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終章 本番直前に……

 安っぽい目覚まし時計の音に目を覚ますと、松脇アナウンサーは目をしょぼつかせ、普段はディレクターやプロデューサーたちの寝床になっている六畳ほどの仮眠室を出た。

 ――まさか、旧館のスタジオでやることになるとはなあ。

 特別放送を目前に、松脇アナウンサーの足取りは重かった。千代田区の田村町にあるラジオ東京の本社は開局当時の局舎へ建て増しを繰り返しているので、慣れた人間でも迷うようなラビリンスがそこかしこにあふれている。

 その迷宮のどん詰まりにある、普段あまり使われていることのない一〇一スタジオへ入ると、先に入っていたディレクターや放送作家、山根プロデューサー、そして、先ごろ復帰したばかりの上村が支度をしている横をかすめ、松脇アナウンサーは六畳ほどの金魚鉢のようなアナウンスブースの椅子へ腰を下ろした。時刻が午前七時三十二分、本番まであと一時間半ほどである。

 ――やっぱり、いつものスタジオでないと、調子がでないなあ。

 「放送特別機動週間」のラストを飾る、午前九時から午後九時までの十二時間生放送。その特別放送で使う予定だったスタジオが、電気工事の都合で、慣れた新館の五〇七スタジオではなく、旧館の一番奥、窓のないかび臭い香り漂う一〇一スタジオとなれば、いくら生真面目な松脇アナウンサーといえども、本調子になりにくい。しばらく、出入りする放送作家やディレクター、慣れた相手の上村などと会話を交わし、打ち合わせをしながら進行台本へ目を通したが、

 ――このスタジオに、ラジオ帝都の木場さんや、関東放送の若島さんを呼ぶのは、なんともなあ。

 民放ラジオ三局を代表するパーソナリティー、DJの二人を呼ぶコーナーを前に、生真面目な松脇アナウンサーはますます、調子の乱れるのを覚えた。出来るものならばすぐにでもスタジオを変えて本番に挑みたいものであるが、無情にも、時計の針は本番まであと三十分、というところへ迫りつつあった。

「――松脇さん、お茶どうぞ」

 まだうっすらとかすれの残る声で話しかけられ、松脇アナウンサーは顔を上げた。見ると、お盆を小脇に抱えた上村が、にこやかな顔でこちらをのぞいている。ガラス越しに副調を見ると、なにか別の用事でもできたのか、ディレクターや作家、山根プロデューサーの姿はなく、エアモニターから朝のニュース番組が流れているだけだった。

「ああ、ありがとうございます。――のど、具合はいかがですか」

「まあ、だいぶましになりました。すぐに吐いたから、内臓にも影響はないって、お医者さんも言ってましたし……」

 上村の言葉に、松脇アナウンサーはなんとも複雑な気持ちになった。だが、それと同時に、自分の代わりにのどを傷つけられた彼女のためにも、この放送はなんとしても成功させなければ……という気持ちが徐々に湧き出してくるのが彼にはわかった。

「――今回は、あなたの分まで頑張ります。いつも番組を支えてくださる、恩人ですから……」

 ネクタイの結び目を緩めると、松脇アナは進行台本へ鉛筆を走らせながら、運ばれてきた緑茶を口へ含んだ。

「ちょっと、照れますよぉ恩人だなんて……」

「いえいえ、何をおっしゃいます。あなたがいつも、甲斐甲斐しくお手伝いをしてくださるか――ら……」

 言いきらぬうちに、松脇アナはまぶたに指を押し当てられ、無理やりに閉じられるような急な眠気に襲われた。

 ――なにか仕込まれたのか?

 最初に肩の力が、次に両腕の力が抜け、とうとう足元までふらつきだすと、松脇アナはそのまま、一〇一スタジオの床へと倒れこんだ。

「……あらあら、ちょっと入れすぎたかしら……れくら…………かしい」

 しゃがみ込んで、自分の顔を楽しげに眺めるアシスタントの上村。驚きもせず、口元に微笑をたたえて自分を見つめる上村を、松脇アナは遠のく意識の中でとらえていたが、やがて、ある考えがふっと、おぼろげな意識の中に閃いた。

 ――まさか、この子が全部……?

 だが、それに対して何か反論や反撃が出来ぬまでに、松脇アナの体からは力が抜けていった。

 そして、ろうそくの明かりが消えるように、松脇アナウンサーの意識は深い闇の中へと溶け込んでしまったのだった。


 それからどのくらい経ったのだろう。聞き覚えのある声に呼ばれ、重いまぶたをそっと開けると、松脇アナウンサーはまばゆい、朝の光が部屋いっぱいに差し込んでいるのに気が付いた。

「――やあ、お目覚めでしたか」

「あなた……山藤探偵じゃありませんか」

 ここはどこです、と言いかけて、いま自分が着ているのがいつもの背広ではなく、青い入院着であることに気づくと、松脇アナはそばにあった時計をつかみ取った。

 ――あれからかなり経ったような気がする。まさか、放送に穴を……?

 ところが、焦る松脇の気持ちをよそに、デジタル時計は余裕たっぷり、午前六時半を指し示している。しかも、本番当日の、である。

「山藤探偵、これはいったい、どういうことです。私はたしか、放送直前に倒れたはずだったのですが……」

 個室なのをよいことに、人目を気にもせずに声を張る松脇アナウンサーへ、山藤悠一はつぐんでいた口をおもむろに開いた。

「まず、その件に関しては僕からお詫びしなければなりませんね。――実は、ひと芝居打たせていただいたんです」

「ひと芝居、といいますと……?」

「なに、簡単なことです。……仮眠室で寝ているところにこっそり忍び込んで、時計をいじらせていただいたのですよ。午後十一時のニュースが終わった後、仮眠室へ入って眠りについたあなたの時計を十二時ごろにプラス七時間にして、目覚ましはその一時間後に鳴るようにしておいたんです。だから、松脇さんが一〇一スタジオへ入ったのは――」

「本当は、午前一時半ごろ、だったというわけですか」

 とっさに頭の中でそろばんをはじいた松脇アナに、山藤悠一はええ、ご名答です、と返す。

「ついでに言うと、スタジオの電気工事というのは僕の仕込んだウソです。流れていた放送も、だいぶ前の放送同録をお借りして、あの窓のないスタジオでのみ流していたんです。ああでもしないと、上村のやつがシッポを出さないだろうと思ったのですが……睡眠薬を飲まされた時は、僕も焦りましたね」

「やはり、あれは睡眠薬でしたか。――我ながら、よく無事だったものです」

 薬の余波か、後頭部にうっすらとマヒのようなものが残っているのを感じながら、松脇アナは無事生還出来たことに安堵を覚えた。

「あれ、覚えてらっしゃらないんですか。インカムで様子をうかがってた僕らが上村をとっ捕まえてから、無理やりに吐かせたんですよ。のどに障らないかちょっと後悔したんですが、いかがですか」

「おや、そんなことが……」

 のどに手を当て、ひとしきり早口言葉をやってみせると、松脇アナはにこりと笑い、問題なさそうです、と、山藤悠一へ告げた。

「いちおう、放送へは出ても大丈夫らしいということでしたが、無理はなさらないでくださいね」

「ハハハ、それはありがたい。――ときに山藤探偵、ちょっとよろしいですか」

 松脇アナの表情が曇ったのに気付くと、山藤悠一はおいでなすったか、と言いたげな口元で、どうしましたか、と返す。

「――やっぱり、彼女が犯人だったのですね」

「……ええ」

「――いったい、何が動機だったのです」

「……困ったなあ、もうちょっと時期を改めて、と思っていたのですが」

 腕を組んだまま、山藤悠一は困った目で病床の松脇アナを眺めていたが、決心が付いたのか、真一文字に結んでいた唇をそっと開いた。

「ご記憶にありませんか。上村がアルバイトで入った直後、本番中のスタジオでお茶をこぼしてしまったことがあったのを……」

「言われてみれば、そんなこともあったような気がしますが、はっきりとは覚えていません……」

「――やっぱり、そうだと思いましたよ。いや、それで構わないのです。上村の動機は、ひどい勘違いでしたからね」

 勘違い、という言葉に、松脇アナウンサーは不思議そうにいったい、どういうことですか、と山藤悠一を問いただす。

「その時あなたは笑って、『別に、悪気があってやったわけではないでしょう。こういう失敗は誰にでもありますから、気にしないでください』と言ったそうですね。どうも、上村にはそれが嫌味にうつったようなのです」

「そんな、嫌味だなんて――」

「ええ、普通はそう思いますよ。ただ、その頃の上村は入りたてで、小さな失敗を山のように積み重ね、かなりやさぐれていました。そんな負の感情に、あなたの心遣いから出た一言が、なぜか火をつけてしまったのです。まったく、人の心というのは不思議なものです……」

 山藤悠一はそこまで言い終えると、立ち上がってブラインドの紐をひねり、室内の明りを半分ほどに落とした。

「そこから先のいきさつは、あなたもご存じのとおりです。自分が毒を盛られたふりをして、容疑者候補から外れ、折を見てあなたを襲う予定だった……。いや、手にはかけたが、未遂で終わった、というところでしょうか」

「……彼女は、どうなるのですか」

「殺人未遂ですからね。成人していますから、しばらくは塀の向こうでしょう」

 それきり、松脇アナが黙り込んでしまったので、ブラインド越しに外の様子をうかがっていた山藤悠一は、ちらりと病床のほうへ目をやった。

 シーツの上の松脇アナは目を閉じ、腕を組んで何かを考えていたが、やがて膝を打つと、目を見開いて山藤悠一の方を向いた。

「――ここから先は、あなたや警察の方の領域の様ですね。ひとまず、これ以上は何も考えずに、現いまは現実に立ち向かうことにしましょう」

「現実、といいますと?」

 山藤悠一の問いに、松脇アナはもちろんそれは、と前おき、こう返した。

「もちろん、私の専門である放送のことですよ。あともうしばらくしたら本番が始まります。十二時間たっぷりと、精いっぱいお届けします」

「――なるほど、そういうことでしたか。では、局までお送りしましょう」

 チェストから背広やシャツを出し、着替えを手伝ってから車へ松脇アナを乗せると、山藤悠一は法定速度ギリギリに、どうにか本番一時間前にラジオ東京の本社前に滑り込んだ。

「――じゃあ、お気をつけて」

 ギリシャの神殿を思わせるような階段をかけあがる後ろ姿に、山藤悠一が声をかけると、くるりと振り向いた松脇アナは、こんな返事をひとつし、警備員へ手を振ってから局舎の中へと消えていった。

「――では、このあとラジオの前でお会いしましょう。長い一日になりそうですからね……」

 ラジオ東京の看板アナウンサー、松脇正作の長い一日が始まろうとしているのを感じながら、山藤悠一は捕縛された上村や、ともに一〇一スタジオで格闘した猫目、沢渡の待つ丸の内署へ向けて、アクセルをぐいと踏み込むのであった。


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