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4話 光と影の刃

 港の夜は、遅れてやって来る。昼は怒鳴り声とクラクションが混じって世界の輪郭をざらつかせるけれど、日付が変わる頃には音の粒子がひとつずつ床に落ち、静けさが上澄みだけを残す。

 白い水銀灯がコンテナの角を四角く削り、風が吹くたび鉄骨クレーンがかすかに軋む。潮気は鼻の奥を刺し、舌の上に金属の味を置いていく。──小規模ブレイクから数日。目に見える爪痕はほとんど塞がった。それでも、港の空気にはどこか薄い焦げ臭さが残っていた。


「神谷さん、今夜は東側の倉庫帯、一本多めに回ってって言われました」

 詰所でタカミがタブレットを見ながら言う。

「了解。風が強い。足を取られるなよ」


 夜間警備員の仕事に、派手な瞬間はない。大抵は“何も起きない”を確認して、フェンスの錆を指で確かめ、鍵のかかりをチェックする。俺にできるのは、その“何も”の範囲を整えて、端っこを少しだけ広げることだ。


 巡回ルートに出る前、俺はほんの数分、空き倉庫の訓練スペースに立ち寄った。

 照明を落とし、カーテンを引いて薄闇を作る。右手を上げ、呼吸を整えてから指先に意識を集めた。

 《灯火》。

 ぽ、と豆電球のような光が生まれる。昨日より、たぶん、少しだけ白い。

 顎を引き、視線を斜めに落とし、まぶたを半分だけ閉じる。自己防護の姿勢。

 短く、合図を落とす。

 《閃光》。

 白い針が空気を貫き、世界の色が一瞬だけ剝がれる。目の裏に来る痛みは、昨日より穏やかだった。呼吸は乱れない。脈は少しだけ速くなるが、すぐに落ちる。

 ──二連の限界。三連は膝が笑う。

 メモにそう書き足して、俺は倉庫を出た。


     ◇


 東側コンテナ帯。海からの風が同じ角度で吹き抜ける場所は、匂いも音も一定だ。俺は《気配察知・微》で作った“定常の地図”を胸の内側に広げる。

 空調の唸り、遠い波音、コンテナがわずかに擦れる音、足元で砂が転がる音。──全部、昨日と同じ。

 だからこそ、そこに混じった異物は目立つ。


(……いる)


 湿った呼吸。荒い脈。鉄と獣の混じった匂いが、風に薄められながらも、一定の間隔で戻ってくる。

 倉庫A—12とA—13の狭間。コンテナの影。

 俺は歩幅を狭め、右足を少し開いて重心を落とした。伸縮警棒ではなく、今夜は短剣を腰に差している。抜けば音が出る。出すタイミングは一度きりだ。


 影が動いた。

 黄色い目。尖った耳。緑がかった皮膚。──ゴブリン。

 小柄でも、油断すれば喉を持っていかれる。群れのときは最悪だが、今は一体。なら、やれる。


「来い」


 自分に聞かせる声で言って、俺は一歩、前へ出た。

 ゴブリンが吠え、跳ね、爪を広げる。その瞬間、俺は《閃光》を落とした。


 夜が白で裂け、ゴブリンが目を押さえてよろめいた。

 足が勝手に動く。訓練で染み込ませた型に体重を預け、肩を開き、刃を落とす。

 ざり、と肉が裂ける手応え。悲鳴。血の匂い。

 ──届く。

 ぎこちない。それでも、届く。


 息を吐く間もなく、《気配察知》が背骨を撫でた。

 「カサ……」

 コンテナの天板をなでるような微かな音。定常の地図にはない揺らぎ。体が先に反応し、俺は半身を返す。


 二体目。

 「二体か」

 声が低く、知らない誰かのものみたいに出た。

 恐怖はある。だがそれより先に、手が動く。

 《閃光》。

 二度目の光が狭間に弾け、影がひるむ。自己防護の姿勢が効いて、今度は目の裏が焼けない。

 踏み込む。刃を横へ流す。浅い。だが怯みは十分。後退する相手の足元に、もう一歩、足を落として重さを乗せる。

 鋼の刃が骨に触れ、手首に鈍い反響が返ってくる。


 転がる影。

 俺は距離を取り、刃先を下げずに呼吸を整えた。

 膝は揺れている。けれど、折れはしない。


 ……静かだ。

 最初の一体は、肩口から血を吐きながら、動かない。

 二体目も、痙攣をひとつ残して、そこに沈んだ。


 「……やった、のか」


 短剣の先から、血がぽたりと落ちてアスファルトに黒い点を作る。俺は刃を下げ、周囲に耳を広げた。

 風。波。遠くのフォークリフトが、夜勤明けの誰かにいじられて鳴る短い電子音。

 異物は、消えた。


     ◇


 足の震えが引くのを待って、隙間に腰を下ろした。

 ポケットからメモ帳を出し、膝の上で雑な字を刻む。


 ・《閃光》:光量↑/自己防護姿勢で反動軽減/二連まで安定。三連は危険

 ・《剣術》:型の崩れ減。半歩の送り足→有効/刃に重さを乗せる感覚△

 ・《気配察知》:背後の二体目→感知。音+匂いの組み合わせで“浮き”が出る


 数字はあとで端末で見る。外で画面を開くのは避けたい。癖になってはいけない。

 指先に小さな疼き。喉の奥に、さっきの光の残滓がまだ少し残っている。

 スタミナの減りは、思っていたより軽い。昨日までなら二度目で膝が落ちた。自己防護姿勢と、呼吸の整え方が効いている。

 ──それでも、三度目は無理だ。ここを勘違いすると、次で死ぬ。


 立ち上がる前に、ふと視線が壁に吸い寄せられた。

 そこにあったのは“ひび”だった。

 いや、違う。乾いたコンクリの割れ目じゃない。黒い縁取りが、空気の中で燻ぶるように微かに揺らいでいる。

 爪で引っ掻いたような形だが、爪ではつかない層へ傷が入っている感じ。

 耳を澄ます。膜がこすれるような、紙袋が風で鳴るような、極細の音がする──気がした。


「……ブレイクの残滓」


 言葉がこぼれた。

 ここから漏れたのだ。小さな穴。だから二体だけ。だから気づきにくい。

 写真を撮るべきか迷って、やめた。場所は頭に叩き込む。報告書には「倉庫A—12側面に不審な傷あり」とだけ書こう。

 閃光の話は、出さない。

 今はまだ。俺の中で確かめ切れていないものを、誰かの言葉に変換されたくない。


     ◇


 巡回を再開する。

 普段より少しだけ注意深く、フェンスの影を覗き、鍵の感触を指でなぞる。

 《気配察知》は、最初の戦闘のあと、むしろ冴えていた。定常の地図に置いていたピンが少し増え、風の抜け方の差が色で見えるような錯覚に陥る。

 歩幅を半分に落として、足音を薄くする。自分の呼吸のテンポをずらし、そこに生まれる違和感を“自分由来”として引き出しに戻す。異物と自分を切り分ける訓練は、こうして巡回でもできる。


 詰所に戻る頃には、東の空がほんの少しだけ色を変えていた。

 タカミが机に突っ伏して、紙コップのココアを枕にしている。俺は肩を指でつついた。

「起きろ。巡回、交代だ」

「うぇ……お疲れさまです……異常ありました?」

「ネズミの大群。あと、風が冷たい」

「それは異常っすね……いや普通か……」


 軽口を交わし、俺は自分のロッカーに寄った。人の気配が薄い隙を見計らって、端末を開く。

 青い光が脈を拾い、画面が立ち上がる。


【神谷悠真】

◆ユニーク《模倣訓練》

 ・模倣枠1:《剣術・初等》 熟練度 26% → 27%

 ・模倣枠2:《気配察知・微》 熟練度 21% → 22%

 ・模倣枠3:──

◆所有スキル《灯火》

 派生:《閃光》:16%


 数字を見て、肺の奥がふっと軽くなった。

 わずかだ。誤差に見える。──それでも“伸びた”。

 模倣で借りたものが、昇華して自分のスキルになり、それがさらに訓練で伸びる。

 五十年の常識では説明できない矢印が、端末の中で確かに同じ方向へ伸びている。


 送信承認のチェックは、触れない。

 “今はまだ”が胸に引っかかる。

 隠すことが卑怯かどうか、時々考える。だが、見つけたばかりの芽は、踏まれれば折れる。木陰で大きくする時間が、俺には必要だ。


     ◇


 仮眠を取り、起き上がると、世界は少しだけ朝に寄っていた。

 港のクレーンが寝起きの体を伸ばすみたいにゆっくり動き、トレーラーが一台、また一台とゲート前に列を作る。

 俺は制服の胸を整え、窓の外へ目をやった。

 ──裂け目は、まだ、そこにある。


 昼のうちに、管理局へ簡単な報告を上げる。言葉を選ぶ。

 「倉庫A—12側面に不審な破損箇所あり。周辺で小型モンスター二体を確認、駆除。巡回強化の提案」

 現場写真の欄は空欄のまま。記録は俺の頭と端末にだけ残す。


 詰所の掲示板には、来週のシフトが貼り出されていた。海浜ゲート群の警備増強。人手不足。夜勤の穴。

 名前を探す。俺の欄は、いつもより少しだけ黒いマーカーが多かった。

 疲れるか? ──疲れる。

 やるか? ──やる。


 ロッカーの中に、薄いノートが一冊ある。最初のページに、黒いペンでこう書いてある。

 “灯火の訓練記録”。

 最初の行は、豆電球みたいな光に対して、点灯遅延と半径のメモだけ。笑えるくらい他愛ない。

 そこからページが増え、字が乱れ、付箋がはみ出す。閃光の姿勢。自己反動。連続使用の限界。床の白線を使った足運び。

 今日、新しいページが増えた。

 “実戦ログ──ゴブリン×2。閃光二連/剣術の半歩/背後感知”。


 ノートの最後のほうに、未来の自分宛の走り書きが一枚ある。

 “怖いときは、一歩だけ前へ。それで十分、世界は変わる”。

 書いたのは、たぶん、三か月前。倉庫の暗がりで、停電の非常灯の下、コーヒーのカップが冷めるのを見ながら。

 俺はページを閉じ、制服の内ポケットに端末を戻した。


     ◇


 夕方、再び夜が降りてくる。

 港の影は長く、風は昼より冷たい。

 巡回の前に、俺は倉庫A—12の壁を遠巻きに見た。昼の喧噪で薄まった焦げ臭さが、夜になると少し濃く戻る。黒い縁取りの揺らぎは弱いが、消えてはいない。

 ──埋まるのか、開くのか。

 この国はブレイクと付き合って半世紀。小さい穴は管理局が塞ぎ続けてきた。大きい穴は、時々、街を壊す。

 俺にできるのは、そのどちらのときにも、手のひらにある小さな灯りを正しく使うことだけだ。


 《閃光》は攻撃じゃない。

 でも──戦いを勝利に導く。


 巡回ルートへ足を踏み入れる。

 呼吸を整え、耳を澄ませ、定常の地図を胸に広げる。

 足音は薄く、影は濃く、夜は深い。

 俺は、昨夜より少しだけ強い足で、その夜の中を歩き始めた。

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