リャドの星
白い息で手を温めながら、リャフリルは小さく身震いして背中を丸める。
リサイクルショップで手に入れたダウンジャケットは、日本人には古臭いデザインなのだろうが、まだ十分に早朝の寒気から体の熱を守ってくれた。
日が昇る前の暗い空を見上げれば、東の空にひときわ明るく輝く星がある。明けの明星、金星。
リャフリルはそれを「リャドの星」と、心の中だけで呼んでいた。
今日も1日、無事に終わりますように。
そして僕たちがちゃんと難民認定されますように。
午前5時45分。
会社のヤードに自転車で乗りつけたリャフリルは、ダウンジャケットを脱いで防寒仕様の作業着を着る。
この作業着以外は、安全靴もズボンもみんな自前だ。ヘルメットは会社の支給。ヘルメットと作業着には会社のロゴが入っている。
近くのリャド料理店で昼飯用の弁当を買ってきた人たちが帰ってくると、ヤードからワゴンに乗って現場へと向かう。
リャフリルのチームにはベンさんが乗っていた。
ベンさんはこの会社に勤める数少ない日本人だが、その名前はなんだか日本人じゃないみたいだなぁ、とリャフリルは思っている。
漢字があって、本来の読み方は勉というらしいのだが、皆から「ベンさん」「ベンさん」と呼ばれて慕われていた。
だから最初、リャフリルはこのお爺さんのファーストネームは「BEN」なんだと思っていた。
「よお。頑張るな、ぼうず。」
ベンさんは日本語でリャフリルに話しかけてきた。入社してからずっと、何かにつけてかわいがってくれている。
「俺、もう16っすよ?」
リャフリルは苦笑いで答えるが、この人から見たら社員の半分くらいは「ぼうず」に見えるのかもしれない。
6歳から日本にいるリャフリルは流暢な日本語を話す。
それもここに採用してもらえた理由の1つだった。近隣からの苦情や問い合わせに適切に対応するには、日本語がネイティブに近いくらい話せる方がいいのだ。
リャフリルの勤める会社は建物の解体を専門とする解体屋だ。
社長も従業員も、ほとんどがリャド人で日本人は3人しかいない。その1人がベンさん。元大工だというが、なぜ大工をやめて解体屋にいるのか。本人も語ろうとしないし、皆も聞こうとはしない。
幹線道を走って指定された現場に着いたのは8時15分だった。
前の道は広くないので、ワゴンはリャフリルたち作業員を下ろすと近くのコインパーキングに向かって走り去る。
足場には防音防塵シートが張り巡らされていた。昨日のうちに専門の業者が立てたものだ。
シートをめくって中に入る。
小さな庭を持つ木造二階建ての家が建っていた。
その縁側に腰掛けて、途中で買ってきた温かいペットボトルの飲み物でひと休憩する。
作業は8時半を過ぎてから、子どもの通学時間帯も過ぎてからになるのだ。
シートの中でやっていたらわからないようなものだが、音が出ると「説明と違う」と苦情がくることもある。
トラブルに発展すると、リャド人がやっているというだけで問題が大きくなりかねないのだ。
「いい家だなあ、おい。」
ベンさんが安全靴のまま床板の上を歩き、柱や梁を眺めまわす。
畳や襖などは足場を立てる前にもう運び出してある。今日からは屋根瓦を下ろし、駆体の解体に入るのだ。
「もったいねぇよなぁ。」
立派な梁が見えていて、壁も本物の土壁である。埃がいっぱい出て解体は大変なのだが、リャフリルはこういう日本の古い家の雰囲気が好きだった。
いつか難民認定されてお金もできたら、どこか田舎のこんな古い家に住みたい。と密かに夢を描いている。
「この欄間なんか、傷付けずに外しゃあ売れると思うぜ?」
ベンさんが座敷の鴨居の上の透かし彫りの欄間を見上げて言う。
「俺が上手いこと外したら、もらっていいか?」
1枚の板をくり抜いて梅の模様にしたそれを「ランマ」と言うのだと、リャフリルはベンさんに教えてもらった。
8時半を過ぎると、誰が言うともなく皆一斉に動き出す。
リャフリルはベンさんに倣ってタオルを巻いて鼻と口を覆った。
「ヘタなマスクなんかよりこっちの方がいいんだ。少し息は苦しいかしらんが、顔との間に隙間がなくなる。」
まずは足場に登って瓦を下ろす。土葺きだから、瓦の下には土がいっぱい乗っている。水をかけながら手で剥がして下へ落としてゆく。
道が狭くて重機が入って来れないこの現場は手解体でやるしかない。
値段もそれなりに高くはなるのだが、それ以上に手間がかかって儲けが少ないから今どきの日本人の業者はやりたがらない。
そういう現場をリャド人の業者が拾って「仕事」をするのだ。
報酬が安いのは仕方がない。
施主は誰も、壊して捨てるゴミなんかにお金を払いたくないのだ。それはそうだろう。
リャド人のほとんどは、「特定活動」での在留資格で働く難民認定待ちの人たちだ。リャフリルも彼の父親もその資格で働いて家族を養っている。
不安定な立場だ。
いつ就労条件が変えられたり取り消されたりするかわからない。その判断基準もよくわからない。
特定活動の在留資格を失えば、その日から「仮放免」という資格になってしまい、生活費のために働くことさえできなくなってしまう。
そんな不安定な立場が、もう10年も続いている。
水をかけながら瓦の下にあった土をスコップで下に落とす。
南側はまだいい。傾斜に沿って落とすだけでいいから。
北側は狭い敷地いっぱいに建っているから、隣地側に山ができてしまう。
防護シートはあるが隙間が全くないわけではないので、隣のブロック塀に当たってしまうとクレームになりかねない。
「日本人以上に丁寧に仕事をしろ。そうやって信用を得ていかないと俺たちガイジンはここでは生きていけない。」
社長はいつもそう言っている。
水を含んだ土は重いが、スコップですくい取って南側の斜面に乗せてから滑らせて南の庭の方に落とす。
息が荒くなる。
タオルで覆っていても細かい土埃が口の中に入ってきて、変な味がする。
目が痛痒い。
吸い込んだ土埃を押し出そうと、咳が出る。
10時の休憩になると、皆でホースの水で目を洗い、うがいをする。
利益の面でも、近隣のクレームを防ぐ上でも、できるだけ早く仕事は終わらせる方がいいが、この埃の中での仕事は午前中いっぱいを続けられない。
「怪我と病気だけはするな。」
社長はそうも言っている。
リャド人である社長も、在留資格をちゃんと得るまでは苦労してきたようだ。
もし、怪我や病気で医者にかからなければならない状況になった時に、運悪く特定活動の資格を失ってしまえば「仮放免」という立場になる。
仮放免者は健康保険も使えなくなり、自費で治療しなければならなくなるから、実質的には医者にかかれないということにもなってしまう。
そして、リャド人が難民認定されるケースは極めて少ないのだ。「母国」で迫害を受けている、という証明が難しいからだ。
「母国」と言うが、リャドは国を持たない民族だ。
リャド人は、3つの国の国境をまたぐようにして暮らしている。いや、正確には、もともとリャドの人々が暮らしていた場所に先進国によって国境線が引かれたのだ。
お昼は母親が作ってくれた弁当を食べる。
リャフリルは中学を卒業してすぐ働きに出た。他の同級生たちのように、高校に行く金がないからだ。
弟のリャスランも「中学を出たら働く」と言ったが、リャフリルは「高校へ行け」と言った。弟の学費のためにも働いているのだ。
一家で1人でも日本の高い教育を受けておけば、もし難民認定が不許可になって「母国」へ送り返されても、なんとか生きていける方法を見つけ出せるかもしれない。
もっとも「母国」ではリャド人は一級下の人間と見なされているから、学歴があってもいい仕事に就けるとは限らないのだが。
それどころか、父親は国外に逃げた反政府活動家という名目で逮捕されるかもしれないのだ。逮捕されたら生きて出られる保証はない。
ただデモに参加しただけなのに。
特定活動が認められる基準はよくわからない。
リャフリルはまだ16歳ではあるが、一応働くことが認められている。理由はよくわからない。
「日本で育って日本の義務教育を受けてるからじゃないか。」
と社長は言うが、父親の難民申請が認められなければ「母国」へ帰される。という不安定な立場だ。
リャフリルにとって「母国」なんて外国でしかない。弟のリャスランにとってはもっとそうだ。リャスランは日本しか知らないのだから。
昼の休みには皆、思い思いの場所で昼寝をする。
寝なければ体がもたないからだ。解体の仕事はキツい。
午後からは駆体の解体に移った。
まずは土壁の解体からだ。
これは2階部分から、大きなハンマーで、ボコン、ボコン、と叩いて崩してゆく。
脆そうに見えるが、意外に丈夫だ。中に竹を割ったものが編み込んであるからだ。「コマイ」と言うんだと、ベンさんに教えてもらった。
この作業がキツい。
近隣に飛ばないよう水をかけながらやるのだが、それでも土埃は出る。目がシカシカする。
マスクやタオルをしていても埃は入ってきて、口の中が変な味になるし咳も出る。
少しやってはホースの水で目を洗ったりうがいをしたりして、やり過ごしながら作業を続けるのだ。
古参の作業員の中には、慣れちゃってるのかうがいもしないで、時々マスクをずらして、ぺっ、と唾を吐くだけで続けている人もいる。
出来上がってゆく土の山をネコ車にスコップで入れて、それを道路脇の方に置かれたトン袋というものに入れてゆく。
それを指定された時間にユニック車が取りにくる。大型は道が狭くて入れないので、何回も処理場との間を往復することになる。
2階の壁がなくなると、2階部分の木造骨組みの解体だ。
こうなるとベンさんの知識が活きてくる。
「そっち側から切れば倒れてくるこたぁない。」
ベンさんの言うとおりチェーンソーで大きな太い木を切ってゆくと、建物の構造はみるみる、しかも安全に分解されてゆく。
ベンさんは木造の建物をどういうふうに解体すればいいのかについて、会社でいちばん詳しい。
あと30分ほどで3時の休憩になる——という頃、見知らぬ日本人がシートの中に入ってきた。
何か言いながらスマホを構えて現場を撮影している。
「ほーい。外人ですよー。みんな外人。たぶんリャド人ですねー。」
なんだ、こいつ?
とリャフリルが思った時にはもう、監督のリャシードさんが手を振り回してその若い男に怒鳴っていた。
「ダメ! ダメ! ここ、ダメ!」
「日本語もちゃんとしゃべれないようなのがやってますヨー。大丈夫なんでしょうかー?」
男はニヤニヤ笑いながらリャシードさんを挑発してスマホのカメラを向ける。
話には聞いていた。
例のリャド人同士の乱闘騒ぎがあってから、リャド人に対する誹謗中傷の投稿がネット上にあふれかえるようになった。
良心的な投稿や、リャド人自身による心情の投稿などは、過激なレイシズムにかき消されていった。
そんな空気の中で、リャド人がカタコトの日本語で喚いている動画や手を振り回しているような動画が再生回数を伸ばすと見たユーチューバーによる現場侵入が発生していると、社長も注意を促していたところだ。
リャフリルは土の山を滑り下りた。
リャシードさんに任せておいたら、事態は悪くなるだけだ。
「ここは解体現場です。ヘルメットをかぶらない一般の方は立ち入らないでください。」
リャフリルは務めて冷静に男に向かって話をする。
「オーう! あなたニポン語ジョーズねぇ!」
男がスマホを向けながら、あからさまにバカにした表情でリャフリルを挑発してきた。
「危険ですから、許可なく立ち入らないでください。外に出てください。」
リャフリルは、感情を抑えてもう一度注意する。
「おまえ日本人じゃないんだろ? リャド人だろ。どこで日本語お勉強したのォ?」
男は歯をむき出して笑った顔を作り、挑発した。リャフリルを怒らせようとしているのだ。
「おう! そこのバカチューバー!」
2階からよく通る声が降ってきた。
リャフリルがふり向くと、仁王立ちになってスマホを構えたベンさんがいた。
「危険だから外へ出ろっつってんだよ! 日本語がわからねぇのか!」
ポンポンと出るべらんめえ調の言葉に、ユーチューバーの男が怯んだ。
「おめぇのやってるこたぁ、住居不法侵入だ。立派な刑法犯だぜ? おう、ぼうず。警察に電話しろ!」
え? という顔をリャフリルがすると、ベンさんは間をおかずにたたみかけた。
「できねぇんなら、俺がしてやる。」
そう言って、ベンさんはスマホの画面をトトトと叩くと耳に当てた。
「ああ、俺は龍橋ってもんだ。今、迷惑系ユーチューバーが解体現場に入り込んできて、説得しても出て行かねぇんだ。危険だからすぐ来て逮捕してくれ。住居不法侵入と業務妨害だ。住所は・・・」
ベンさんが現場の住所を言い始めると、男は表情を変え、真っ青になって慌ててシートの外に出ていった。
そのあともベンさんは最後まで住所を言い切ると、そこで初めてスマホを耳から離した。
「おい、ユーチューバー! まだそこにちゃんといるだろうな?」
ベンさんが土の山を伝って、2階から下りてくる。
シートの外に気配はない。
「本当に警察呼んじゃったんですか?」
リャフリルが尋ねると、ベンさんはニヤリと笑って声を落とした。
「呼ぶわきゃねぇだろ? フリだけだよ。パトカーの赤色灯なんか来てみろ。今度は近隣住民が何を言い出すか・・・。それに、ここににゃあグレーゾーンの人間もいるだろが。」
* * *
翌朝も、外は放射冷却でキンキンに冷えていた。
リャフリルは、はあぁ、とひとつ白い息を吐く。
東の空には煌々と輝くリャドの星。
今日も1日、無事に終わりますように。
そして、いつか僕たちが難民としてちゃんと認められ、この国の社会でささやかに暮らしていけますように。
了