 だから――それで十分だ。」


「十分なら、揺れねぇよ。」


「黙れ。」


 剣が押し込まれる。

 ロックの肌に、さらに浅い傷が増えた。


 それでも彼は、眉一つ動かさない。


「黙らせたいなら斬れよ。

 お前の剣は、もう俺の喉まで届いてる。」


 ルヴァートの喉が、ごくりと鳴る。

 ハクタンは、思わず一歩前に出かけて、足を止めた。


(ロック……やだ……

 でも……ここで私が泣きそうな顔しても……何も、変わらない……)


 怖い。

 今すぐロックの服の裾を掴んで、剣から引き剥がしたい。


 けれど、それは彼が選んだ場所を、勝手に動かすことになる。


 ハクタンは唇を噛んで立ち尽くした。

 自分が“何もしない”ことを、自分の選択として抱え込みながら。


 ルヴァートは、奥歯を噛みしめたまま、ただ黙ってその場を見据えている。

 彼女の瞳には、二人の男の間に張られた細い糸が見えているようだった。


――切れたら終わりだ。

 けれど、今手を出したら、その糸自体を叩き折ることになる。


 そんな直感が、彼女の足を床に縫い付けていた。


     ◇


「私は――」


 ジュラルは言葉を掴もうとして、自分の中にある“正しい文章”を探した。


 いつもなら簡単に出てくるはずの答え。

 教えられてきた正義。

 何度も口にしてきた理屈。


「秩序を守るために、剣を振ってきた。

 悪を断ち、乱れを止め……

 それが、正しいことだと――」


「救ったのは、事実だろうよ。」


 ロックは否定しない。

 軽くも、重くもなく、ただ一度頷いた。


「お前の剣で助かった奴も、きっといる。」


 その言葉に、ジュラルの中で何かが一瞬だけ落ち着く。

 救った側の記憶は、彼の中でも確かな光だった。


 だが――。


「でもな。」


 ロックは続ける。


「“それだけ”じゃねぇ。」


 静かな声。

 それなのに、その一言が空気を重くした。


「その裏で、お前の剣に“傷つけられた奴”は、何人いる?」


 ジュラルの喉がひくりと動いた。


 数は、答えられない。

 顔を、思い出せない。


 いや――思い出したくなかった。


「やめろ……」


 小さな声だった。

 さっきまでの断定的な声ではなく、他人にではなく、自分自身に向けた拒絶。


「正義は便利だよな。」


 ロックは、感心したふうですらあった。


「都合の悪いもんを、ぜんぶ“悪”にできる。

 誰かを斬る理由にもなるし、

 自分の傷を誤魔化す薬にもなる。」


「やめろと言っている!」


 ジュラルが叫ぶ。

 剣が、喉を乱暴に押し込んだ。


 浅かった傷が、もうひと筋広がる。

 赤が喉を伝い、布を汚し、床へと落ちた。


(ロック……!)


 ハクタンは飛び出しそうになる脚を、ぎりぎりのところで踏みとどまる。

 ロックの火が、揺れていないから。


 ――それが、唯一の「まだ動くな」というサインだった。


     ◇


「いいか、ジュラル。」


 ロックの声が、ふたたび空気を切り裂いた。


「正しいことしか選べねぇのは、不自由だ。」


 その言葉に、ジュラルの色が大きく揺れる。

 白が裂け、青が浮かび、灰が溶けていくイメージが、ハクタンの胸の奥でぼやりと広がる。


「“正しいことだけを選ぶ”ってのはな――

 最初から用意された道を、

 “そういうもんだ”って思い込んで歩いてるだけだ。」


 一歩も動いていないのに、言葉だけで、ロックは地面を揺らしていた。


「選んでねぇんだよ。

 ただ従ってるだけだ。」


「何を……」


 ジュラルの声は、さっきまでの鋭さを失い、かすれた音になっていた。


「“悪を選べねぇ”ってのは、“選べてねぇ”ってことだ。」


 ロックの声は、低く、静かだった。


「正義しか振れねぇ奴は――

 結局、“誰かの言葉通りにしか動けない人形”と変わらねぇ。」


 その一言で、ジュラルの手から力が抜けかける。

 剣先が下がる。


 だが、落ちきらない。

 まだ、彼自身がそれを許さない。


(……揺れてる……

 揺れてるけど……

 まだ、“正しさ”にしがみついてる……)


 ハクタンは胸を押さえた。

 色視をわざわざ開くまでもない。


 それでも、彼女には分かる。

 ジュラルの中で、長年積み上げてきた何かが、ひとつずつ音を立てて軋んでいることが。


「ふざけるな……」


 ジュラルが歯を食いしばる。


「私は――正義の剣だ。

 悪を選ぶなど……堕落だ……

 堕落するくらいなら、斬った方がマシだ……!」


「堕落でいいじゃねぇか。」


 ロックは即答した。

 考える時間すらいらないというように。


 まるで「良いか悪いかの話じゃねぇだろ」とでも言うように。


「お前自身が選んだ堕落なら、

 それは“お前の生き方だ”ってことだ。」


「そんなものが――誇れるか……!」


「誇るかどうかは、“後の話”だ。」


 ロックは、ごく自然に答えた。


「今必要なのは、誇りじゃなくて“選択”だろ。」


 短く息を吸い、鋭く吐く。


「だから。」


 視線が、ジュラルを真っ直ぐ貫く。


「“悪として正義を振れ”。」


 その言葉に、ジュラルの眉が深く揺れた。


「……意味が、わからない……

 悪と正義は相反する。

 どう両立する……?」


 ロックはゆっくりと口を開いた。

 迷うでもなく、言い淀むでもなく。


「お前の正義は、“国の枠”に沿ってる。

 だからその枠の外から見たら、

 同じ正義でも“悪”になることがある。」


 ジュラルの呼吸が止まる。


「枠の外に立つってのはな――

 “誰かが決めた正義”からいったん離れるってことだ。」


 ロックは、喉に当たる刃を無視したまま続けた。


「悪として立ってみろ。

 “自分で選んだ正義”が残るかどうかが、そこで初めてわかる。」


「……自分で、選んだ……正義……?」


「そうだ。」


 ロックは一歩も動かない。

 けれど、その言葉が一歩ぶんの重さで落ちる。


「枠に従って振るう剣は、“正義の代行”だ。

 枠から離れて振るう剣だけが――

 “お前自身の正義”になる。」


 ジュラルの手から、力が抜けかける。

 それでも剣は落ちない。


(……まだ抗ってる……)


「だから言ったんだよ。」


 ロックの声は淡々としている。


「“悪として正義を振れ”。

 ――お前の正義を、お前の手で選べ。」


 その瞬間。


 ジュラルの中で、何かが――深く、静かに折れた。

 剣ではない。

 騎士として鍛えた技でもない。


 ずっと、自分を支えてきた「自分は正しい側に立っている」という柱。

 その柱のどこかに、はっきりとした亀裂が入り、乾いた音を立てて軋んだ。


 それでも、完全には崩れない。

 崩れ落ちるには、まだ足りない。


 揺れて、ひび割れて、音を立てながら――

 ジュラルは初めて、自分の剣が「どちらにも振れる」場所に立たされていた。


(……折れた……

 でも、終わってない……)


 ハクタンは、その背中を見つめながら胸を押さえる。

 痛みと、安堵と、まだ言葉にならない不安が、ぐちゃぐちゃに混ざった感覚。


 ロックの火は、相変わらず静かだった。

 赤の底に沈む黒は消えない。


 けれど、その黒を見つめているのは――

 この部屋で、ハクタンただ一人だった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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