3 成立
実家に戻ってからも、私はずっとふわふわしていました。
私とミカドラ様が結婚。公爵家に嫁入りして、その執務を代行する。
やっぱりあり得ない話ですよね。前代未聞、現実的ではありません。
「はぁ……」
私のような者を高く買ってくださったのは、とっても嬉しかったのですが、やはりお断りすべきです。
承諾したら周囲に思い上がっていると思われてしまいますし、ゆくゆくはミカドラ様にも恥をかかせてしまうでしょう。
私と彼では住んでいる世界が違いますし、お役に立てる自信もありません。
そもそも気まぐれな提案かもしれません。本気にしたら馬鹿を見るかも!
いつ反故にされるか分からない取引をするのは危険です。
私と彼は、対等ではないのですから。
そう考えつつも、気づけば私は公爵家の嫁入りした場合の未来について想像していました。
ベネディード家の領地にはなんでもあります。鉱山も工房も農園も遺跡も……一体どのように管理しているのでしょうか。
領民たちは豊かな暮らしをしており、公爵家を慕っていると聞きます。
最近爵位を継承したミカドラ様のお父様――現公爵様はとても有能で、領民に寄り添うような優しさもお持ちなのだとか。そんな方の下で勉強させてもらえたら、どれだけ充実した日々を送れるでしょう。
とても楽しそう。
きっと責任の重さに心労が募り、休む暇もなくて疲労困憊の毎日なのでしょうが、やりがいの多さに心が躍りますね!
「はぁ……」
ええ、分かっています。これは現実逃避です。ため息が止まりません。
「すごいぞ、ラルス。もう剣の素振りが様になっている。さすが我が息子!」
「ふふふ、あなたったら、大袈裟ですわ」
自室からこっそり窓の外を覗くと、お父様とお母様が弟と遊んでいました。楽しそうで何よりです。
私と新しいお母様との仲は決して悪くありません。当たり障りのない対応をしています。しかし長く会話が続かず、どうもぎくしゃくしています。
弟はその空気を察してか、私のことを少し避けています。もっと幼い頃にはよく泣かれました。
お父様は、私と二人きりの時は話してくれますが、四人揃うとお母様の顔色を窺っているのか、だんまりになります。学院の成績を報告しても「ああ、そうか」の一言だけでした。
三人とも、あの楽しそうな笑顔を私には向けてくれません。
だから「私も混ぜてください」と庭に出る勇気が持てないのです。
寂しい。
私は家族の輪の中から一人だけ外れてしまいました。学院に通うために家を空けていた数か月で、疎外感がさらに強くなったような気がします。
亡くなった実母の代わりに私を育ててくれた乳母は、腰を悪くして退職していました。それ以外の使用人も新しい母の意向で入れ替わっているようです。
心なしか内装も変わっています。実母が好んでいた淡い紫色のカーテンが濃い臙脂色に変わっているのを見ると、気が重くなります。
この家から私の心の拠り所がどんどんなくなっていく。
居場所を奪われていくような心地がして、息苦しくて仕方ありません。
夜、眠れずにいた私は外の空気を吸うために庭に向かおうとしました。
その途中、食堂からお父様とお母様の会話が漏れ聞こえてきました。二人でお酒を飲んでいるようです。
「ルルさんは、随分と成績優秀なのね……」
「まぁ、昔から真面目だからな」
よりにもよって私のことを話しています。私は薄暗い廊下で立ちすくんでしまいました。
「そういうところもネネ様によく似ていらっしゃるんでしょう?」
「そ、そうだな。確かにルルは、私よりも彼女に似ているかもしれない」
「わたし、不安だわ……」
お母様は悲しげな声で言いました。
自分の産んだ息子が、王立学院で私以上の成績が取れるかどうか心配だ。母親の出来が違うせいで、将来恥ずかしい思いをさせてしまうかもしれない。
子どもの出来の差が、そのまま母親の評価につながる。お母様はそれを恐れているようでした。
「そんなこと、心配しても仕方がないだろう。大丈夫。ラルスは溌剌としていて、好奇心旺盛で、人を惹きつける不思議な魅力がある。きみにそっくりだ。きっと素晴らしい青年になるだろう」
「そうかしら?」
「ああ。そんなに心配なら、少し早いが、専属の家庭教師を雇おう」
お母様が少し驚いたような声を上げました。
「いいの? その、今年はあまり税収が良くなかったんじゃ」
「いいさ。大事な跡取り息子のためだ。惜しむものはない。ラルスなら必ず私の期待に応えてくれると信じているよ」
「ありがとう、あなた!」
跡取り息子。
父の口から出たその単語に、心臓が凍りつきました。
「心配なのは、むしろルルの方だ。あの子は頑ななところがあるし、学問に秀で過ぎて嫁ぎ先が見つかりにくいかもしれない……」
お父様が嘆くのを見て、お母様はどこかご機嫌な声音で言いました。
「あら、そんなことはないと思うけど……でもそうね、もう少し可愛げがあった方が殿方からの印象はいいかもしれないわね」
「ああ。もう少ししたらルルに女性の振舞い方を教えてやってくれるかい?」
「もちろん、わたしで良ければ」
私はそれ以上聞いていられなくて、足音を立てないように自室に戻りました。
胸の中が気持ち悪くて、叫び出したい。そんな衝動に駆られました。
眠れぬ夜を過ごした翌朝、父から「今年は財政が厳しいから仕送りを減らさせてほしい」と言われました。
「不甲斐ない父ですまない、ルル。お前が頑張っているのは分かっているのだが……」
言い訳をたくさん聞いて、最後には「いつでも家に帰っておいで」と言われました。
父が私を見る目には期待の一片もなく、苦々しい感情に満ちていました。そう、私の成長よりも、私の挫折を望んでいる……それがはっきりと分かってしまいました。
「ありがとうございます、お父様」
とりあえず勉強を続けさせてもらえることに感謝を伝え、私は仕送りの減額を承諾しました。上手く表情を取り繕えていたか、自信がありません。
もはや、ふつふつと込み上げてくる感情を見て見ぬふりすることはできませんでした。
苦痛しかない長期休暇が終わり学院に戻ると、すぐさまミカドラ様に呼び出されました。好都合でした。
前回と同じ温室の席で向かい合い、失礼にも、私はミカドラ様が切り出す前に問いかけました。
「ミカドラ様は、私を信じてくださいますか?」
彼は眉間に皺を寄せ、「は?」と低い声で言いました。こ、怖いです。
「申し訳ありません! あの、私は自分を信じられないのです。とても、公爵家のお力になれるとは思えなくて……でも、頑張れば、努力を続けていれば、本当にいつかあなたの代わりが務まるでしょうか?」
私は一世一代の覚悟で尋ねました。
しかし相手は白けたような顔をして、一言。
「そんなわけないだろう」
酷い裏切りに遭いました。
私は声にならない悲鳴を上げて、顔を歪めました。もう泣いてもいいでしょうか。父と会話してからずっと我慢していたのですが……。
「俺は代わりに仕事をやれとは言ったが、俺の代わりになれとは言っていない。誰にも、身代わりにはさせない」
「え?」
「そんなに気負うな。完璧なんて求めてない。俺よりうまくできなくてもいい。できる範囲でいいんだ」
やっぱり私は、期待されていない。
肩を落とした途端、ミカドラ様が意地悪な笑みを浮かべました。
「なんだ、自分を信じられないくせに、俺に背中を押してほしかったのか?」
そして、一片の迷いもなく断言しました。
「いいだろう。俺は、お前を選んだ自分の見る目と直感を信じている。“銀狼は見誤らない”……建国以来、ベネディード家はそう称されている。自分を信じられないなら俺を信じろ。お前も好きなように生きればいい」
「…………」
好きに生きる。なんて魅力的な言葉でしょう。
堂々としたミカドラ様を見ていたら、強張っていた体から力が抜けました。すると、口から素直な言葉が出てきました。
「私、もっと立派な人間になりたい。役に立って、必要とされたい。そのために頑張りたいです。誰にも邪魔されたくありません」
「ああ」
「でも、やっぱり失敗するのが……いえ、周りから身の程知らずだと非難されるのが怖いです」
「俺が選んだお前を非難するということは、俺に喧嘩を売るのと同義だ。どちらが身の程知らずか思い知らせてやる。何も心配は要らない」
自信満々なミカドラ様がとても眩しい。
そんな彼が味方でいて下さるのなら、無限の勇気が湧いてくるような気がしました。
「本当に、大変光栄なお話です。もうお断りする理由が見つかりません……」
私の中の迷いが砕けて消えました。
「お前に最高の居場所を用意してやる」
こうも的確に私の欲しい言葉で口説かれては、抗うことなどできるはずありません。
彼から差し出された手を、私は恭しく握り返しました。
「取引成立だな?」
「はい。よろしくお願いいたします」
「ああ、末永くよろしく頼む。ルル」
こうして私は、ミカドラ様のパートナーになりました。