そして、あなたは笑った
8歳の誕生日。私がお父様から与えられたのは、ぬいぐるみでもリボンでも宝石でもなく、同じ年頃の美少年だった。驚きである。癖のない銀髪に、透き通るような蒼い瞳。その肌は雪のように真っ白で、男の子だけれど私と背が変わらず、華奢な印象を受ける。右眼のすぐ下には二連の泣き黒子があり、神秘的だ。茶髪で赤茶色の瞳、着飾ってやっと可愛らしく見えなくもない平凡な顔立ちをした私とは、まるで住む世界が違ってみえた。
思わず目の前の芸術品のような少年に見惚れていると、無粋な男の声が聞こえて我に返る。あまりの美しさに思考が吹っ飛びそうだったが、この現状には疑問しかない。私は大きく息を吸って、不思議そうにしているお父様に詰め寄った。
「エレノア?」
「お父様!人攫いは犯罪ですわ!」
「な!?人攫いなんぞしておらん!!」
「まあ!では、買ってきたとでも仰るの!?最低ですわ!」
「我が国で人身売買は禁止されている!私は清廉潔白だ!!」
怪しい。怪しいことこの上ない。こんな国宝級の美少年を連れて来た時点でお父様はおかしさ満点である。しかし、必死になって弁明するお父様の言葉を信じるならば、この美しすぎる少年は攫ってきたわけでもなければ買ってきたわけでもないらしい。となると、答えは一つしかない。まさか、まさかとは思っていたが。
「では、お父様の隠し子ですのね……。とても私と血が繋がっているようには見えませんけれど、きっと母方の血が濃く出たのでしょう」
お父様はお母様一筋だと思っていたのに。しょんぼりと肩を落として小さく声を出す。溜息混じりの私の反応に、一拍置いてお父様が目を丸くさせた。
「違うわ!私はアメリア一筋だ!!」
「では、この子は一体誰だと言うのです!私の誕生日にいきなり連れてきてプレゼントだと言われても困惑しますわ!」
「友人の息子だ!訳あって預かってきた!プレゼントと言ったのは、私のチャーミングな冗談だ!」
「チャーミングな冗談とは何ですか!意味がわかりません!第一、ご友人のご子息様を私のプレゼント扱いするなんて失礼ではありませんか!」
「そんなことを気にする奴ではない!だいたい感謝されこそすれ、非難される筋合いはないぞ。彼奴の代わりに保護してやるのだからな!」
「ほご?」
「……ほら、この子を見てみろ。何の反応もしないだろう?」
急に話の流れが変わって、私は首を傾げた。ひとまずお父様の隠し子でないことがわかって、胸をなで下ろし、言われるがままに視線をお父様の横の少年に移す。確かに、これだけ二人で騒いでいたにも関わらず、彼は眉一つ動かさなかった。今も、どこを見ているのかわからない虚ろな瞳をしている。とても普通の状態には見えない。最初は、彼の風貌のせいでこの世の者ではないように感じたのかと思ったが、どうやらそれだけが原因ではないようだ。
「少し、事情があってな。目は見えているし、耳も聞こえているんだが、反応できないみたいなんだ。表情が全く変わらない上に話すこともできない」
なんと、それではまるで人形である。
「環境が変われば少しは良くなるのではないかという話になってな。しばらくの間、我がクラート伯爵家で預かることになった」
「療養ということですか?」
「まあ、そういうことだ。世話をするのは使用人だが、お前も気にかけてやってくれ」
なるほど、確かにクラート伯爵家の領地は自然豊かで長閑な土地である。療養するには悪くない環境だ。他にも療養先に適した場所はあるのではとも思ったが、きっと伝手がなかったのだろう。こんな様子の、それもこんな美形の少年を預けるなど、余程の信頼がなければ難しい。
「わかりましたわ。では、お父様。この子のお名前は何と言いますの?」
「ああ、いや、その」
「お父様?まさかご存知ないなんて仰いませんよね?」
「そんなことはない!そんなことはないのだが…………。私の口から言うのもおかしな話だろう?本人に直接聞いてくれ」
「でも、お父様。彼、喋れないのでしょう?」
胡散臭いお父様をじっと見るが、意地でも口は割らないようだ。名前なんて大した問題ではないとまで言う。伯爵ともあろう者が何を言っているのか。貴族であれば殊更、名前は重要なものであるのに。
「仕方ありませんわね。これじゃ、いつまで経っても話が進みませんもの」
私は姿勢を正し、淑女らしく礼をした。
「はじめまして。私、クラート伯爵家の長女、エレノアと申します。あなたのお名前をお聞きしても?」
「………………」
たっぷり一分は待ったが、やはり彼からの返答はない。それどころか反応もない。お父様は心配そうに私の様子を窺っている。私は気にせずに、もう一度声をかけた。
「ねえ、あなた。お人形さんみたいなあなた。私たち、これから一緒に過ごすのに名前がないのは不便だわ」
「……………………」
「だから、私があなたに名前をあげる。あなたがそうしてお人形さんのようにしているのなら、今日からあなたは私のお人形さんよ」
無言のまま、視線すら合わない少年に向かって微笑んだ。
「嫌になったらいつでも言って。そして、あなたの本当の名前を私に教えてちょうだい。その時、あなたは人形から人間になるのよ」
それから、私は少年をステラと名付けた。空に輝く星のように、美しくて遠い存在だから。お父様には女の子の名前だと指摘されたが、あくまでもこれは仮の名前なのだ。どうせなら可愛い方がいい。そもそも、嫌なら私に名乗ればいいのだと言って納得させた。しかし、名付けられた当の本人は、まるで気にしていないどころか、話を理解しているのかも不明だった。
ステラは自分から何も行動しようとしなかった。おそらく、ステラには生きようという意思がないのだろう。初日はそっとしておこうと屋敷の使用人に世話を任せて自分は陰から見守るスタンスでいたら、あまりの動かなさに愕然とした。唯一彼が自発的にしていたことと言えば、呼吸くらいだろうか。手を引かなければ歩かないし、食事を用意しても手を付けない。着替えや入浴の手伝いなどは使用人に任せたが、料理は私が食べさせた。一口掬って口元に持っていくと、なんとか食べてくれるのだ。私は自分の食事もそこそこに、ステラに食べさせることを優先した。
夜、眠る時も困ったことになった。ステラは寝ようとしなかったのだ。寝間着に着替えさせ、横にさせてもぼんやりと虚空を見つめている。こんな様子ではとてもじゃないが放っておけない。私は彼を自分の部屋に引きとり、同じベッドで眠ることにした。隣に人の体温がある方が安心できるだろうと思ったからだ。無論、お父様や使用人から反対はされたが、ステラは私のお人形なのだし、私も彼も子どもだから問題ないと説得した。自分が連れてきたくせに、お父様はなかなか納得せず面倒だった。
一緒に寝て、起きて、食事をして、お散歩して、お勉強して、遊んで、過ごした。ステラが私を認識しているかも構わずに、どんな時も私は彼を連れ回した。そうして半年が過ぎる頃には、ステラは自分で食事をするようになった。快挙だ。屋敷の人間一同、感動の涙を流した。それから間もなく、彼と視線が合うようになった。彼の顔を見つめれば目が合い、遠くの方に視線をやれば追って彼も同じ方を見た。ステラが少しずつ人間味を取り戻しているのか、それともずっと観察していたから気づけることが増えたのか。日常の中で少しずつ出てきた些細な変化に、私は胸が躍った。
出逢ってから一年が経った日、私は久々に彼に問いかけた。
「ねえ、あなた。あなたのお名前は何と言うの?」
ステラは答えてくれなかった。
「まだ、あなたはお人形さんのままなのね。それなら、仕方ないわ。私のステラ、あなたにプレゼントがあるのよ」
「…………?」
「今日は私の誕生日だけれど、あなたと会った日でもあるわ。つまり、ステラの誕生日でもあるの」
ステラのプレゼントに選んだのは、瞳の色と同じ蒼いリボンだった。前髪は定期的に切り揃えさせているけれど、なんとなく後ろ髪は伸びたままにしていたから、気になっていたのだ。私はステラの髪を梳いて、蒼色のリボンで一つに結わえた。伸びたとは言っても、結ぶと毛束は短い。
「伸びてきて邪魔でしょうから使うといいわ。もちろん、髪を切るのも切らないのもあなたの自由よ」
「………………」
ステラは答えなかったけれど、何度も首の後ろに手をやっていて、落ち着かない様子だった。
10歳の誕生日がやってきた。ステラと出逢ってから二年が経つ。最近のステラは、以前よりも自分から行動することが増えた。とはいっても、娯楽に興じるようになったわけではない。たとえば、天気が良い日には、ステラの方から散歩に誘ってくるようになったとか、そんな感じだ。相変わらず無表情のまま何も話さないけれど、そっと手を取って私を外へ連れ出そうとする。私がステラにしていたことを、今度はステラの方からしてくれていると思うと、嬉しくなった。
「ねえ、ステラ。嫌になったらいつでも言うのよ。あなたはいつだって、私のお人形さんを止められるの」
蒼いリボンで銀の美しい髪を束ねた彼にそう言うが、彼は何も答えなかった。
11歳になった。さすがにステラと同じベッドで寝ることを止められた。確かにもう私が隣にいなくても、ステラは睡眠を取れる状態にはなっていた。私は周りの言うことを受け入れ、ステラに一人で眠るよう告げた。すると、意外にもステラが反応を示した。離れようとする私の袖を摑んだのだ。驚きのあまり、私はまじまじと彼の顔を見つめた。目鼻立ちの整った美しい顔には、やはり寂しいとも悲しいとも表れていなかったが、袖を摑んだ彼の手が代わりに彼の気持ちを物語っているように感じた。私は一度袖から彼の手を放し、自室に戻る。そして急いであるものを持って戻ってきた。
「ステラ。あなたを一人にするのは心配だから、アンナを付けてあげるわ」
アンナとは、私のぬいぐるみのことである。焦げ茶色の良い毛並みをした小熊のぬいぐるみ。私のお人形さん歴はアンナが最長で、ステラにも先輩として紹介したことがある。当然のことながら冗談のつもりではあったけれど、ステラは何も反応しなかったから、そのままステラの先輩としてアンナを扱っている。止め時がわからないのだ。まあ、いい。これもステラが私のお人形を止めて人間に戻るまでなのだから。
「ね、大丈夫よ。何もこわいことはないわ。だって、あなたは私のお人形さんだもの。私がステラを守ってあげる」
「……………………」
「あなたが私に名前を教えてくれるその日まで」
アンナをその胸に抱いたステラは、やはり私に名乗ることはしなかった。
彼の言葉はまだ戻らない。
12歳になると、王宮からお茶会の知らせが届いた。何でも、第二王子の婚約者探しのためのお茶会だそうだ。
我が国の王には二人の妃がいて、第二王子は正妃の子だった。側妃から生まれた影の薄い第一王子とは異なり、第二王子は容姿端麗、文武両道として知られている。後ろ盾もばっちりで、いずれは王太子になるだろうと目されている。
そんな王子様の婚約者など、まるで興味も湧かなかったが、伯爵家の令嬢として参加しないわけにはいかなかった。王都に行くことになるため、しばらくステラと離れることになる。それが少し心配だったが、彼の調子は最近また良くなってきているから大丈夫だろうと思う。最初の頃は隣に座っていただけだった勉強の時間も、近頃はステラの方が真剣に取り組んでいるくらいだから。しかも、私が淑女教育を受けている間は、剣術の授業を受けるようにまでなった。これはまた驚くべき進歩で、ステラの方からおねだりしてきたのである。声にしてではなく、紙に書いての要望だったが、側でずっと見てきた使用人は泣いていた。私も泣いた。
最初に出逢った頃より、ステラはずっと人間らしくなった。表情などなくとも、声がなくとも、生きようとする意思が感じられるだけで、人間らしさを生み出していた。そして、さらに予想外のところで驚くべきことが起きた。
「ねえ、ステラ。私、第二王子殿下のお茶会に呼ばれていてね。少しの間王都に行かなければならないの」
何気なく告げたその言葉で、四年経ってもぴくりともしなかったステラの顔が変わったのだ。驚きに目を見開き、顔の色は真っ青で、次いで苦しそうに顔を歪めた。
「ステラ!?」
「……………………」
ステラの口から言葉は出なかった。けれども、その表情の変化だけで、私の心は大きく揺さぶられた。まさか、初めて見る彼の表情がこんなに辛そうなものだなんて。そもそもステラは王都から療養のために我が領地へ来たのだ。王都にはあまりいい思い出がないのだということは、少し考えればわかる。考え無しに王都の話題を出してしまったことが申し訳なくて、私はステラに謝った。しかし、ステラの顔色は変わることはない。
「ステラ。ごめんなさい。あなたを驚かせてしまったわ。王都に行くのは私だけで、あなたはこのまま領地にいていいの」
彼の背中に手を回し、抱きしめながら宥める。
「お茶会に参加したら、すぐ戻ってくるわ。私、王子殿下の婚約者なんて興味ないもの」
「……………………」
「大丈夫だから、私を待っていてちょうだい。ああ、でも勿論、嫌になったら止めていいのだけれど」
身体を離してステラの顔を正面から見る。ステラはじっと私の顔を見つめ返し、口を開いた。けれど、結局それは声にはならず、吐息が零れるだけだった。代わりに、彼は紙に美麗な字で言葉を綴った。
『僕も王都についていく』
ステラは私を抱きしめた。私は目を瞬くだけだった。
13歳になった。あれから、私とステラは領地に戻ることなく、王都で過ごしている。というのも、何故か私が第二王子に関心を持たれてしまったからである。全くアピールなどしなかったにも関わらず、毎度王宮から茶会の招待状が届くようになってしまったのだ。とはいえ、婚約者に認定されたわけではなく、婚約者候補の第一関門を突破したというところか。それでも定期的に届く招待状に、領地へ帰るわけにもいかなくなった私は、王都の屋敷に留まることとなった。
王都での滞在が長期化することを受けて、私はステラを領地へ帰そうとした。けれども、彼は首を横に振って私の手を取り、王都に残ることを選んだ。それをステラのために良くないと思いながらも、私は喜びを感じてしまった。いつも側にいたステラと離れるのが、寂しかったから。
ステラは、私にはわからない不安を抱えているようだ。王都に来てからというもの、彼の調子は悪くなる一方だった。きっと、表情を無くし声を失った原因が関係しているのだと思う。王都にあるクラート伯爵家の屋敷で一日中過ごし、敷地から一歩も出ようとしない。私が王宮へ呼ばれる時は、いつも心配そうに顔を窺ってくる。そう、最近では、ステラの顔に表情が浮かぶようになっていた。それだけは、王都に来てから良くなった点と言えるだろうか。全て負の表情なのだけれど。
「ねえ、あなた。あなたのお名前を、私に教えてくれないかしら」
ステラ。私のお人形さん。私は、あなたの不安を取り除きたいの。そのためにも、あなたのことが知りたいの。
けれど、彼は答えてくれることはなく、ただ目を伏せるだけだった。
14歳の誕生日を迎えた。このぐらいの年齢になると、婚約に関する話題が周囲で増えてくる。第二王子の婚約者は侯爵家のご令嬢に内定したようだから、私もいよいよ婚約者探しをしなくてはならないだろう。
自分の未来について考えた時、一番に思ったのは、ステラに側にいてほしいということだった。いつか、きっとそう遠くないうちにステラは人形を止めて人間に戻るだろう。その時に、離れ離れになることなく、一緒にいたいと思った。この想いが、家族愛なのか恋愛感情なのかはわからない。ただ、ステラの隣に私以外の女の人がいるのは、想像するだけでも嫌だった。
ステラが我が家へやって来てから早六年。彼を訪ねてきた人はいないし、お父様も話題に出さない。誰もステラを迎えに来ないのならば、ステラが帰りたいと思わないのであれば、このままずっと私の隣にいればいい。そう思った。ステラはお父様の友人の息子だと言っていたから、きっと貴族ではあるだろう。身分的には問題はないはずだ。まずはお父様に打診して、それからステラに話をしようと決めた。
その日、普段は領地にいることが多いお父様がいらっしゃって、私のお祝いをしてくれた。そして、お父様と二人になるタイミングを待っていた私は、思わぬところでステラのことを知ってしまった。珍しいことにお父様に来客があって、その方とのお話を聞いてしまったのである。
『そろそろウィリアム殿下に戻ってきていただきたい』
『……まだ、殿下は声を取り戻されておらん』
『だが、既に自我は取り戻されていると聞いている。勉学も剣術も進んで習い、なかなかに優秀だそうじゃないか』
殿下?殿下とは、一体誰のこと?
『陛下もウィリアム殿下の帰還を待ちかねていらっしゃる。亡くなられたエレーナ側妃に瓜二つであられたから、今はとてつもなく美しい青年になっておられるだろう』
『陛下は殿下の心の安寧を強く望んでいらっしゃった。王宮への帰還を望んでいるとは思えない』
陛下?王宮?お父様は何のお話をされているの?
『そう言って、クラート伯爵家がウィリアム殿下を囲うつもりではあるまいか』
『まさか』
『貴殿の娘、確かエレノア嬢と言ったか?殿下のことを、まるで人形のように扱っているそうじゃないか。不敬にも女性名まで付けて』
『エレノアは殿下の正体を知らない!それに、友人として親しく接しているまでだ!』
『親しく?ああ、そうかもしれないな。療養に来ていた殿下を、自分と一緒にわざわざ王都へ連れてくるくらいだからな』
『何が言いたい?』
『いえ、別に。ただ、これだけは申し上げておこう。ウィリアム殿下には隣国の第一王女と結婚していただくことになっている。貴殿の娘の出る幕はない』
頭が真っ白になった。それは、ステラが実は第一王子のウィリアム殿下だったと知ったからか。それとも、隣国の王女との結婚が決まっていると聞いてしまったからか。少なくとも、ステラの正体を知ってしまった今、お父様に婚約の打診などできるわけがなかった。ステラは、私なんかとは住む世界が違う人間だったのだ。
ああ、私は何を勘違いしていたんだろう。ステラが私と違うことなんて、最初からわかっていたはずなのに。
その後、顔色を悪くした私を見つけたステラはひどく心配してくれたが、理由を説明することなく自室に閉じこもった。
知りたくなかった。知るのなら、ステラの口から聞きたかった。けれど、もはやステラに聞くことなどできるわけがなかった。だって、聞いてステラが答えてしまったら、全てが終わってしまう。人形を止め、人になった彼は、私の世界から消えてしまうのだ。
その日から私は、ステラに名前を問うことができなくなってしまった。なんて私は愚かなんだろう。
15歳、私とステラの仮初めの日々が、とうとう終わりを迎えた。別れは思いのほか唐突で、衝撃的だった。ステラが襲われたのである。
身体が動いたのは無意識だった。私よりもステラの方が何倍も運動神経が良いのに、不思議なことにその時ばかりは私の方が早く動けた。刺客がステラをナイフで突き刺そうとしたその瞬間に、私は身体を滑り込ませたのだ。疑問も恐怖も躊躇いも、私にはなかった。ただ、ステラを守りたかった。
「エレノア!!!」
七年目にして初めて聞いた彼の声は、非常に切羽詰まったものだった。どうせならもっと穏やかな声で名前を呼ばれたかったなんて、ナイフが腹部に刺さった状態で場違いなことを考えながら、私は意識を手放した。
深い眠りの中で、縋るように私の名を呼ぶ声が聞こえた。朧気な意識なのに、不思議と私はその声がステラのものだと確信していた。
ねえ、ステラ。大丈夫よ。私はここにいるわ。
そう言って安心させたいのに、瞼は重く口も動いてくれない。
「エレノア…………。ごめん」
そうして、その言葉を最後に、私の名を呼ぶ声は聞こえなくなった。
後から聞いた話によると、臥せっていた私に、ステラはずっと付き添っていてくれたらしい。私はすぐに手当てをされたし、傷口が急所から外れていたこともあり、命に別状はなかった。
犯人は、第二王子を王太子にと望む一派の人間だった。刺客に忍び込まれたなんてどれほど警備が甘かったのかと思ったが、実は元からいた使用人が刺客であった。ステラがクラート伯爵家にやってきた時に、監視役として紛れ込んでいたらしい。何ということだ。ちなみに、私が第二王子殿下のお茶会に度々呼ばれていたのも、私を第二王子派に懐柔する目論見があったからだと聞いて驚いた。靡かないと知って、その作戦は無しになったそうだが。
犯行の動機は、かつて無力化したはずの第一王子が王都に舞い戻り、しかも失った自我を取り戻したからだという。第一王子がこの上ない美貌を持ち、才能にも恵まれていると知られると、第二王子の立太子が厳しくなると考えたらしい。そして、私はステラが表情も声も生きる意思さえも無くした理由を知った。ステラが狙われるのはこれが初めてではなかったのだ。
ステラ、第一王子の母親である側妃は、王の寵愛を受けていた。その子であり、最初に生まれた男児でもあった第一王子は、それはそれは王から可愛がられていたそうだ。それが気に食わない立場の者がいた。正妃の実家の者達である。正妃は子を身籠もるのが遅かった。そして、政略結婚であったがために、王からの愛が彼女には与えられなかった。正妃の実家は、王が側妃の子を王太子にするつもりなのではないかと恐れた。それでは自分たちの権威を振るえない。そう考えた彼らは、邪魔な二人を消すことに決めた。そうして選んだ手段は、とても残酷なものであった。
王族は毒に強い。そこで彼らは、側妃の食事に強い幻覚作用をもたらす薬を混ぜ、第一王子を襲わせた。首を絞められた幼い第一王子は、苦しさから逃れようと藻掻き、結果、何故かその場に落ちていた剣で母親を切ってしまったのである。
側妃はそのまま事切れた。残された第一王子もまた、心に深い傷を負った。狂った母親に殺されそうになり、逃れるためとはいえ自分の手で母親を殺してしまったと、幼いながらに彼は絶望した。そうして、その罪悪感から逃れるように、自我を捨て表情を捨て声を捨てた。彼は、人形になった。
そんな彼が我が家に来たのは、人形のようになった息子を見かねた王が、どういうわけか親交の深かったお父様へ保護を依頼したからだという。
事件後、私の目が醒めた時には、既にステラの姿はなかった。私の人形は、知らぬ間に人間になっていたらしい。最後まで私に名乗ることはしなかったが、声を取り戻し自分の意思で出て行った彼を、探し出して引き止める理由など持ち合わせていなかった。
私の心に、ぽかりと大きな穴が空いた。陳腐な表現だけれど、それが一番しっくりくる。きっと私は、彼に恋をしていたのだろう。
16歳の誕生日。ステラが消えたあの日から一年が経った。私は今、彼がどこで何をしているのかを知らない。お父様は何も言わなかったし、私も聞こうとは思わなかった。
「……ステラの薄情者」
私の誕生日は、ステラと初めて出逢った日。毎年一緒にお祝いして、共に過ごした。ステラが自我を取り戻してからは、ささやかながら彼からもプレゼントを貰っていた。それが花でもリボンでも、私はとても嬉しかった。ステラの気持ちが嬉しかったのだ。けれど、彼はもういない。
彼が使っていた部屋の中で一人、かつて彼に預けたぬいぐるみを見つめて、私は独りごちた。
「ねぇ、アンナ。ステラったら酷いわよね。あれから全く連絡がこないわ。別れの言葉もなかったのよ?」
「…………ごめん。まさかこんなにも時間がかかるとは思っていなくて」
「え?」
「でも、アンナさんには報告してから出て行ったよ?ちゃんと聞いてくれてなかったのかな」
誰の答えも求めていなかったのに、不意に人の声が聞こえて目を丸くする。顔を上げると、そこには銀の長い髪を蒼いリボンで一つに束ねた美しい青年が立っていた。蒼い瞳に、右眼側の二連の泣き黒子が印象的で、身体は細身でありながらも程よく筋肉がついているようで貧弱には見えない。背は、私よりも頭一つ分高いくらいだろうか。思わず芸術品のような美青年に見惚れていると、無粋な男の声がして我に返った。
「エレノア?」
「ステラ!!!」
「うん、なあに?エレノア」
名を呼ぶと、目の前の美青年は当然のことのように返事をした。あまりにも堂々とした登場に、私の混乱は増すばかりだ。
「ステラ、どうしてここに…………じゃないわ!ウィリアム殿下!失礼いたしました」
「……その名で呼ばないでほしいな。僕は、エレノアに名乗っていないんだから」
「でも、あなたは」
「それに、第一王子のウィリアムは死んだ」
「は?」
「死んだことにしてきた。この一年かけて」
「どういう、こと?」
「そのままの意味だよ。エレノアに正体を隠せなくなったし、さすがにあんな事件まで起きたんじゃ危険が多すぎる」
王位継承権を放棄して臣籍降下するのでも良かったけれど、隣国の王女との結婚までセッティングされていたから、いっそ死んだことにしてきたと。あっけらかんと言われた私は、開いた口が塞がらない。人って生きているのに死ねるのか。馬鹿みたいな問いが脳裏に浮かんだ。
ちなみに、正妃も第二王子もあの事件とは無関係だったらしく、むしろ不穏分子を排除したことに感謝されたそうだ。
「本当はもっと早く行動を起こすべきだったんだろうね。エレノアに甘えすぎた。そのせいで、何よりも大事な君に怪我を負わせてしまった」
「そんな、私は平気よ。私が勝手に飛び出したんだもの」
「それでも、僕のせいでエレノアが巻き込まれたのは事実だ」
「でも、」
「…………あの時、動かないエレノアを見て、心臓が止まるかと思った。僕は、エレノアがいないと生きてはいけない」
蒼い瞳が真っ直ぐに私を捉える。
「ごめん。エレノア」
震える声で彼は話す。それは、かつて人形だった彼が内にためていた懺悔だった。
怪我を負わせてごめん。
護れなくてごめん。
何も言わずにいなくなってごめん。
たくさんのものを与えてくれたのに、何も返せなくてごめん。
本当はずっと前から話せたのに、黙っていてごめん。
素性を隠していてごめん。
そんな彼の言葉に、私は首を横に振った。ステラが私に謝る必要などないのだ。確かに黙って行方を眩ませたのは不満だったけれど、こうして会いに来てくれたのだから問題ない。
私はステラの手を取ると、両手で包み込んだ。
「そんなに気に病まないで。私は単純だから、あなたがこうして会いに来てくれただけで嬉しいのよ」
「エレノア…………」
ステラはぐっと唇を噛むと、やがて意を決したように口を開いた。あまりにも真っ直ぐに見つめられているから、息が止まりそうだ。
「エレノアに、話があるんだ。身勝手な願いだってわかってる。それでも、諦められないんだ」
「…………?」
「エレノア・クラート伯爵令嬢。どうか、僕と結婚していただけませんか?」
何を言われたのか、すぐにはわからなかった。瞠目した私はステラの手から両手を放し、彼の言葉を反芻する。
結婚、私が、ステラと?
驚きで言葉がすぐ出てこない。反応しない私に、彼は慌てて言い募る。
「ウィリアムは死んだことにしたから、今の僕はただのステラだ。一応、君との身分を揃えるために、一代限りの伯爵位は陛下からいただいている。クラート伯爵は、エレノアが頷いてくれるなら、婿入りして構わないそうだ」
「…………」
「君に選んでもらえるように努力する。君に相応しい男になる。もう二度と怪我なんてさせないし、悲しませることもしない」
「……ステラ」
「君は、僕のことを男として見ていないかもしれない。それでも構わない。ただ、僕が人として、君の側にいることを許してほしい」
「ステラ」
「エレノアを、愛してる」
「ステラ!!!」
私は勢いよくステラに抱きついた。突然のことに、彼は戸惑いの声を上げる。
「エレノア……?」
「ステラ、ステラ」
「?」
「私も好きよ。あなたが好きよ」
「…………!」
ステラの背に腕を回したまま、私は彼の顔を見上げた。驚きに固まっている彼は、昔に比べてとても表情がわかりやすくなった。私のステラは、人形ではなくなったのだ。
それでも、ステラは私の隣にいたいと言ってくれた。それがどれだけ嬉しいことなのか、きっと彼はわかっていない。
「あなただけが特別なの。側にいたいの。私も、ステラを愛しているわ」
「エレノア……!」
ステラの腕が私の背に回り、きつく抱き締められる。伝わるぬくもりに、私はそっと目を閉じた。
「ねえ、あなた。あなたの名前は何と言うの?」
結婚式の日。花嫁衣装に身を包んだ私は、目の前の青年に問いかけた。
「僕の名前はステラ。君に恋をして人になった人形で、君の夫だよ」
彼は、私の手を取って答えた。そして、その美しい顔をくしゃくしゃにして笑った。