第17話 『スタンダールだって!?』
タカハシは右目をパチパチした。左目は常に髪の毛で隠れている。
「質問に……質問を返されたのは初めてだね」
「カンです! この中村烈はなぜか赤と黒が好きなんです!」
タカハシが左手で髪の毛をかきあげた。隠れている左目が見えた。考え込むときにする仕草だ。
「じゃあ……理由を次までに考えて来なさい」
「はいっ」
で、次の日。朝教室に入ってきたタカハシにカブラギは走り寄った。
「先生っ。なんで『赤と黒』が好きなのかわかりましたっ! 私が一昨日『赤と黒』を読んだからですっ」
…………スタンダールの『赤と黒』ですか。
◇
「あのときは面食らったよ」
焼き鳥屋でタカハシが笑った。
「だいたいね。あの質問に意味なんかないんだ」
「えっ。そうなんですか!?」
「そう。きっかけになる質問はなんでもいい。『青が好きなんです』『なぜなら空が好きだからです』『小さい時に外でばかり遊んで空をいっぱい見たからです』『お人形遊びよりドッチボールすることが好きだったからです』こんな感じで『人物像』が生徒の間で決まっていけばいいんだ。人物が理解できれば演技の仕方も決まるからね」
「あ〜。そういう意味があったんですか〜」
『禅問答』ではなかったのだ。
ちなみにタカハシはそういう『意図』を一切説明しなかった。コイツのそういうところが『得体が知れない』と言われてしまうのだ。説明しない男、タカハシ。
「それが鏑木紫陽って子は」クックックとタカハシは笑った。
『先生決めましたっ!! 中村烈の愛読書ですがスタンダールの『赤と黒』にしますっ!! 彼女は熱烈にジュリアン・ソレルを信仰してるんですっ!!』
どこまでも突飛なのだった。
◇
ジュリアン・ソレル。『赤と黒』の主人公だ。
貧しい家庭に生まれたジュリアン・ソレルは才能と美貌で女性を籠絡しのし上がっていこうとする。
タカハシは面食らったが、生徒の意向を極力尊重する教師でもあった。
『主役』が『自分の役は「赤と黒」を愛読書とする』と決めたわけだからそれを尊重した。
で。
奇妙なことが起きた。
カブラギとタカハシは台本を1ページも開かず『赤と黒』について話始めたのだ。
◇
もちろん演劇部で『赤と黒』の話をするわけにはいかなかった。部活以外の時間がそれに当てられた。
カブラギの演劇部は月水金が部活動の日なので火曜日と木曜日の放課後。タカハシとカブラギはひたすら教室の隅で『赤と黒』について話した。
『赤と黒』という作品が設立した背景、作者の人物像、登場人物の行動の理由とその結果について話した。
カブラギは『中村烈はジュリアン・ソレルのどこに惹かれたんだろう?』と考えた。
現状をあきらめずあらゆる手を使って出世しようとしたところではないか?
つまり中村烈はジュリアン・ソレルを『革命家』と思ったのではないか。自分の運命にあがらいつづける革命家。
そもそもジュリアン・ソレル自体の憧れが『革命家』ナポレオンなのだ。
カブラギはだんだん『中村烈こそが革命家である』という気持ちになってきた。『中村烈は家出をしたんじゃない。革命をしようとしたんだ』と。そう思って台本を読めば最初読んだ時に感じたセリフとは意味が違ってみえた。
日に日にカブラギの演技は変わった。魂がこもるようになった。カブラギにとって『中村烈』という少女の存在が大きくなった。生まれた時からの親友のような気がした。
買い物にいってお菓子を手に取れば『烈なら何が食べたいかなぁ』と思い、友達とカラオケに行けば『烈なら何を歌うだろう』と思った。
コンクール当日。
カブラギは烈を精一杯演じた。ふたつ結びの、メガネの、猫背のカブラギが。Fカップがハッキリわかる白のシャツに赤いスカート、腰に黒いリボンをつけて中村烈になった。
中村烈は胸を恥じて背を丸めたりなんかしない。
中村烈は図書館の隅で本ばかり読まない。
私は鏑木紫陽じゃない。中村烈だ!!
最後に舞台の隅を指して烈のセリフ
「家に帰ろうっ!!」を言った時割れんばかりの拍手が起きた。
カブラギは夢からさめたようになって茫然と客席を見た。カブラギの母親が泣いていた。舞台のそででタカハシが満面の笑みで拍手をしてくれた。
あれがカブラギを変えたのだ。大学生になって胸をババーンと出すようになったのは『私も中村烈のように堂々と生きたい』と思ったからだった。『中村烈のように「革命家」になってタカハシ先生を落とすんだ』
◇
「カブラギ。あの演技は本当に良かったよ」2杯目のビールを飲みながらタカハシが言ってくれた。「感動したよ」
コンクールで賞はとれなかった。
タカハシの最初の質問に「台本と関係ない話しないでください。役が何色好きだろうと興味ありません」と突っかかった生徒がいたのだ。
上演時その生徒は明らかに他の生徒より劣った演技をした。
なんの感情もこもらない、セリフだけが上滑りする演技だった。
審査員の「とにかく主役の子が素晴らしかった。面白い解釈をしていた。他の子が浮ついていたのが残念」という講評がそれを表していた。
カブラギは悔しくて泣いた。腹が立ったのはその生徒ではなく自分自身に対してだった。タカハシは主役のカブラギにいつもピッタリ寄り添っていた。そして「主役が全体を引っ張っていきなさい。主役は常に舞台全体をみなさい」と言い続けてくれたのだ。
タカハシは主役に高いリーダー性を要求した。カブラギはそれに応えられなかった。
あのコンクールはカブラギに演技をする楽しさとリーダーとしての難しさを教えてくれた。




