71 嵐の日は
ミラディ様が異国に旅立って数日。
心にぽっかりと穴が開いたような気持ちで過ごしていました。短い付き合いの私でもそうなのですから、ミカドラ様やルヴィリス様、長くベネディード家に仕えてきた者たちはもっと寂しい思いをされているでしょう。
公爵邸はいつになく静かでした。落ち着きません。
私は勉強の傍ら、窓越しに分厚い雲に覆われた空を眺めました。
ミラディ様は今頃船上にいらっしゃるでしょうか。天気が崩れてなければいいですが……。
神秘の力に守られたヤクモ様がご一緒なので、海難事故の心配はないとのことですが、そういった力を実感できない私は半信半疑です。
無事にシロタエに到着したという手紙が来ないと、心から安心できません。
「あ」
ぽつり、と水滴が窓を叩いたのを皮切りに、雨が激しく降り始めました。
王都の天気がシロタエ皇国への航路に影響するとは思えませんが、気づけば私は重たいため息を吐いていました。
大雨の日には嫌な思い出があります。
あの時の感情が呼び起こされて、とても心細い……。
カーテンを閉めようと席を立って窓に近づいた瞬間、空に閃光が駆け抜けました。すぐに落雷の音が轟きます。
私は思わず悲鳴を上げて、その場に蹲りました。
「……ルル? 大丈夫か?」
廊下からミカドラ様の声がしました。
たまたま私の部屋の前を通りがかったのか、悲鳴を聞いた誰かがミカドラ様に報告したのかもしれません。呆然としていて、どれくらい時間が経ったのか分かりませんでした。
私が返事をできずにいると、そっとドアが開いて、ミカドラ様が目を見開きました。
「どうした」
「申し訳ありません。なんでもありませ――きゃ!」
口を開いた瞬間、また閃光と轟音が響き、私は再び縮こまりました。
ミカドラ様は小さく息を吐いて、私の元へいらっしゃいました。
「なんだ、雷に驚いただけか」
ミカドラ様が安堵したように息を吐きました。呆れられてしまったかもしれません。もう子どもではないというのに、雷ごときに怯えるなんて恥ずかしいです。
ミカドラ様はカーテンを閉めて、私に手を貸して立ち上がらせてくださいました。
「す、すみません……」
ミカドラ様の手がとても温かく感じます。反対に、私の手は凍えたように冷えて震えていました。早く平静を取り戻さなくてはと思うのですが、激しい雨音と雲の唸り声が聞こえる限りは難しそうです。
ミカドラ様はいつの間にか神妙な表情をしていました。本気で私のことを心配してくださっているようで、胸が痛みました。
「知らなかったな。そんなに雷が苦手だったのか」
「えっと、いえ……」
「空模様が落ち着くまで窓のない部屋に行くぞ」
ミカドラ様に支えられるようにして連れ出されました。
向かった先は地下室です。以前一度だけ案内していただいたことがありますが、ワインなどのお酒や食品が保存されている場所なので、基本的に私は立ち入らない部屋です。
「寛ぐには少々陰気だが、たまにはいいだろう」
申し訳程度に備えられたソファーセットに二人並んで腰かけました。少し肌寒いと感じていたら、ミカドラ様が毛布を肩から掛けてくださいました。やけに用意が良いと思っていたところ、「暑い日はここで昼寝してる」とのことでした。納得です。
「あ……」
ミカドラ様は毛布越しに私の肩を抱きつつ、冷えた指先を両手で包み込んでくださいました。密着すると相変わらず良い匂いがします。
やっぱり私は、ミカドラ様が大好きです。私がダメになるときはいつも優しくて、一緒にいるだけで嬉しくて心を占領されてしまいます。
全ての感情を上書きしてくれる。なんて頼もしいのでしょうか。
雨音と雷鳴が遠ざかり、ようやく私は落ち着きを取り戻しました。もちろん別の意味でドキドキしていますが……。
様子を窺うようにミカドラ様を見上げれば、至近距離で目が合いました。このまま見つめ合っていたら、不思議な引力が働きそうで……耐えられません!
私はすぐにまた俯きました。
「ありがとうございます。もう大丈夫ですっ」
「……そうか」
ミカドラ様はパッと手を離して、私から少し距離を取りました。
気まずい空気が流れます。いえ、どちらかと言えば、面映ゆい空気と言うべきでしょうか。
私も勝手なもので、くっついていると恥ずかしくてたまらないのに、離れると寂しくて仕方がありません。
ミカドラ様が焦れたように腰を浮かせました。
「雨が止んだか見てくる」
「…………あ」
恐れ多くも、私は無意識にミカドラ様の手を掴んで引き留めていました。
何も言えないでいると、ミカドラ様は再びソファに座り直して、私の手を握り返しました。
「まだ大丈夫じゃないみたいだな」
「……そ、そうみたいです。ごめんなさい」
「いや、いい。お前に甘えられるのは悪くないな。もう少しだけこのままでいいか」
しばしの沈黙の後、ミカドラ様は言いました。
「さっきも言ったが、ルルが雷が苦手だと知らなかった。今までもこんな風になっていたのか?」
「い、いえ……あんなにひどく怯えたのは久しぶりです」
私が目を逸らすと、ミカドラ様は顔をしかめました。
「久しぶりということは、初めてではないわけだな。こんなに苦手なものがあるなら言っておけ」
「申し訳ありません」
「別にお前に怒っているわけじゃない。こんなの悔しいだろう」
「?」
どういう意味かはっきり分かりませんが、おそらく私を案じてのことでしょう。
それからミカドラ様は苦々しげに言いました。
「苦手なものや嫌いなものを隠すのは、別にいい。口に出すのも忌々しいのなら、無理に打ち明けることはない。ただ……俺に気を遣って我慢するのはナシだ」
確かに、少しくらい嫌なことがあっても、私はミカドラ様に言わないでしょう。遠回しに何かを強請っているように思われたら嫌だからです。ミカドラ様に気を遣っているわけではなく、自分の評価を守るための沈黙です。
「俺は、散々ルルの働きに甘えているからな。ルルも俺に甘えればいい。そうでないと、せっかくサボらせてもらっているのに、俺の気が休まらない」
ミカドラ様も自分のために私を甘やかして下さっているようです。遠慮するな、俺に甘えろ、と。
ならば、私は。
「子どもの頃から雷が怖くて苦手でした。成長すれば克服できると思ったのですが……思い出してしまうんです。母が亡くなったのが嵐の日だったので」
ミカドラ様が小さく息を呑んだのが分かりましたが、私は俯いたまま話を続けました。
あの日、お父様は仕事で王都に行っていて、私とお母様がアーベルの屋敷に残っていました。領内の村のそばの川が氾濫しそうだという報告が入り、お母様がお父様の代理として現場で指揮を執ることになったのです。
使用人たちは「危険だ」と止めていましたが、お母様は無理を通しました。
『お母様、行かないで。かみなり怖い……』
『ごめんなさいね、ルル。どうしても行かなくてはならないの』
『じゃあ一緒に行く!』
『ダメよ。屋敷で待っていて。ルルなら少しくらい我慢できるでしょう?』
お母様は困ったように笑いました。良い子にしていて、と頭を撫でられたら、頷くしかありません。
私は雷鳴に怯えながらお母様の帰りを屋敷で待つことになりました。
屋敷の中はバタバタしていて、誰も私についていてくれません。
私も幼いながらも非常事態だと分かったので、迷惑をかけないように一人で静かに恐怖と戦っていました。それが『良い子』だと思ったから……。
お母様の早い帰りを切実に待ち望んでいたことを覚えています。
そしてその願いは最悪の形で叶いました。
大雨で地盤が緩んでいたのか、雷に驚いた馬が暴れたのでしょう。母が乗った馬車は道から外れて転落しました。奇跡的に軽傷だった御者に救い出され、屋敷に戻ってきましたが、お母様はその日の晩に亡くなりました。
幼かった私は、事故に遭ったお母様から遠ざけられ、最期の姿を見ることすらできませんでした。
お母様は、私をアーベル家の跡取りとして立派に育てるよう、周りの者に言い残して、私に謝りながら息を引き取ったそうです。
それ以来、雷が鳴るような日にはあの時の恐怖を思い出してしまいます。
今回はミラディ様の旅路を心配していた分、余計に鮮明に当時の感情を想起してしまったようです。
「いろいろ考えてしまって……もっと本気で引き留めれば何かが変わっていたかもしれない。あの時私が引き留めたから、母は余計に急いで事故に遭ったのかもしれない。それとも最初から全部我慢していれば――」
「ルルは何も悪くない。お前の行動は事故とは無関係だ」
「……はい」
私の力ない声を聞いて、ミカドラ様はそっと抱きしめてくれました。
お母様は珍しく判断を誤りました。
しかし、今なら分かることもあります。
領民の身を案じるあまり無理をして命を落としたお母様のことを、今でもみんなが慕っています。不作の年が続いても領民たちが不満を漏らさず、お父様の施策を信じて働いてくれたのは、お母様の命懸けの献身を覚えてくれているからでもあるのです。
お母様があの嵐の日、屋敷に籠っていたらこうはいかなかったでしょう。領民のアーベル家への信頼を損ねないために、お母様は無理をしたのかもしれません。
何が正しくて、何が間違っていたのでしょう。
少なくても、幼い私の声には何の力もなくて、何も守れなかったのは確かです。
話すうちに想いが込み上げてきて、視界が歪んできました。ただでさえ最近は涙腺が緩いのです。このままではミカドラ様の服を濡らしてしまいます。
私が身じろぎをしても、ミカドラ様は腕の力を緩めることはなく、
「嵐の日は」
そして、あの日の私が欲しかった言葉をくれました。
「必ずそばにいる。だから我慢せずに甘えろ」
込み上げてくる感情に従って、私はミカドラ様に縋りつきました。
その手が優しく髪や背を撫でてくれて、私は心から安心したのでした。




