9 初めての公爵邸 その三
盛り上がりに一段落がついた頃、ルヴィリス様が言いました。
「ミカドラ、そう言えば母上はどちらに?」
「ばあ様は急ぎで手紙の返事を書かないといけないらしい……顔が出せそうなら来ると言っていた」
「そう。もう少ししたら昼食にしようと思っていたけど、間に合うかな」
ルヴィリス様のお母様で、ミカドラ様のおばあ様……。
私ははっとしました。
「すみません、今こちらにロザリエ様がいらっしゃるのですか?」
「ああ」
ロザリエ・ベネディード様は、貴婦人の中の貴婦人、淑女の中の淑女と評される有名な方です。
かつては貴族女性のトップに君臨し、表舞台から退いた今でも王妃様に大いに頼りにされているそうです。
普段は前公爵様と一緒に領地で隠居していらっしゃると聞いていましたので、王都でお目にかかれるとは思っていませんでした。
「ばあ様に会いたかったのか?」
「はい。実は、母の葬儀の際にロザリエ様がお花を送ってくださっていたので、お礼をお伝えしたいと……」
長期休暇の際、アーベル家とベネディード家に何か接点がないか、念のため実家で調べてきました。
結果、お母様の葬儀の記録でロザリエ様のお名前を見つけたのです。
お母様と親しかったわけではないでしょう。
ロザリエ様はまめな方なのだそうです。一度でも同じお茶会に出席していた人物の御不幸には、弔問や供花を行っているらしいです。
お父様が既に礼状を贈っているはずですが、できれば直接感謝の気持ちを伝えたいです。
ミラディ様が手を叩きました。
「それじゃあ、おばあ様の様子を見に行きましょう」
「え、よろしいのですか? ご迷惑では」
「おばあ様がまだ忙しそうなら、そのまま屋敷を案内してあげるわ。わたくしの昔のドレスをちょっと合わせてみたいし……食事はその後でもいいでしょう? ね、お父様」
ルヴィリス様がにこりと微笑みました。
「ああ、構わないよ。じゃあ僕は少しだけ仕事を片付けてくるから、またあとで……ほら、ミカドラも行きなさい」
ロザリエ様がいらっしゃるお部屋は三階にあるそうです。余裕をもってすれ違えそうな幅の広い階段を上っていきます。
ミラディ様はヒールのある靴を履いていらっしゃるのに、そうは見えない洗練された脚運びが見事でした。どんどん先へ進んでいきます。
一方、移動するのが億劫なのか、ミカドラ様はかなり緩慢な動作で後ろについてきています。
こういうところは姉弟でも全然違いますね。
「…………?」
階段の踊り場に差し掛かった時、息が乱れて、頭から血の気がさあっと引いていきました。一歩も動けず、心臓が嫌な音を立てています。
「どうした?」
追いついてきたミカドラ様に声をかけられ、顔を上げた瞬間、視界が真っ白になりました。
「あ」
ふらついて階段を踏み外し、体が宙に投げ出されて――。
「ルル!」
引っ張られるような痛みを感じて、私の意識は途絶えました。
ぐぅ、と自分のお腹の音で目を覚ましました。
思い返せば昨日の夜も今日の朝も、緊張で食事が喉を通りませんでした。ギリギリまで公爵家についての情報をまとめていたため、睡眠も十分とは言えない状態です。
倒れてしまっても仕方がない……わけがありません。完全に自業自得の失態です。
「起きたか」
周囲を見渡せば、私はベッドに横になっていて、近くのソファでミカドラ様があくびをかみ殺していました。
「申し訳ありませんっ……痛」
起き上がろうとしたら、腕に痛みが走りました。そのままに枕に逆戻りです。
「無理するな。そのままでいい」
まだ視界が少しぐるぐるしていた私は、お言葉に甘えさせていただくことにしました。また気を失うわけにはいきません。
ミカドラ様がベッドサイドにあったベルを鳴らしました。廊下を誰かが歩いていく気配がします。
「腕、やはり痛めていたか。咄嗟に思い切り引っ張ったからな。悪かった」
「ミカドラ様が謝る必要など一つもありません。ミカドラ様にお怪我はありませんでしたか? 本当に申し訳ありませんでした……」
ミカドラ様は階段から落ちかけた私を助けてくださったようです。下手をしたら一緒になって落下していた可能性もあるのに。
「俺はなんともない。俺よりも、姉上の方が気に病んでいたな。お前が具合悪そうにしていたのに、緊張しているだけだと思って無理をさせてしまった、と」
「そんな」
「それよりももっと問題なのは、ばあ様だ」
「ロザリエ様が、何か……?」
その答えを聞く前にノックとともに部屋の扉が開いて、使用人と思しき人々が入ってきました。
侍女の方にお水を飲ませてもらい、お医者様の診察を受けました。
「腕は少し腫れが見られますが、特に問題はなさそうです。熱はなく、心音なども正常です。おそらく貧血と過労にございます。栄養を取ってよく休養すれば回復するでしょう」
身に覚えのある診断結果でした。
ミカドラ様の指示でお医者様と侍女が出て行きました。厨房に病人用の食事を用意するように伝えに行かれたのです。
入れ違いで、今度は公爵家の方々が部屋にいらっしゃいました。見知らぬ男性たちもいます。執事や秘書の方のようです。
「ルルちゃん、大丈夫? ああ、そのまま楽にしていて」
「……ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません」
「迷惑ではないよ。でも心配はした。具合が悪い時は早めに言ってね」
ルヴィリス様はどこまでも優しいです。
一方、その後ろにいる女性二人は厳しい表情をしています。
少し拗ねた様子のミラディ様が寄り添うようにしていらっしゃるご婦人こそ、ミカドラ様の祖母に当たるロザリエ様でしょう。
「このような姿で申し訳ありません。あの、ルル・アーベルと申します」
「ロザリエ・ベネディードです」
簡潔な挨拶の後、ロザリエ様は言いました。
「ミカドラの妻となり、将来的にはその責務を代わりに担うと聞いていますが、あなたには荷が重いでしょう。体調管理もできないようでは、とてもベネディード家の未来を任せられません」
厳しいお言葉に、ぐうの音も出ません。
「ミカドラ。私としても、あなたが自由に生きたいと願うなら、とやかく言うつもりはありません。しかし、家や領民にその皺寄せがいかぬよう、最大限に配慮するのは当然のこと。分かりますね」
「もちろん分かっています」
ミカドラ様が敬語を話しているのを初めて見ました。
それくらい、ロザリエ様には敬意を表しているということでしょうか。
「その上で、やはり俺はルルに任せたいと思います」
「たとえ彼女がどれだけ優秀でも、関係ありません。軽い気持ちで他人に任せられるものではないのですよ」
「軽い気持ちではありません。俺も、ルルも」
ミカドラ様は私に視線を向けました。
「ルル、歴代のベネディード家の当主の名を初代から言えるだけ言ってみろ」
「え?」
「早く」
有無を言わさぬ声音に、私は粛々と従いました。
「ミジェカルス様、アンドレス様、ジェイコニア様――」
最後にルヴィリス様の名前を言い終えると、ロザリエ様が口を開こうとするのを遮って、更にミカドラ様は問いかけてきました。
「次は、覚えている範囲でいい。家の歴史と領地の変遷を年代順に」
これはあまり自信がなかったのですが、最近調べて頭に入れた内容を順番に紐解いていきました。
「王国暦三十二年、ニウナ河の架橋工事の着工。三年後に完成――王国暦七十九年、ガル・サーラ戦役の褒賞として勲章の授与――王国暦百十七年、西部地方で森林火災が発生し、三割が消失。翌年から林業へ注力し――」
それからもミカドラ様はいくつか質問をされました。
公爵領の気候や地質の特徴、町村の名前や大まかな人口、各地の特産品、芸術分野の有名人などなど。
私は分かる範囲で答えていきました。
「……ドナード。ルルの解答に間違いはあったか?」
壁際に控えていた初老の男性が首を横に振りました。
「いいえ。ただ、私もさすがに年暦までは自信がありませんな」
「あはは、僕よりも詳しいね。すごいよ」
ルヴィリス様が感心したように頷いてくださいましたが、ロザリエ様が咳ばらいをしました。
「今の知識はミカドラから聞いて覚えたのですか?」
「いえ……学院の図書室にあった蔵書で調べました。なので、最近のことについてはまだ……」
公爵邸へ挨拶に行くと決まってから、貴族年鑑や王国の歴史書を見て、ベネディード家に関する事柄を洗い出して覚えました。
失礼のないように、もし試されても答えられるように。
ロザリエ様がミカドラ様に視線を向けます。
「ばあ様、先に言っておきますが、俺の指示ではありません。ルルが自主的に学んだんだ。優秀なだけではなく、少々病的なくらいの努力家で真面目なんです。今日倒れてしまったのも、それが原因でしょう」
「……努力は認めます」
ノックの音が響き、「お食事をお持ちました」と廊下から声が聞こえました。
「話の続きはまたの機会に。とにかくよく休みなさい」
私が感謝の言葉を伝えると、ロザリエ様は小さくため息を吐いて退室していきました。
どうしましょう。私が倒れたばかりに少々雲行きが怪しくなってきました。




