第39話 これ以上もう生きれません
夏目漱石『こころ』の重要なあらすじに触れている部分があります。未読の方はご注意ください。
「そう。俺は夏目漱石の『こころ』だったら『先生』ではなく」
2人の声がそろった。
「「友達に裏切られて失恋した『K』の方」」
◇
2019年4月29日。自身の誕生日。タカハシは家で夏目漱石の『こころ』を読んでいた。
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若き頃の『先生』は下宿先のお嬢さんを友達の『K』と同時期に好きになる。『K』からお嬢さんへの好意を聞かされるが『先生』は自分もお嬢さんが好きなことを『K』に告げなかった。そして先に自分とお嬢さんの縁談をまとめてしまう。
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本当はこの日旅行先で彼女にプロポーズをしているはずだった。
しかし現実。彼女が結婚式を挙げているのは他の男。自分は1人家に取り残されて天井を見ているのであった。
「『こころ』の結末は知っているね?」
「はい」
『先生』に裏切られ好きな人と婚約されてしまった『K』は自殺をする。
「ずっと。どうして『K』は自殺をしたのか考えていたよ」
『こころ』の中で『先生』の考えはたくさん出てくる。それなのに『K』が何を思ったかは1行も書かれていない。
何も語らず『K』は死ぬ。
友達に裏切られたのが辛いのか。
恋が破れたのが辛いのか。
上手くいかなかった周囲との関係が辛いのか。
「俺に関して言えばね。ただただ自分が情けなかった」
振り返れば彼女は怪しいところだらけだった。
『他に男がいる』という目で見れば全ての筋が通っていた。
それなのに何も気づかず、プロポーズの準備までしてしまった自分。
「ほんと恥ずかしいんだけど、こんなものまで準備しててね」とリュックから小さな箱を出した。箱を開けると指輪がでてきた。
「『プロポーズリング』っていうんだよ。婚約指輪はデザインに女性の好みがあるからね。先にこれを渡して、あとから婚約指輪を作ってダイヤモンドだけをプロポーズリングから抜いて婚約指輪にはめなおすんだよ」
ふふっ。
「長野の旅館の庭でひざまづいて彼女の指にはめようとしてた。全く笑っちゃうね」
◇
カブラギは黙って『プロポーズリング』を見つめた。それからおもむろに左手を差し出した。
「それ。ください」
タカハシが慌てた「ダメだよカブラギッ。お前に失礼だよ。指輪ならお前用に改めて買うから」
「いいからはめて」
タカハシはカブラギの有無を言わさぬ調子に気圧されて恐る恐る指輪をはめた。
カブラギは『とられまい』とするかのように左手を右手で隠した。
「話続けてください」
「いや。でも」
「続けてっ」
タカハシは仕方なく話を続けた。
◇
ナイアガラの滝から飛び降りて死んだA子の顔がチラつくようになった。
A子の遺体は見つからなかった。慰留品と状況から死んだことは間違いないと結論づけられた。
遺体がこの世のどこにもないからまるで消えてしまったかのよう。
もし、学校の先生を辞めて家を売り大量のお金を手にしたとしたら。
それで何年も世界各地を旅行してふとどこかで死んでしまえば。
親もなく。兄弟もなく。妻もなく。子供もない自分は消えるようにいなくなれるのではないか。
「『煙とも 雲ともならぬ身なりとも 草葉の露をそれとながめよ』藤原定子の歌だね。25才。出産が原因で死んだ時に詠んだ歌だ。つまり『辞世の句』だ。カブラギ。彼女はどうして『煙にも雲にもならない』と詠んだの?」
「火葬でなく土葬を希望したからです」
「そう。燃やされないから煙にも雲にもならない。だから草葉の露を私だと思って見てくださいねという歌だ。俺は滝を見るたびA子を思い出すよ。彼女のようにある日消えるようにいなくなるのもいいかもしれない」
カブラギはタカハシの手を右手でつかんだ。そして激しく『嫌だ嫌だ』と首を振った。
タカハシが黙ってカブラギの手を握り返した。
どうしてKが死んだのか。A子と一緒だ。
『これ以上もう生きれません』人はそれで死ぬ。
理由はいろいろあるけれど『これ以上もう生きられない』と思うから死ぬのだ。
「そんな俺の命を救ってくれた生徒がいてねぇ」
「ほっほんとですかっ。誰ですかっ」
「鏑木紫陽だよ」




