25.闇の狭間
目を閉じる。寝られない。心ばかりが焦ってしまう。
「……寝られないの?」
隣でしっとりとした彼の声がした。
ぱっと目を開けて起き上がると、窓の外が少しだけ明るくなっている。
雲が途切れ、満月の光がまた出てきたのだ。
「うん……」
「俺も寝ようと思ったけれど、寝れないや」
「……だね」
シュバルツも身を起こす。簡素な、私が用意した狩人の服を着ていた。
私たちは笑い合う。実際、笑うしかなかった。
森で見つけた黒狼は記憶を失くした一国の王子様だったのだ。
そして彼がこうなってしまった責任の一端は、私にもある。
聖女として私が最後に関わった人が、彼なのだから。
黙っていることはできない。彼には誠実でいたかった。
「あの、私は――」
そこまで言いかけて、シュバルツが私を抱きしめた。
「わかってる」
「……え?」
「君には特別な力がある。人は君を聖女と呼ぶ」
血潮がうねり、頭がかっと熱くなる。
そこまで彼はわかっていた。記憶を取り戻していた。
「君が俺を助けようと努力してくれたこと。今までだって、そうだよね。それに八年前もだ」
「ごめんなさい……」
私は思わず、そう答えてしまった。
もっと私に力があれば、彼を救えたかもしれない。
私の抱く罪悪感をシュバルツが優しく包む。
「感じたんだ。あの時、苦しかった……本当に。泥の中にいるみたいで。でも光があふれて俺は――もがいて、それにしがみつこうとした」
シュバルツの声が、耳元で聞こえる。
記憶をたぐり寄せるように。
「そうしたら泥がまとわりついて、俺は引きずり込もうとしてきた。俺は暴れて泥を払いのけようとして、気が付いたら光も遠ざかっていった……」
「……ギルベルト殿下」
「シュバルツって呼んでくれないの?」
彼は気付いていた。
ランスターが殿下と呼んでから、私がシュバルツと呼んでいないことに。
実際、呼べるわけがなかった。
息を吸って思考を口に出す。胸が張り裂けそうになりながら。
「だって、その名前は私が付けただけだから。あなたの本当の名前は別にある」
「そんなこと、言わないでよ」
熱のこもった吐息が私の髪を揺らす。
それは懇願だった。
「俺の名前はシュバルツだ」
その言葉を聞いて私は嬉しくなってしまった。
でも同時に自制しなければと思う。私と彼は身分も何もかも違うのだから。
「……うん」
「俺は過去を取り戻したい。でも君の存在を忘れたいわけじゃないんだ。この数か月、俺は本当に楽しかったんだよ」
「私もだよ」
話せるのは満月の間だけだけど、その時間は私には宝石のようで。
今も胸が張り裂けるほど切なくて、涙がこぼれそうだった。
私は今になってようやく、認めることができた。
この人に、恋をしているんだと。
そのまま静かにベッドに横になり、手を繋ぎながら私たちは寝た。
あんなに怖かったのに、今では違った。
彼の体温を感じられるのを嬉しく思いながら、私は目を閉じる。
夜空の雲は気まぐれに、また月を隠す。
シュバルツは狼の姿になっても何も変わらない――温かいままだった。
◆
十五年前、ヘクタール王国の宮殿の地下。
宮殿はその全てが光り輝くというわけではない。
光のすぐ下には暗く、身も凍るような運命が横たわる。
それは宮殿の地下牢。
光の入らない牢の最奥、湿って淀んだ床に当時十歳だったランスターは囚われていた。
ぼろぼろの囚人服を着せられた彼は、絶望に染まった目で牢の向こう側に灯るろうそくを、ただ意味もなく見つめる。
その視線には看守たちもいたたまれない。看守が嘆息する。
「全く、運のない……」
ランスターが牢に入れられたのは、彼が罪を犯したからではない。
ヘクタール王国の政治闘争、その中の一幕で彼の一家が敗北して、冤罪を着せられただけのこと。
それは看守でさえも知る、公然の事実であった。
「……この坊やもどうなっちまうんだろうな? 騎士学校の首席だったんだろ?」
「さぁな……。良くて自害を許されるか、悪ければ斬首だろうな」
「やれやれ、かわいそうに。半端に偉くなるもんじゃないな」
看守の言葉がランスターの心を揺らす。
騎士学校でランスターは突然逮捕され、地下牢に放り込まれたのだ。
ランスターの家族も別に逮捕され、収監されているのだとか。
希望は万に一つもないとランスターは痛いほどわかっていた。
ヘクタールの貴族社会における敗北は、それほどまでに厳しい。
「……これが絶望か」
呟き、足かせに繋がる鎖を持ち上げる。
魔力持ちのランスターでさえ壊せない、ミスリルの特別製だ。
ランスターは一人っ子であった。
ひとりでは死にたくないと思った。せめて両親と一緒に死にたかった。
時計もなく、一日三回の食事だけが時間を告げる。
時間の感覚はとうにない。あと何回、食事を食べられるのだろう。
ぼんやりと思考が溶けていくのを感じながら、時間が過ぎるのをひたすら待っていると――牢の外が慌ただしい。
「このような場所に軽々しく立ち入るなど……おやめください!」
神経質そうな、魔術師然とした男が後ろ向きに入ってくる。
誰かが入らないよう、立ちふさがっているようだ。
「……君に迷惑はかけないよ」
「そのような問題では……とにかくこれは王弟殿下による裁決です、殿下!」
魔術師然とした男が数歩下がり、さらに下がる。
ランスターはそれよりも最後に聞こえてきた単語に首を傾げた。
(殿下……?)
ふっと見ると、牢の看守たちは不動の直立姿勢を取っている。
やがて魔術師は諦めたのか、殿下と呼ばれた青年に道を開けた。
入ってきた青年を見て、ランスターは目を見開いた。
黒く艷やかな髪は地下牢に全く似つかわしくない。
高貴な紫服は早くも湿気に濡れ、革靴も埃に汚れている。
だが、青年は一切の不快感を見せなかった。
その顔にあるのはランスター、取るに足らないはずの罪人への気遣いだけ。
彼こそがヘクタール王国の第一王子、ギルベルト。
ランスターがいずれ仕えるべき、主であった。
「やぁ、君がランスター・ウルブリヒだね?」
「は、はい……」
牢に手を掛けながら問うギルベルトに、ランスターが這いつくばりながら答える。
「顔を上げて」
「そんな、恐れ多いこと……!」
騎士学校所属の身分であるランスターは当然、ギルベルトと面識などなかった。
ランスターにできるのは王国のパレードで手を振る、輝かしいギルベルトを見上げることだけ。
それが、どうしてこうも親しく話しかけてくれるのか。
しかも地下牢に足を運んでまで。
ギルベルトはひとつ息を吐くと看守に合図し、ランスターの牢の鍵を開けさせた。
「……え?」
そのままギルベルトは牢の中に入り、ランスターの手を取る。
汚れたランスターの手を、躊躇なく。
「君の冤罪は晴れた。牢を出よう」
「……!」
その言葉を聞いた、魔術師が金切り声を上げる。
「殿下! 王弟殿下が黙っていませんぞ!」
「構わないさ。どうせ第二王妃か、俺の弟か……身内での権力争いの結果だろう? 父上には後で許しをもらう」
「そ、そんな……! 私には、そのような……」
ランスターは顔を上げてギルベルトを見た。
――気高く、美しい。
闇の中にあって、ギルベルトの黒の瞳は澄んで透明だった。
「君は自由だ」
「こ、こんな……こんな大恩を受けて、私はどうしたら……」
震え出すランスターの手を、ギルベルトはしっかりと握る。
温かい手だった。
優しく、公明正大な王子の言葉がランスターの心に染み込む。
「民を助けてやってくれ。君が騎士になったなら」
これがランスターとギルベルトの出会いであった。
牢から解放され、両親とも再会できたランスターがギルベルトの熱狂的な信奉者になったのも無理からぬことだろう。
ランスターはこうしてヘクタール王国でも有数の騎士となり、ギルベルトに侍ることになった。
……呪いがギルベルトを蝕み、彼を完全に変えてしまった、その日まで。
これにて第4章終了です!
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