21.記憶の断片
「今日は満月だったんだね」
「私もうっかりしてた」
オーリを膝に載せ、私はシュバルツの隣に座った。
さっきまで飲んでいたワインの酔いが、なぜだか強烈に感じられる。
実は私はお酒に強い。どれだけ飲んでも、一定以上は酔わないはずだった。
秋の風は涼やかなのに、全身が熱い。
何かが言いたいのに言葉にならない。沈黙が流れ、夕焼けが闇に置き換わる。
口を開いたのはシュバルツだった。
「主を狩った時、先走ってごめん」
「そ、そうだ! なんで、あんな――」
最初の作戦ではギリギリまで私が追って戦うはずだった。
待機していた彼には、いざという時にクララやベッセルを乗せる役目もあったのに。
「本当にびっくりしたんだから!」
「……エリーザに傷ついて欲しくなかった。癒しの力で無茶しそうだったから」
シュバルツの黒の瞳が私を射抜く。
「それは……だって、そのほうが安全でしょ? 自分自身にも癒しの力は使えるし」
「わかってる。うん、確かにそうなんだけど」
「じゃあ、なんで……」
「あの時、君の矢が思ったよりも主にダメージを与えてて……俺が今、飛び出せば君が傷つかないと思ったんだ」
澄んだ瞳でそう言い切られ、私は黙るしかなくなる。
シュバルツは作戦を修正したけど、結果として私は手傷を負わずに済んだ。
彼の見立て通りだったのは否定できない。
「……そうね。あなたの考え通りだったわ。私も助かった」
私は膝の上のオーリを撫でる。
「謝ってくれたんだし……この話はここでおしまいにする」
「うん、ありがとう」
シュバルツがほっと息を吐く。彼も本当に安堵していた。
私が傷つかずに済んだことに。
そしてこの姿の時に聞いておきたいことがあった。
マーコールとの最後、シュバルツは満月じゃないのに人の姿になっていた。
「……あの時、あなたが人の姿で戦えたのは?」
はっきりとした原因があって、シュバルツがわかっていればいいのだけれど。
「ごめん、わからない」
「そっか……。小高い山の上で満月が近かったからかなぁ?」
それとも地理的な原因だろうか。ここよりも西のほうがいいとか。
「……森の主の気配が薄れたからかも。あれから――ぼんやりと光景が浮かぶんだ」
シュバルツが目を閉じて空に顔を向ける。
夜の舞台にはいよいよ星が踊り、輝き始めていた。
「なにが浮かぶの? もしかして記憶が――?」
「そうかもしれない。目がくらむほど白の大理石の廊下と腕を広げても収まりきらないほど大きな壁画……」
シュバルツが目を閉じたまま、そらんじる。
記憶を。失われていたはずの過去を。
「あとは色彩豊かな花かな? 美しい花がどこにいってもあるような。これは俺の住んでいたところなのかな」
「……他には?」
「うーん、なんだろうね。本当に断片みたいだ。色々な人の顔も思い出すけど、誰なのかはわからない。この光景もいつのものなんだろう……」
「見た記憶だけを思い出せるってこと?」
「全然知らない絵を見ている気分だよ。自分や他の人の名前なんかには……繋がらないな」
さして残念でもなさそうにシュバルツが呟き、目を開く。
彼の話を聞いて、私はぎゅっと口を閉じた。
それは前々からうっすらと感じていたことだ。
(――シュバルツはやっぱり、どこかの貴族様?)
彼の知識や所作は洗練されている。
特に音楽の腕前は高度な教育を受けてきた賜物だろう。
聖女時代、様々な音楽に接してきたからわかってしまう。
「どうかした?」
「う、ううん……ごめんなさい。せっかく思い出してくれたのに、私にも心当たりがなくて」
彼の語った内容はまだ抽象的だ。大きな手掛かりにはならない。
でも私は小さな嘘をついた。
白の大理石の廊下のある場所に住んでいたのなら、その候補は相当限定される。
それでも数十はあるだろうけど絞り込めはする。
(もしかしたら、どこかの王族とか……?)
考えて、心臓がきゅっと縮んだ。
シュバルツの記憶が少しでも戻ったのは嬉しい。
でも――人の姿と記憶を取り戻したら、彼はどうするのだろう。
……決まっている。帰るのだ。彼の帰りを待つ人たちの元へ。
「気にしないで。俺もすぐにどうこう、焦る気はないから」
シュバルツが私を安心させるために微笑む。
素敵な笑顔だった。月の光を浴びている彼に見惚れてしまう。
「ぴぃ……」
「さ、オーリをベッドで寝かせてあげないとね」
「うん、そうね」
シュバルツが立ち上がった。家の中に入って月の光が途切れると、彼は狼の姿に戻ってしまった。あと、何回――彼の人の姿を見られるだろうか。
私はぼんやりとそんなことを考えてしまった。
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