2 取引
「ルル・アーベル。お前について、いろいろと調べさせてもらった」
長期休暇に入って数日後のとある昼下がりのことでした。
帰省のための実家からの迎えを待つ間、図書室で時間を潰そうとしていたはずなのに、なぜか私は貸し切りの温室にいました。
ミカドラ様に呼び出されたのです。しかも二人きりです。
やはり先日の生徒指導室でのやり取りで気分を害されたのでは、と震えていたのですが、出迎えた彼はいつになくにこやかでした。
お茶とお菓子が並ぶテーブルを挟んで向かい合うと、私の戸惑いに構わず彼は説明を始めました。
「先日聞いた通りの家庭事情らしいな。その裏が取れた。お前の父君は温和で領民に慕われており王都での評価も高いが、方々で新しい妻の自慢をしているとか。前妻の娘としては複雑な心境だろうな」
「えっと?」
「お前自身は勤勉で真面目、学院の成績もとても良い。馬術と護身術もそつなくこなしているようだ。健康面も問題なし。同性からの評価は、まぁ、多少侮られてはいるが、貶されてはいない。なかなか上手く立ち回っているな」
「…………」
背筋がむずむずしてきました。
怒られる雰囲気ではなさそうですが、なぜ私について事細かに調べたのでしょう。怖いです。ミカドラ様の目的が全く分かりません。
私の困惑を察したのか、ミカドラ様は少しだけ居住まいを正しました。
「お前は限りなく俺の理想に近い女だ。俺と結婚して、諸々の仕事を代わりにやれ」
人間、理解の範疇を超える出来事が起こると、身動き一つとれなくなるものなのですね。
たっぷりの沈黙の後、私は絞り出すように問いかけました。
「ど、どうして……ですか?」
「俺が働きたくないからだ。楽がしたい」
またです。理解しがたい言葉が聞こえました。
私は少しでも歩み寄ろうと辛抱強く質問してみることにしました。
「えっと、ミカドラ様は自分の代わりに働く女性を妻に迎えたいということですか?」
「そうだ」
「働きたくないのはなぜでしょうか?」
「面倒くさい。疲れたくない。好きなことだけして生きていたい。それだけだ」
そんなことが許されるのでしょうか。公爵家の跡取りなのに……。
生まれた時から課せられている煩わしい責務を全て放棄して、自由に暮らす。その発想自体は貴族にありがちで、よく耳にしますね。実際に家を捨てて市井に下った方もいます。
「爵位自体は俺が継ぐが、公爵と領主の権限は全て移譲する。俺は名ばかりの当主になる」
しかしミカドラ様は公爵の地位には就くものの、実際は妻に代わりに働いてもらい、自分は好き勝手に暮らしたいご様子。それはさすがに虫が良すぎるのでは……?
「つまり、ミカドラ様は自分がしたくないことを妻となる女性に押し付けるおつもりで……?」
「言葉が悪いぞ。この世には男と同じように働きたいと願っている女がたくさんいるだろう? 男に生まれただけでふんぞり返っている連中よりよほど有能なのに、活躍する機会を与えられない……俺はそういう女と双方に利益のある取引がしたいと考えている」
物は言い様ですね。
ミカドラ様は楽に生きられて、その妻は自分の能力を活かして働ける。
言葉にしてみても、なんだかやっぱり、おかしい気がするのですが。
「ああ、もちろん手柄や美味しいところを横取りするつもりはない。妻に働かせておいて自分は遊び暮らすんだ。クズと呼ばれても構わない」
潔い覚悟です。決して見習えませんが。
とはいえ、私は他人の生き方に口を出せるほど立派な人間ではありませんので、ミカドラ様の願望自体は否定できません。
そう、その願望に自分が巻き込まれさえしなければ、好きにすればよいと思えるのですが……。
「あの、まさかその取引を、私と?」
「そう言っている。お前のような、良き領主になることを目指して生きてきた女が良いと思っていた。学習意欲と向上心もあるし、細かい計算も速くて正確。変に擦れてもいない。よく働いてくれそうだ。お前も積み重ねてきた今までの努力を無駄にせず済むし、良いだろう?」
「……そんな、冗談ですよね?」
「俺は本気だ」
私は青ざめていたと思います。
「ベネディード家とアーベル家の規模が全く違うではないですか……」
「そうだな」
「私には絶対に無理です。そんな力はありません!」
「今はそうだろうが、俺たちの代が公爵位を継ぐのは何十年も先の話だ。それまでは父上の元で学べばいい。十分に能力を磨けるだろう」
「そんなの――」
「全てをお前一人にやれとは言わない。重要な判断は俺が下してもいいし、相談にも乗る。使える部下を育てることも少しは手伝おう。最低限、人前にも出る。お前に求めるのは実務の処理――面倒な部分だ。細かいことで俺を煩わせないでくれればいい」
はっきりとおっしゃいましたね。
私は気が遠くなってしまいました。
どう考えてもおかしいではありませんか。
働きたくないのなら、それこそ有能な部下に任せればいいと思います。もちろん嫁入りして公爵家の一員となった人間でなければできないこともあるでしょうが……。
そもそも大前提として、ミカドラ様のような大貴族は、それに見合う家柄の令嬢と結婚すべきです。私の家は爵位すらない、どちらかと言えば貧しい貴族です。これっぽっちも釣り合いません。
そう、貴族の結婚は個人の問題ではありません。家の未来を左右しかねない重大な問題です。
「あの、このお話はミカドラ様のご両親は?」
「まだ話していない。俺の独断だ」
ホッとしました。こんな話が認められるはずがありません。
「だが、反対はしない。結婚相手は好きに選んでいいそうだ。犯罪以外なら何をしてもいいと言われて育ったからな」
「えっ?」
私の反応を見て、ミカドラ様は勝ち誇ったように笑いました。
信じられません。いろいろなことが、もう、あり得なくて……。
「好きな女性と結婚できるなら、なおさら私を選ばなくても……同年代でも私より優秀な女性は山ほどいますし」
「それはそうだろうが、さっきも言った通り能力はこれから育つ。やる気と適性重視だ。あとは性格だな。途中で裏切られるのが一番困る。お前なら、そういうことはなさそうだ」
それは確かに、私には公爵家相手に不届きを企むような度胸はありません。
ようするに対等な身分の高貴な女性よりも、かなり立場の弱い私の方が扱いやすいということでしょうか?
「それでも、あの、他にもっともっと良い方に巡りあう可能性が」
「どうだかな。出会うかも分からない女よりも、初めて見つけた理想に近い女を早くから育てた方が堅実じゃないか?」
堅実という言葉にこれほど違和感を覚えるなんて!
絶対に何かが間違っているのに、私では諫められません。
「俺は、同年代に自分より恵まれた人間はそういないと思っている。探せばいるんだろうが、実際に会ったことがないからな。もちろんお前も総合的には俺より劣っているはずだ」
「…………」
「だが、俺には絶対できないことがお前にはできる。あの蠢くような膨大な計算式の羅列を見た時、ぞくぞくした。あんな面倒な作業、俺には真似できない。同い年の人間に良い意味で驚かされたのは生まれて初めてだった。お前は自分で思うほど平凡じゃないぞ」
恐怖と緊張で高鳴っていた心臓に、別の痛みが加わりました。
深呼吸をして、私はティーカップを手に取りました。冷めかけたお茶でのどを潤して、ソーサーにカップを戻します。
「っ」
危なかった。また手の震えがぶり返してきました。あと味が全然分かりません。
ですが、嬉しくて笑ってしまいそうになるのを堪えることはできました。珍しく褒められたからと言って浮かれてはいけません。冷静になるのです。
「あの……ちなみに私に選択権はあるのでしょうか?」
すぅっとミカドラ様の瞳が細くなりました。
「まさか、断りたいと? 悪い話ではないと思うが?」
「それは、はい、もちろん、そう思いますよ、ええ、大変光栄なお話です。……でも、いきなりすぎて、頭が働かないんです……け、結婚は、一生に関わる問題ですし」
改めて口にしたら、意識してしまいました。
この取引の大前提は、私がミカドラ様と結婚することです。
私は今、もしかして、常軌を逸していながらも一応求婚されているのでしょうか?
多少性格に難はあれど、国を代表する名家の跡取りで、誰もが見惚れる美男子。乙女にとっては憧れの対象です。
「…………っ」
急に目の前の彼を異性として意識してしまいました。そんな私の羞恥を見透かしたように、ミカドラ様が薄く笑います。
「決して損はさせない。俺と結婚して働いてくれるなら、毎日お前のことを労わってやる」
「!」
よくこんな恥ずかしいことを、平然と言えますよね。本当に私と同じ十二歳ですか?
顔が熱くて俯く私に対し、ミカドラ様はため息を吐きました。
「まぁ、無理強いさせることではないな。断ることも……許してやる。仕返しなどはしないから安心しろ。ただし、この取引について他言した場合は――」
分かるな? と視線で脅されて私は何度も頷きました。
絶対に言いません。動機はどうあれミカドラ様に求婚されたなんて、誰も信じないでしょう。
「休暇の間によく考えてくるように。ああ、親にもまだ言うなよ。ややこしくなる」
「わ、分かりました……では、失礼いたします。ごちそうさまでした!」
これ以上耐えられません。私は簡略化した礼をして、逃げるように温室を去りました。