初陣前夜
真の英雄とは、恐れながらも戦うものである。
ジョージ・パットン(1885-1945)
ラインハルトが東プロイセンを防衛するドイツ第八軍に送り込まれたのは、ただ能力だけの問題ではなかった。予想外の速さで総動員を行うロシア軍に対して、ドイツ側のプロイセン防衛軍の集結状況は悪かった。ドイツはフランスを先に叩くという「シュリーフェン・プラン」に基づいて軍事作戦を進行させていたため、西方から援軍を送ることができなくなっていた。そのため少しでも兵員の補充を行うために優秀な訓練兵は東方へと配属された。
ラインハルトは列車の中で緊張の渦に飲み込まれていた。目的地に近づくにつれて、手汗の量が増えていくことにラインハルトはどうしようもない焦燥感を感じた。
これから自分は前線へ行く。そこで敵を木っ端微塵にするか、己がされるかの乾坤一擲の場面を迎えなければならない。ラインハルトは吐き気を催すほどに青ざめていたーー。
ラインハルトが東プロイセンにあるグンビンネンに到着したのは8月17日であった。この日、パーヴェル・レンネンカンプ指揮下のロシア第一軍がケーニヒスベルクを目指して東プロイセンに侵攻を開始した。
「貴官が訓練兵の中でもずば抜けて才能があると噂されるシュライザー君か」
到着早々、準備に追われていたラインハルトに男が声をかけてきた。その男はメガネをかけ、非常に頭がキレそうな面持ちをしていた。
「そうかそうか、豊作豊作……」
その男はそう呟きながら挨拶もせずに去っていった。
「おい、新兵! ボサッとしてないでさっさと準備しろ!」
ラインハルトは怒鳴られて、はっと我に返った。
準備が終わると集合がかかり、ラインハルトはそこで自分の新たな指揮官となる大尉に挨拶をした。
「ラインハルト・シュライザーです!」
大尉はゆっくり頷くと形式的な挨拶を済ませて、早速今後の動きについて説明を始めた。
砲兵はおよそ中隊単位でバッテリーを組み、砲撃も中隊単位で行う。ラインハルトは振り分けられた中隊のメンバーたちに挨拶をしたが、彼らはほとんど彼のことを相手にしなかった。新兵に対する洗礼とでも言うのだろうか、とラインハルトは思った。しかし、その中の一人が声をかけてきた。
「初めまして、シュライザー君! 俺はミヒャエル・ミラン。上等兵だけど特に畏まらなくてもいいからね、よろしく!」
ミヒャエルはニコッと笑った。ラインハルトも「よろしくお願いします!」と返事をした。
ミヒャエルは中隊のメンバーが、数日の訓練で前線へ送り込まれた上に、才能があると言われチヤホヤされているラインハルトに少し腹が立っていることを伝えてくれた。でも、同時にミヒャエルは、自分がちゃんと間を取り持つと言ってくれた。
ラインハルトはミヒャエルを頼れる兄貴分のような人間だと思ったーー。
「へえ、お前数学科だったんだ」 「数学科って何するの?」
ラインハルトはミヒャエルのおかげもあって、夕飯の時には少しずつ他の兵士たちとも打ち解けられるようになった。
「数学科はね、簡単に言えば、数学上の定義や定理を再確認したりする場所かな。例えば、関数のグラフを描いてみると、あれは連続であるように思われるけど、厳密な定義によると……」
「……」
聞いていた兵士たちはみんな、目が点になっていた。ラインハルトの言っていることを少しも理解できずにいた。
「へ〜、奥深いんだね、数学っていうのは。道理で君が採用されるわけだ」
「それとこれとは訳が違いますよ! そもそも数学の学生ならみんな理解している内容です!」
ミヒャエルに言われてラインハルトは即座に否定した。
その夜は兵士たちとの会話のおかげでラインハルトの緊張もだいぶ軽くなったーー。
8月20日
「お前たち! いいな、いつも通りだ! 焦って判断を誤るなよ!」
「はい!!」
ラインハルトが所属する中隊は、大きく区分すればアウグスト・フォン・マッケンゼン司令官が指導する第十七軍団に所属していた。この日は東より迫り来るロシア第一軍の侵攻を防ぐため臨戦態勢に入っていた。
再び言い知れぬ緊張感がラインハルトを襲う。
(これから、僕は人を……殺すんだ……。そして、僕自身も………)
ラインハルトの頭の中には生死を懸けることへの恐怖感が充満した。計算式がうまく立てられない。ラインハルトの手はひどく震えていた。
その時、ラインハルトの肩にポンッと手が置かれた。
「初陣なんて、みんなそんなものだよ。俺だって、実践は今日が初めてなんだ。大丈夫、仲間たちがついている」
これが救いになったかもしれない。ラインハルトは深い深呼吸をするとミヒャエルに言った。
「ありがとうございます。やってみせます」
この日、ラインハルトは「最悪の初陣」を飾ることになるーー。
読んでくださりありがとうございます。次の作品が投稿され次第、ぜひ読んでいってください。




