第13話 取り返しのつかない失敗
「え?」一瞬怪訝な顔をしたタカハシが笑った。『いやいやいや』という感じでカブラギの前で右手を振った。
「大学院? 俺みたいな落第生はとてもとても……大学だってやっとこさ卒業できた感じなのに」
「首席だそうですね」
タカハシが黙った。
「ゼミの先生が吉本清明先生です」
「あ……吉本先生……」
タカハシが懐かしそうになった。「俺の時は卒論を担当してくださったよ。お元気なの?」
「今年退官です」
「そう……ご無沙汰しちゃってるなぁ。挨拶に行かないと」というと手元のビール缶を何かを確かめるように振った。もう何も入ってないらしく無音だった。
「吉本先生おっしゃってました『高橋是也の教え子か。カブラギくん。期待してるよ。なにせ彼ほど優秀な学生はいなかった』」
タカハシは足元を黙って見ている。
「『あんなに才能に恵まれてあんなに努力できる人間はいない。彼にだけは大学に残ってもらいたかった。何度も尋ねたが首を縦に振らず院には進んでもらえなかった。もったいない。本当にもったいない』って」
花火がいくつも上がるのにタカハシは顔を上げず無表情を崩さなかった。靴の汚れを手で払う。
「先生の卒論。完璧だったそうですね。全くの新説を出してきたと聞きました。書式を整えれば学会にも出せるレベルだったと吉本先生おっしゃってました。そこまでできる人だったのにどうして」
グシャッ!! とタカハシが両手でビールの缶を潰した。ドキッとする。
「……………………『そんなこと聞いてどうするの?』と言ってもカブラギは納得しないんだろうね?」
「あっ」と言ったっきりで次の言葉が出てこなかった。何かわからないがタカハシの逆鱗に触れたことには気づいた。
タカハシに右手をつかまれた。こちらを向いたタカハシの硬い顔をみて自分のおしゃべりを悔やんだが遅かった。
「16の時に父親が癌で死んだんだ。詳しく聞きたい?」
「いっいいえっ」
「18で母親がやはり癌で死んだ。大学の合格発表を伝えるために病室にいったらもう死んでた。他に家族もいない。入学したときはすでに孤児だ」
「……………………」
カブラギは絶句した。あまりのことに頭が混乱して後ずさった。カブラギの右手をつかむタカハシの右手に力がこもるが振り払うこともできなかった。
「家庭教師をいくつも掛け持ちして、空いてる時間は全て勉強してようやく大学を卒業したよ。孤児に大学院に進める余裕なんてあると思うのか!?」
カブラギは首を横にブンブン振った。「ごめんなさい…………」小さな声で謝るしかなかった。
「本当にごめんなさい」
カブラギはタカハシを傷つけたのだ。タカハシはこんな風に人を追い詰める人ではない。
カブラギの純粋で、まっすぐで、残酷な若さがタカハシをこんなに怒らせてしまったのだ。
「カブラギ。高校3年間を親の付き添いでほとんど病院で過ごして…………それから約20年孤児として生きてきた人間の見る景色ってどんなものかわかる?」
ギュウウウッと右手首をしめられた。痛いくらいだ。
「片目で見ないといられないくらいの景色なんだよ」
カブラギの目から涙があふれた。タカハシの肩越しに花火が次々と見えるがもはや単なる光だった。闇を切り裂く火のかけらがカブラギの目に無意味に映った。
「ごめんなさい…………本当にごめんなさい……」
大粒の涙がぽろぽろ落ちてグリーンのスカートに染みを作るのにタカハシが驚き、手を離した。
「あっカブラギごめん」
カブラギは声を上げて泣き始めた。
「せんせい、すびばせーーーん!!!」
ワアワアと泣くカブラギにタカハシは焦るが、もうどうにもできないのであった。3歳児のようにカブラギは手放しで泣いた。
「余計なこと言ってごめんなさーーーい!!!」
花火に足を止めていた自転車の人が驚いてこちらを見たのがわかった。
タカハシの背中で花火はクライマックスを迎えようとしていた。巨大なシダレヤナギが次々と空に打たれて闇の中に大きなスダレを作った。
「いいからっ。もういいからっカブラギッ」
「よくなーーーい!!!!」
タカハシがポケットからハンカチを出してカブラギのまぶたに当てたのがわかった。
『白い無地のハンカチだ』と無意識に思った。
「そんな優しくしないでくださーーーいっ!!!!」
闇雲にハンカチを退けようとしたその瞬間唇をタカハシの唇でふさがれた。
驚きのあまり涙が引っ込む。思わず目をギュウッとつぶってしまった。
ハンカチを持ったタカハシの右手がカブラギの背中に当てられていた。左手がカブラギの頬を包むように添えられた。
少しづつ位置を変えタカハシの唇がカブラギの唇に触れていくのがわかった。わずかに離れてはまた重なる。
そのまま花火が最後の一発を終えるまでキスした。
ようやく唇を離したタカハシがカブラギを抱きしめた。耳元でささやかれた。
「あんまり人の秘密を聞くと…………自分の体に毒が回るよ?」
ハッしたがタカハシはやおら立ち上がり、放り出されたカブラギのビール缶を拾うと一度も振り向かずスタスタと土手を降りてしまった。
「あっ。空き缶は私がっ」カブラギの声に「ビールごちそうさま」と一言いって消えた。
あとは闇夜とカブラギだけが残された。
◇
家に帰ってカブラギ大パニックである。
キスされた!? キスされた!? えっ。私タカハシ先生にキスされた!?
キスされたのである。タカハシの少し硬くて張りのある唇の感触をまざまざと思い出せた。指を4本唇に添えてしまう。
ええっ。えええ!? でもなんで!?
何でだ!? 直前まであんなにタカハシを怒らせていたではないか。
泣いているのをおさめようとして?
『これ以上立ち入ってくるな。どんな目にあっても知らないぞ』という警告?
怒らせた『お代』に?
私のことが好きだから?
何? どれ? 真実はどこ!?
タカハシにLINEで聞こうとしたが、あんなに怒った姿を見たことなかっただけに気が引けた。それに『そんなこと聞いてどうするの?』といいそうな気がする。ああ。タカハシなら言いそう。
カブラギはすごすご引き下がるしかない。『そんなこと聞いてどうするの』の威力よ。
さらにカブラギは思い出した。
明日バイト初日じゃん!!
大学が夏季休暇になったら夏休み中目一杯働きますと店長さんに約束したわけじゃん。
そのバイトというのが〜。
バイトというのが〜。
どうしよう!!!!




