警戒
春風が森を渡り、木々の葉をざわめかせていた。
柔らかな光が枝の隙間からこぼれ、地面の草にまだ朝露が残っている。
甘い花の香りが漂い、小鳥たちがのどかに鳴いていた。
スピカはその中でしゃがみ込み、薬草を摘んでいた。
籠の中には春の色が重なり、風に乗って優しい香りが広がる。
だがそのとき、風の流れが変わった。
甘い香りが途切れ、代わりに鉄のような冷たい匂いが混じる。
スピカの隣で、漆黒の大きな獣が顔を上げた。
琥珀色の瞳が鋭く光り、耳がぴくりと動く。
「……スピカ」
低く、喉の奥で唸るような声。
「えっ?」
「嫌な匂いがする。帰るぞ」
ロウがそう告げると、その声音には獣の本能と理知の両方が混じっていた。
スピカは驚いて立ち上がる。
「えっ、ちょ、待って!」
その瞬間——
「カシャン」
背後の茂みの奥で、金属が擦れる音が響いた。
空気が一変する。森の囀りがぴたりと止まり、風さえ息を潜める。
「あっ……」
「スピカ! 下がれっ!」
ロウが牙をむき、スピカの前に飛び出す。
毛並みが逆立ち、低い唸り声が響いた。
木々の陰に、金色の鎧を纏った人影が立っていた。
朝日を受けて鈍く光るその姿は、今にも崩れそうに揺れている。
「……人?」
スピカが息を呑むと同時に、その人物がかすれた声で言葉を漏らした。
「……な、……なかま……が……」
そして、力尽きたように地面に倒れ込んだ。
金属音が森の静寂を裂く。
「えっ、えっ!? ど、どうしよう!」
「スピカ、放っとけ!」
「む、無理!」
ロウが苛立ったように低く唸るが、スピカは彼の横をすり抜けて倒れた人物に駆け寄った。
恐怖で膝が震える。それでも、放っておけなかった。
鎧の兜に両手をかけ、スピカは思いきり引き外した。
金属が外れる音が静寂に響き、露わになった顔を見た瞬間——スピカは息を呑んだ。
そこにあったのは、透きとおるような白い肌と、夜明け前の空を思わせる黒髪。
頬にかかる一筋の髪が、微かに光を反射して揺れる。
まるで時間が止まったように、その横顔は静かで儚かった。
「……きれい……」
スピカの唇から、思わず言葉が零れる。
年の頃は自分と変わらない。けれど、その整った顔立ちにはどこか異国の気配があり、人の世界から少しだけ離れたような美しさがあった。
「気を失ってるな……」
ロウが鼻先を寄せ、少女の匂いを嗅ぐ。
「……血の匂いはない。けど、魔力が乱れてる」
「仲間って言ってたよ?」
「……はぁ。お前はいつも、こうだな」
ロウは小さく息を吐き、尾を一度揺らした。
そしてスピカの前に立ち、頭を下げるようにして呪文を紡ぐ。
「――風よ、覆え」
低い唸り声のような声とともに、空気が渦を巻く。
薄い靄が二人を包み、周囲の景色がわずかに歪んだ。
「認知阻害魔法をかけた。誰の目にも、お前たちは見えなくなる」
「ありがとう、ロウ」
「ふん。いつもの事だ」
ロウの声は低く静かだった。
その瞳には、確かな警戒の光が宿っている。
「スピカ。コイツを連れて帰れ。俺は偵察してくる。外に出るなよ」
「……わかった」
ロウはひとつ頷くと、音もなく森の奥へ消えた。
風が彼の毛並みを撫で、漆黒の尾が木陰に溶けていく。
スピカはしばらくその場に立ち尽くした。
世界が静かすぎて、心臓の音だけが響く。
「……大丈夫、大丈夫……」
小さく呟き、震える手を少女にかざす。
指先に淡い光が集まり、スピカは息を整える。
「……リヒット」
ふわりと、少女の身体が宙に浮かび上がった。
光の粒が周囲に舞い、魔法の余韻が花びらのようにきらめく。
「……集中……落ち着いて……」
揺れる少女の身体を支えるように、スピカは魔力を調整する。
不器用ながらも、彼女の真剣な想いが光の形となって漂っていた。
やがて、魔法が安定し、少女の体が穏やかに浮かぶ。
スピカは籠を拾い上げ、ゆっくりと歩き出した。
「ロウ……早く戻ってきてね」
春風が再び吹き抜け、彼女の髪と浮かぶ光を揺らした。
その風の向こうで、遠くから一度だけ——ロウの遠吠えが聞こえた。




