1 遭遇
私――ルル・アーベルは十二歳になったある日、いつもならば絶対にしない行動を取りました。
それが今後の人生を大きく左右することになるとも知らず……。
王立学院の中等部に入学して早三か月。
初めての期末試験の答案が返ってきました。結果は上々。両親にも良い報告ができそうです。もしかしたらお母様は喜んでくださらないかもしれませんが……。
「え?」
数術の答案を見て、私は首を傾げました。
最後の解答に三角がついています。自己採点では正解だと思っていたのですが……。
単純な計算ミスがあるのかな、はたまた最終的な答えは合っているのに途中の式に不備があるのかも、と隅々まで見直してみましたが、何が間違っているのか分かりません。
この問題について、数術の授業で解説はありませんでした。
もっと基本的な部分のおさらいをして、後は各自復習するように、と先生はあっさりと退室してしまったのです。
釈然としない私と違って、他の方々はあまり気にしていない様子でした。
上級貴族の方たちにとっては簡単な問題だったのか、分からなくても後で専属の家庭教師に聞けばよいと思っているのでしょう。
私のような下級貴族の子女には、学院の他に学びの機会はありません。両親は当てになりませんし、解答を教えてくれるような友達もいません。いえ、仲良くしてくださる友人はいるのですが、皆さん勉強は適度で良いと考えているらしく、真剣に相談しづらいのです。長期休暇の過ごし方の話題で盛り上がっているところに、試験の話を持ち出すのは無粋でしょう。
これはもう、先生に直接質問に行くしかありません!
私は汗の滲む手の平をハンカチで拭い、決意とともに立ち上がりました。
明日から学院は長期休暇に入ってしまい、私も数日後に実家に帰ることになっています。今日を逃せば休暇の間ずっとモヤモヤを抱え続けることになってしまいます。
普段の私ならば、決してこのような悪目立ちする真似はいたしません。
じっとしてられないくらい、悔しかったのです。
私はこそこそと隠れながら職員室へ向かいました。
昨今では女性の地位向上の風潮があるとはいえ、熱心に質問に行く姿を見られたら、同級生たちにどう思われるか分かりませんからね。
職員室に数術教師の姿はありませんでした。私は近くにいた事務員さんに声をかけました。
「あれ? さっきまでいたのに……すぐ戻られると思いますよ」
「そうですか。あの、待たせていただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。よければ、隣を使ってください。戻られたら声をかけに行きますので」
事務員さんの計らいで職員室の隣の部屋で待たせていただけることになりました。正式な名称ではありませんが、生徒の間では“生徒指導室”と呼ばれる部屋です。ここに足を踏み入れるのは気が進みませんでしたが、事務員さんの厚意を無下にはできません。
誰にも見つからないように素早く入室しました。
「…………」
人目を気にするあまりノックを忘れた自分が許せません。なんと、先客がいたのです。
頬杖をついてだらしなく椅子に腰かける男子生徒。その前の机には本と羊皮紙が山積みになっています。物憂げ、いえ、不機嫌極まりない視線が私を捕らえた瞬間、背筋が凍りつきました。
「あ……」
彼は、同じクラスのミカドラ・ベネディード様。
建国以来、何百年も国王陛下の腹心を務める由緒正しき公爵家の嫡男でありながら、しばしば授業をサボる不良生徒です。
見惚れてしまうほど整ったお顔と相対する者を圧倒する鋭利なオーラをお持ちで、公爵家の家紋をなぞって、女生徒の間では“銀狼の若君”と呼ばれています。
私にとってはできるだけ関わり合いになりたくない相手でした。
正直に申し上げましょう。怖いのです!
長い銀髪から覗くアイスグレーの瞳は他人を拒絶しているとしか思えないほど冷たい印象を与えます。時折聞こえてくる舌打ちや深いため息に、クラスの気の弱い方々は肝を冷やしています。
ええ、私もその一人です。
王族の次に尊い身分の方である彼の不興を買えば、この国で生きづらくなってしまいますから。
逃げなければ。これ以上失礼のないように、自然な態度で迅速に。
「この部屋か、それとも俺に何か用なのか?」
「は、はい! いえ、あの……えっと」
「…………」
無言の一瞥に心臓が委縮しました。
「せ、先生が戻られるのを、こちらで待たせていただくことになりましてっ。申し訳ありません。いらっしゃると知らず、大変失礼いたしました!」
「……座れ。そこに立たれていると気が散る」
「あっ、はい。ありがとうございます……!」
ここで従わずに背を向ける勇気はなく、私は覚束ない足取りで彼の斜め前の席に座りました。扉は開いたままなので密室というわけではないのですが、廊下に人通りがないので実質誰の目にも触れない二人きりと言ってよいでしょう。
微かに聞こえてくる職員室からの談笑の声が、かろうじて沈黙の痛みを和らげてくれています。
時間を巻き戻したい。それができないのなら、帰りたい。
私は身を固くして、祈るように数術教師の帰還を待ちました。緊張のあまり意識が遠のいていきそうです。
「おい」
「はい!」
「暇なら手伝え」
「えっ?」
ミカドラ様は、課題に取り組まれているようでした。私が了承する前に、問題集と解答用紙を押し付けられました。
図書室や自習室ではなく、この場所の特性を考えると教師陣から強制的に罰則を科されているのだと思います。
試験の結果が悪かったのでしょうか。いえ、そもそも、試験の日に姿をお見掛けしていないような気がします。授業のみならず、最初の試験をサボるとは……さすがです。
しかし、なぜ私が手伝わなくてはいけないのでしょう。罰ならば本人がこなさなければ意味がありません。
……そのような文句など言えるはずもなく、私は素直に筆記用具を取り出しました。
ここで神経をすり減らして拒否するよりも、課題を消化した方が楽だったのです。情けないですが、未来の権力者には逆らえません。
粛々と問題に取り組み始めた私の様子を見て、ミカドラ様が少しだけ機嫌良さそうに目を細めました。
そしてそのまま机に突っ伏してしまいました。これは眠りに入る体勢です。
もしかして、残りの課題全てを押し付けられたのでしょうか?
さすがに呆れてしまいましたが、深呼吸をしてため息を堪えました。一族の存続のためにも我慢です。
なかなか職員室から声がかからず、そのまま時計の針は進み、全ての問題を無事に解き終わりました。
何の因果か教科は数術でした。苦手科目でなかったのが救いです。
代わりに担当した以上、間違えていたら大変なので、よく見直しをして問題集と羊皮紙を綺麗に整えてミカドラ様の近くに返しました。
「……終わったのか」
「ひっ……はい」
ミカドラ様は頬杖をついて、つまらなさそうに私が解答した羊皮紙をめくり、一枚抜き出しました。
「思っていたより早いな。助かった。ん、これは………………一問やり直しだな」
「え? も、申し訳ありません! どこが間違っていましたか?」
「いや、最終的な解は合っているが、俺ならこんな解き方はしない。代筆がバレる」
ミカドラ様は眠そうな表情で、さらさらと数式を書き直していきます。
私は愕然としました。
とても簡潔で短い式。私は馬鹿正直に存在する数字を計算で積み重ねて解を導き出しましたが、彼は全体から不要な部分を引いてあっさりと解に辿り着いてみせたのです。
授業では習っていない解き方です。しかし、あまりにも整然とした文字列に、これが完璧な答えなのだと納得させられました。未知の数式を使っているわけではありません。少し発想の転換ができれば、今の知識でも十分に解けるレベルです。
私ははっとして、質問しようと思っていた数術の答案用紙を取り出し、問題を読み返しました。
「もしかしてこれも、考え方は同じ……?」
私から答案用紙を奪い、ミカドラ様は鼻で笑いました。
「ああ、そうだな。それにしても、よくここまでみっちりと細かい計算を積み重ねられるな。計算ミスもないし、そもそも試験時間内に解き終わるとは……教師も点をやりたかっただろう」
全く褒められている気がしません。
ミカドラ様の解答を見た後では、自分の出した解があまりにも不格好で恥ずかしく、顔が熱を持ってしまいました。
それに、どうやら私は、ミカドラ様に対して間違った認識を持っていました。
先にミカドラ様が取り組まれていた課題の数々――諸外国の語学や礼儀作法の問題集、失われた魔法文明に関する考察、歴代の経済政策の結果と問題点をまとめた論文、錬金術を応用した麦の品種改良案――どれもこれも高等部以上の内容だと思われます。
私に渡された数術の問題集は簡単な部類のものだったのです。
サボってばかりだからと言って、勉強ができないとは限らない。
考えてみれば当たり前です。公爵家の嫡男なのですから優秀な血を受け継ぎ、幼い頃から厳しい教育を受けていらっしゃるはず。
そもそも授業に出席しないのは、レベルが低すぎて退屈だからなのかもしれません。私とは文字通り、立場が違うのです。遥か高みにいらっしゃる御方です。
いろいろな感情が混ざり合い、涙がこみ上げてきました。
気づけば、自己嫌悪で落ち込む私をミカドラ様がまじまじと眺めていました。
「えっと、あの、何か……?」
「ルル・アーベル、だったな。同じクラスの」
驚きで涙が引っ込みました。私のような教室で全く目立たない生徒の名前を覚えてくださっていたなんて。
それからミカドラ様は次々と質問をしてきました。
家族構成やアーベル家が所有する領土の特徴、持病の有無や風邪をひく頻度などなど。
なぜそのようなことを聞くのか、私にはさっぱり分かりません。しかし流されるまま答えていきました。
「勉強が好きなのか? 教師に質問に来るくらい随分熱心に学業に励んでいるようだが」
「……どちらかと言えば、好き、ですね。最初は使命感だったのですが」
「使命感というと?」
「弟が産まれるまで、私は一人娘でしたから。ずっと自分が父の跡を継ぐのだと思っていましたし……私の代で何も損なわぬよう、一人でも多くの民が笑顔になれるように、立派に務めを果たしたくて」
心が不安定になっていたのでしょう。
私は先ほどまで怯えていた相手に、自分の悩み種を打ち明けていました。
「私は、責任をもって努力をしてきたつもりです。できる限り心を尽くして、自分自身を削るようにして……苦ではありませんでした。期待され、それに応えるためにする努力は格別でした」
自嘲気味に告げると、ミカドラ様は肩をすくめました。
「それが弟の誕生によって報われない努力になった、と?」
「……正式にはまだ、父は後継を指名していません。えっと、いろいろと事情が」
「ここまで来たら、全部話せ」
圧に押し負け、私は少々恥ずかしい身の上話を語っていました。
「弟はまだ四歳なんです。しかも私とは半分しか血が繋がっていなくて……母親が違うのです」
私の実の母親は六年前に事故で亡くなりました。父は一時塞ぎ込んでいましたが、今ではすっかり新しいお母様と可愛い弟に夢中です。二人の目を気にしてか、昔のように私のことを褒めてくれなくなりました。
父は、心情的にはすぐにでも弟を後継として発表したいはず。男性が家を相続するのが一般的です。女性の領主はとても珍しく、どうしても後を継がせられる男性がいない場合のみですから。
しかし亡き母の遺言で私を跡取りとして育てていたこと、新しいお母様の身分が限りなく平民に近いことから、決めきれないのでしょう。幼い弟が今後どのように育つかも分からないので、慎重になっているのかもしれません。
「分かっています。もう私が後継者になることはない。家族のためを思えば素直に諦めるべきなのに、どうしても切り替えられなかったんです。自分の居場所を奪われまいと、勉強をし続けていたのかもしれません」
今までの努力を踏みにじられたくない。私はこんなに頑張っているし、きっと十年後の弟よりも優れているはず。自分の方が上手くできる。
そんな傲慢なこと考えていたんです。
だって、悔しかったから。
「ですが今日、思い知らされました。私はそれほど優秀ではない……どれだけ努力を重ねても平凡の域を出ない人間だとはっきり分かりました。やはり自分から身を引いて、身の丈に合った人生を歩むことを考えないといけません」
弟を差し置いて、女である私が領主になる意味はないのです。これ以上頑張っても仕方がありません。
ふと我に返り、慌ててミカドラ様に頭を下げました。
「すみません。長々とつまらないお話を聞かせてしまって!」
「……いや、とても良い話を聞いた」
ミカドラ様は今まで見たことない表情――柔らかい微笑みを浮かべました。女生徒が夢中になるのも納得の麗しさ……かっこいいです。
「…………」
しかし、他人の繊細な家庭事情を聞いて嬉しそうにするのはどうかと呆れてしまいました。顔と頭は大変よろしいのに、性格が少々……。
落ち込んでいた心が少しだけ救われたので、怒る気にはなりませんが。
生徒指導室を出る頃には、「ただ怖い人」だったミカドラ様への印象が「そこまで怖くない人」に変わっていました。
話したことのない相手に偏見を抱くのは良くありません。大いに反省しなければなりませんね。
そして、自分の進路についてももっと真剣に考えなくては。
そんなことを考えていた私に、数日後、予期せぬ道が示されたのでした。