第40話 幻の未来
私!?
カブラギは混乱した。そんなはずはない。
当時カブラギは演劇コンクールの練習に没頭していた。
『主役中村烈の愛読書は「赤と黒」』とかトンチキなことを言ってタカハシを困らせていただけである。
まあカブラギのために『赤と黒』を調べている間は気が紛れたかもしれないが『命を救った』とはとても思えない。
「読書に対する理解度というのは普通、過去の読書量に比例するんだよ」
1000冊読んだからといって1000冊分の理解度を得られるわけではない。しかし、10冊しか読んだことない人間と1000冊読んだ人間では明らかな差が出る。
「そういう意味でいうとね。今までの生徒で俺に『脚本理解』で勝てる生徒は現れなかった」
ふふっ。タカハシが笑った。
「それなのにこの『鏑木紫陽』って子は」
勝手に登場人物の『愛読書』を設定。その愛読書に感化されているという理由で演技まで変え始めた。
「カブラギ。『中村烈の冒険』の最後のセリフ覚えてる?」
「もちろんですよ〜」
========================
私ってなんてバカだったんだろう。ご飯食べさせてもらって勉強させてもらって。いっぱい愛をもらってきたのに。家出なんかして。家に帰ろう。帰って私のやれることをやろう。家に帰ろう。
========================
「このセリフ。普通に読むと『反省』なんだよ。自分の愚かさを反省して。家に帰ってみんなが期待するようないい子になろう。そういうセリフなんだよ。実際去年この劇をやった学校の子は腕をこう『ダラッ』と下げてうつむいてセリフをしゃべってたよ。噛み締めるように話してたよ。その脚本理解でいいんだよ」
ところが鏑木紫陽は違った。
彼女は『帰って私のやれることをやろう』で声をワントーン上げた。そして『家に帰ろうっ』を思いっきり大声で、叫ぶように発した。人差し指を舞台袖に向かって突き刺した。
何かに挑んでいるかに見えた。
「たった一言『家に帰ろう』というだけで全員が中村烈は『革命』を起こそうとしていることがわかった」
表現力。これが『表現力』なんだとタカハシは思った。
言いなりになんかならない。私は家に帰っても自分の信じることをやるんだ。これは私の宣戦布告なんだ。
「こんな子いるんだ」って。台本を1字1句変えず『表現力』だけで全く結末の意味を変えてしまった。
目一杯拍手しながら『負けた』と思った。俺は先生になって初めて『脚本読み』で生徒に負けた。
いい気分だった。
◇
それで。生きることにした。
自分の人生の脚本は変わらない。家族が死に絶えたことも。大学院に進めなかったことも。青春なんてなかったことも。恋人に裏切られ去られたことも何も変わらない。
でも。この子がいる限り。『脚本の意味は変えられる』と信じられる。
『これ以上は生きられません』
いいえ
『あの子がいるなら生きていきます』
「遅くなったけれど。カブラギ。あの時はありがとう。俺の命を救ってくれて」
◇
カブラギは静かに首を横に振った。そして涙をこぼした。タカハシの手をさらに握りしめ、自分の口元に運び口づけをした。
しばらく2人そのままだった。
「『オーディション』はね。思ったより俺を傷つけたようなんだ」
せっかくカブラギが恋人になってくれたのに、どうしても一線を越えることができなかった。
その度に『長野旅行日程表』が脳裏に浮かんだ。実際に机の引き出しから取り出して見た。
幻の旅行。
幻になった自分の新たな家族と未来。
『怖い』
そう思ってしまう。
『もう一度。人を愛するのが怖い』
「カブラギのせいなんかじゃないよ。カブラギはずーっと綺麗で、賢くて、魅力的な子だよ。抱きたくないわけないよ。一晩中でもカブラギを抱きしめていたい」
でももう。永遠なんてないと知ってしまったから。愛を得てそれを無くしたら今度こそ自分は中原中也みたいに正気を失ってしまうかもしれない。
======================
愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、
それより、他に方法がない。
======================
『こころ』のKが浮かぶ。ナイアガラの滝に消えたA子が浮かぶ。
どうしても最後のハードルを越えられず立ちすくんだ2ヶ月。
得なければ、失わないじゃないか。
「俺は何度もカブラギから引き返そうとした」
『先生と生徒』という関係に逃げ『人生設計』なんてわけのわからない理屈をつけ、『歳の差』を隠れ蓑にして『カブラギが俺をいつまでも好きなわけない』と自分に言い聞かせて。
俺はオジサンだし。IT社長でもないし。話も合わないだろうし。彼女高校時代を引きずっているだけだし。
「でもカブラギには勝てなかった。『鏑木紫陽』は革命家だった。彼女は俺をどんな時もあきらめないでいてくれた」
彼女。『オーディション』なんかしない。それだけはハッキリわかる。
それでようやく。過去を捨てることにした。
「こんな紙切れ1枚に3年も苦しんだよ。なんだかやり残した夏休みの宿題みたいなんだ。それで。その『宿題』を終えてしまえば前に進めると思った」
カブラギと呼びかけてタカハシが笑った。
「一緒に長野に行って『あのとき出来なかったプロポーズ』をさせてくれないかな」
カブラギはニンマリと笑った。そして指を真っ直ぐ上に伸ばし自分の左手の甲をタカハシに見せた。
薬指に『プロポーズリング』が光っていた。




