10 初めての公爵邸 その四
ミラディ様が肩をすくめました。
「おばあ様のことは、気にしなくていいわ。あなたたちの結婚については、阻止したいほど反対しているわけじゃないの。女が仕事をして男より前に出ることを良く思っていないだけ」
「そうなのですね……」
「その考えが古いってことも、おばあ様は理解しているわ。でもベネディード家は王国貴族の代表格でしょう? 我が家の振舞いが今後の貴族女性の生き方に大きな影響を及ぼす。それを心配しているだけなのよ」
それはつまり、私がミカドラ様の代わりに執務を代行して失敗を重ねれば、他の働く貴族女性の印象まで悪くなるということでしょうか。
責任重大ではありませんか。一つの家だけではなく、社会全体の問題です。
「大げさに考えすぎだよ。それよりも、冷める前に召し上がれ」
ルヴィリス様のご厚意に甘えて、ひとまず食事をいただくことになりました。
ベッドサイドにテーブルを運んでいただき、そこに並ぶ具だくさんのスープや高級な果物の匂いが鼻をかすめた途端、またお腹が鳴りました。
は、恥ずかしい……。
公爵家の方々だけではなく、使用人たちまで笑みを浮かべているではありませんか。
ミカドラ様も面白そうに目を細めています。
「遠慮なく食え」
「……いただきます」
見られていると食べづらいのですが、出て行ってくださいなどと言えるはずもなく、私はせめて行儀よく食事を始めました。
「! とても美味しいです」
学院の食堂のスープも素朴で美味しいのですが、こちらのスープは雑味が一切なく、濃厚で味わい深いです。
「そう言えば、最近学食でスープしか飲んでいなかったな」
ミカドラ様が思い出したように言いました。私のことを見ていたなんて、気づきませんでした。
「何よそれ、ダイエット? そういうことをしているから倒れるのよ。美しくなりたいのなら、ルルの場合はむしろ太らないといけないわ」
「そうだね。成長期なんだから、たくさん食べなきゃダメだよ。明日からはしっかり食事をとるって約束してくれるかな」
ミラディ様とルヴィリス様に叱られ、私はもじもじと縮こまりました。
この方々にとって、食事を減らす目的はダイエット以外に思いつかないのでしょう。
先程ドナードと呼ばれていた初老の男性が何かを察したように、ルヴィリス様に耳打ちをしました。
そして、申し訳なさそうにルヴィリス様が切り出しました。
「……ルルちゃん。ごめんね、とても失礼なことを聞いてしまうけど、もしかしてお金に困っているの? 今日我が家に来るために何か準備をした?」
「え? それにしては服も制服だし、ヘアメイクもしてないじゃない。どこにお金がかかっているの?」
「ミラディは黙っていて」
少し誤解が生じています。
それはそれで失礼な話なのかもしれませんですが、今日のご挨拶に当たって何も金銭的な損失はありません。
ここで誤魔化すと今後の関係に支障が出そうです。もう既に恥をたくさんかいたということもあって、私は正直に打ち明けました。
「いえ、その、実は仕送りが減ってしまいまして、節約しようと……」
「は? どういうことだ。聞いていない」
ミカドラ様の声は今日一番の冷たさでした。
さすがに仕送りの減額までは話せなかったのです。だって、なんだか集っているようではありませんか。
私が改めて実家での出来事を話すと、ルヴィリス様が絶句し、ミラディ様は理解できないとばかりに首を傾げました。
「じゃあ、四歳の弟に家庭教師をつけるために、王都で暮らすあなたの生活費を減らしたということ? 馬鹿じゃない?」
「ミラディ。他家の財政事情はそれぞれだから。でも、食事代を減らさないといけないくらい、厳しいのかな?」
「いえ、そんなことはないと思います。私が人よりもたくさん紙やインクを消費してしまうので……」
具体的に一か月にいくらもらってるんだ、というミカドラ様の直接的な問いに私が躊躇いがちに答えると、ルヴィリス様はドナードさんや侍女たちを振り返りました。
「すまない、僕の感覚ではかなり少ないと思うんだが、きみたちはどう思う? それで学院で生活していける?」
使用人の方々は言いにくそうでした。
「学費や寮費を除いているので、贅沢をしなければ暮らしていける額ではあると思いますが……」
「確かに昼食をきちんととってしまうと、心もとないですね」
「足りないです。平民ならばともかく、貴族の令嬢ともなればさらに付き合いでいろいろと入用でしょう。とてもつらいと思います」
侍女の一人が何かを思い出すように切なげな表情で言いました。
田舎から一人で王都に出てきて、最初は心を躍らせていたものの、ショーウィンドウに並ぶお菓子もシャンプーも可愛い雑貨もお出かけ用の服も満足に買えない。
友達に誘われても断ることしかできず、だんだんと孤立していき、少しでも稼ごうと始めたバイト先で店主に怒鳴られ、寂しさや苛立ちを娯楽で紛らわせることもできず、ついには声をかけてきた変な男に引っかかって――。
「青春時代を下水道に捨てることになるのです」
……生々しいお話です。もしや体験談でしょうか。
部屋の空気がすっかり重苦しいものに変わりました。
「う、うん、やっぱり少ないんだね。アーベル家のご当主は評判が良かったんだけどな……そっかぁ。僕は仲良くできそうにないな。可愛い娘に苦労させるなんて」
「あの、父はそこまでひどいことは……今年は税収が少ないらしくて」
咄嗟に庇ってしまいました。このままでは公爵家の怒りを買いそうです。
「だが、屋敷の内装を変えたり、幼い弟には家庭教師をつけるつもりなんだろう。お前だけが損をしている」
「それで、お金がなくて耐えられなかったら、学院を中途退学して帰って来いって言うのでしょう? 継母と腹違いの弟がいる居心地の悪い家に」
「姉上、ルルが帰ったら、継母に男受けする振舞いを教わらないといけないらしいぞ」
「何よ、それ。拷問じゃない」
ああ、もう取り返しがつきません。
ベネディード家の方々の、アーベル家の好感度が急降下しています。
「ルルちゃん」
「は、はい」
「言い出しにくいのは分かるけど、今後は無理をしてはいけないし、遠慮もしないでほしい。きみはミカドラのお嫁さんになる、我が家にとって大切な存在だ。これからはきちんと援助させてほしい」
ルヴィリス様に優しく諭され、私は泣いてしまいそうでした。度重なる失態を演じた後、優しくされるとますます自分が情けなくなります。
「ですが、私と実家の問題でご迷惑をおかけするわけには……」
ミカドラ様が鼻で笑いました。
「この程度、迷惑の内にも入らない。これも取引の一部だ。お前なら、働きで返してくれるだろう。先行投資だ」
部屋の中の誰一人として、嫌な顔はしていませんでした。
この時、私は心に誓いました。
生涯をかけてベネディード家に尽くし、必ず役に立ってみせると。




