7 初めての公爵邸 その一
よく晴れたとある休日、私は王都にあるベネディード公爵家の屋敷の門をくぐりました。
実家の数十倍はある大きな屋敷を見上げて、緊張と恐怖で足が動かなくなってしまい、ミカドラ様が渋々エスコートしてくださっています。
使用人の方々も困惑している様子。とても恥ずかしいです……。
「ルル。いい加減、覚悟を決めろ」
「っはい。が、頑張ります!」
礼儀作法はしっかり頭に叩き込んで、寮の自室で練習して参りました。
後は実践できるかどうか……不安で仕方ありません。体がカチカチですし、今にも頭が真っ白になりそうです。心なしか眩暈もします。
「気負い過ぎだ。大体、なぜ制服なんだ?」
「それは……相応しい服を持っていなかったからです。申し訳ありません」
「先に言え。用意したのに」
「申し訳ありません!」
「いちいち謝るな。別に制服でも問題ない。むしろ良かったかもな。お前の真面目さが伝わってきて」
ミカドラ様にフォローさせてしまうなんて。
なんだか泣きたくなってきました。
「何も心配は要らない。父上にはもう全て話してある。今日はただの顔合わせだ。父上は全く怖い人ではない」
「……はい」
「とりあえず深呼吸して顔色を戻せ」
いつになく優しいミカドラ様に付き従って、公爵様の待つお部屋に震えながら入室しました。
「は、初めまして。ご多忙の中お時間をいただき、誠にありがとうございます。ルル・アーベルと申します」
にこやかに淑女の礼ができれば良かったのですが、表情まで取り繕うのは無理でした。ぎこちない挨拶にも、ミカドラ様のお父様――ルヴィリス・ベネディード様は眉を顰めることなく紳士的に対応してくださいました。
「ルルさん、よく来てくれたね。どうぞ、楽にしてくれて構わない」
席を勧められて、ミカドラ様と並んでソファに腰かけました。
素直にくつろげるはずもなく、私は全神経を研ぎ澄ませていました。反対に、ミカドラ様は実家で実の父親を相手にするということもあって、リラックスしています。話の内容的にも、少しは緊張していただきたいものです。
「まさか、こんなに早くミカドラが女性を家に連れてくるとは思わなかったな。なんだか不思議な気分だよ」
苦笑するルヴィリス様は、とても絵になる御方でした。ミカドラ様と顔立ちはよく似ていらっしゃいますが、雰囲気は柔らかいです。
まだ三十代半ばでありながら二十代に見えるくらい若々しく美しい男性です。私の父と同年代とは思えません。
「二人はクラスメイトなんだよね。ミカドラは学院ではどんな感じなのかな?」
公爵様は私にとっては雲の上のような存在ですが、気さくな口調で話しかけて下さるので、幾分か救われた気持ちになりました。評判通り、素晴らしい御方のようです。
「父上、先日話した通り、俺はルルと結婚すると決めた。将来的には執務も代行してもらうつもりだ。認めてくれるか?」
前置きもなくさらりとミカドラ様が切り出したので、心臓が止まるかと思いました。
ルヴィリス様が小さく息を吐いて、私に向き直りました。
「その前に、ルルさん、一つだけ確認させてくれるかな。本当に自らの意思で結婚の申し出を受けたんだね? ミカドラに脅されているわけではなく」
「父上」
「大事な確認だ。黙っていなさい」
私は慌てて頷きました。
「はい、あの、身の程知らずは重々承知の上なのですが、ミカドラ様のご提案は私にとってとても魅力的で……認めていただけるのなら、お役に立てるように誰よりも努力いたします。どんなことでも頑張ります。な、なので、どうか……」
ルヴィリス様は困ったように笑いましたが、ゆっくりと頷きました。
「分かった。二人とも真剣に考えて決めたんだね。……いいよ。反対する理由はない」
ここまで来ておいてなんですが、私は信じられませんでした。こんなにもあっさりと公爵様に結婚を認めてもらえるなんて……反対する理由ならいくらでもあると思います。
てっきり「我が家を軽んずるな」とか「小娘に代行できるような仕事ではない」とか「どこまでできるのか試させてもらう」くらい言われるのではと身構えていました。
「でも、一つだけ条件というか、お願いがある。ミカドラ、この結婚によってルルさんを不幸にしてはいけないよ? 必ず二人とも幸せになると約束してくれるかい?」
その言葉にミカドラ様が眉を顰めました。
「……最初からそのつもりだ。俺たちはお互い好きなように生きる。ルルにも家にも損はさせない」
「ならいい。うん、ミカドラなら大丈夫か」
自分の息子を慈しむように見つめた後、ルヴィリス様は私に向かって朗らかに微笑みかけてくださいました。
なんというか、大貴族の家ともなれば私の実家よりもずっと厳格なのだと思っていましたが、随分と甘い印象です。ミカドラ様を信じ切っているというか、尊重しているというか、十二歳の我が子にここまで寛容だなんて、どういうことでしょう。
そして、ルヴィリス様はその優しさを私にも向けて下さるご様子。
「歓迎するよ、ルルさん。ミカドラと仲良くしてやってください。ああ、もちろん僕や他の家族とも」
人たらし、神聖、あるいは魔性。
そのような単語が脳裏をよぎりました。
ルヴィリス様の微笑み一つで私はすっかり舞い上がってしまいました。
これが人の上に立つべくして立っている方のカリスマ性というものでしょうか。ずっと見ていたいです。
「他人の父親に見惚れるな」
「え!? あ、失礼しました」
ああ、ミカドラ様が呆れています。
「いいじゃないか。他人じゃなくて義理の父親になるんだから」
「義理の父親に見惚れるのもおかしいだろ」
「ミカドラったら、早速嫉妬かな?」
「どこをどう解釈したらそうなるんだ」
「誤魔化しちゃって。ね、ルルちゃん」
先ほどまでは一応部外者用の対応だったのかもしれません。これがルヴィリス様の素なのでしょうか。
緩くてふわふわしていらっしゃいます。大人の男性から「ルルちゃん」と呼ばれたのは初めてです。不思議と嫌ではありません。
「ミカドラ。あの二人を紹介したいから呼んできてくれるかい?」
「なぜ俺が。使用人に命じればいい」
「それでもいいけど、ミラディがやたらと張り切っていたからね。ルルちゃんのためにもちゃんと釘を差してきた方が良いと思うよ」
「…………」
ミカドラ様はとても面倒くさそうにしつつも、最後には無言で出て行きました。
扉が閉まってから、ルヴィリス様と二人きりになっていることに気づきました。もしや、わざとでしょうか。
「ミカドラのわがままのせいで負担をかけてしまっていたら、ごめんね。無理をしていない?」
「いえ、そんな、滅相もございません。ミカドラ様に声をかけていただかなかったら、私、今頃……」
跡継ぎになれないと確定して落ち込んだまま、未来に絶望していたでしょう。
戦々恐々としながらも毎日頑張ろうと思えるのは、間違いなくミカドラ様と取引をしたおかげです。
「きみの家のことも少し聞いているよ。可哀想に、辛い目に遭ったみたいだね」
「…………」
「でも、そんなものは一時的なことだよ。まだ十二歳なんだ。そう簡単に人生は終わらない。いくらでも挽回する機会は来る。きみの父君だって娘が憎いわけではないし、申し訳ないと思っているはずだ。きっと、きみのために良縁を見つけてきただろう。少しだけ我慢すれば、普通に幸せな人生を送れたかもね」
優しい口調なのに、私を突き放すような厳しい言葉でした。
「ミカドラとともにあることは茨の道だよ。楽なことは一つもない。きみは実の親に黙って過酷な未来を選ぼうとしている。本当に後悔しない? 今ならまだ引き返せる」
私は息を呑みました。試されています。
ミカドラ様と同じアイスグレーの瞳を見つめ返して、私は苦々しい気持ちを吐き出すように答えました。
「公爵様のおっしゃる通り、このままじっと我慢すれば身の丈に合った人生を送れた可能性はあります。でも、あるかどうかも分からない幸せな未来を待ち続けて、何も手に入れられなかったら、その方がずっと後悔が大きいと思います……」
誰も私の人生の幸せを保障してはくれません。親にすら、全幅の信頼を置くことはできないと分かってしまいました。
たとえ茨の道でも、進めるのなら前へ行きたい。全ての道が閉ざされるのを待っている方が恐ろしいです。
「私は楽をするよりも、つらくても頑張っている方が好きなんです。人生は一度きりですし、いつ終わるかも分かりません。なら、好きなように生きたいです。だから、ミカドラ様のお誘いを断るなんてもったいないことはできませんでした」
こんな奇跡みたいな機会、私の平凡な人生には二度と起こり得ないでしょう。それだけは確信を持って言えます。
「……似ているんだか、真逆なんだか」
「?」
ルヴィリス様はどこか安心したように笑いました。
「今どきの十二歳は大人びているんだなぁ。僕が子どもの頃はもう少し無邪気だったけど……気弱そうに見えて、ルルさんは芯がしっかりしている。申し訳なかった。きみの覚悟を試すような無礼な真似をしてしまった」
「! いえ、私の方こそ生意気なことを言ってしまって、申し訳ありません!」
立ち上がって深く頭を下げると、ルヴィリス様は慌てました。
「いいんだ、本当にごめんね。絶対に幸せになってほしくて、心配でつい念入りに確認しちゃって……あ、ミカドラには内緒にしてくれるかな。怒られる」
「は、はい、黙っています」
「僕のこと、嫌いになってしまったかな?」
「そんな、全くそのようなことは――」
「本当? 息子のお嫁さんに嫌われたら、軽く死ねる」
それからミカドラ様が戻られるまで、二人揃ってあわあわと上擦った会話の応酬が続きました。
国を代表する大貴族のご当主様と一体何をしているのでしょう。私にも分かりません。