第二章 手元の証明
「やあ、誰かと思えば山藤探偵じゃありませんか……今日はまた、何の御用です」
車から出たところで折よく、丸の内署の玄関先でソフト帽をかぶった犬井刑事に出くわすと、山藤悠一は今しがた、ラジオ東京の本社で説明された一切を打ち明け、協力を仰いだ。すると、
「なるほど、そういうことでしたか。――いやね、ぼちぼち、あなた方からそういう申し出があるんじゃないかと思って、必要と思われる資料は一切合切用意しておいたのですよ。山岸が奥へいるはずですから、行ってみましょう」
あっさりと承諾を得て、そのまま鑑識課の部屋へ入ると、先んじて部屋で待ち構えていた山岸刑事が、ラックに据え付けてある夕刊を読んでいるところだった。
「おや、お早いお着きで……」
事情を察して夕刊を畳むと、山岸刑事は近くにいた鑑識課員を呼び、山藤悠一へ説明をするよう命じた。だが、もたらされたのは肝心のビンからは被害者の指紋以外は見当たらず、せいぜい、毒の入手ルートから該当する人物をあたるよりほかにはないだろう、という心もとない返答だった。
「参ったなあ、それじゃあ、物的証拠から探っていく、というのはほぼ無理じゃないッスか……」
手帳へ書きつけていた猫目は、鑑識課員の言葉に顔をクシャクシャにして悔しがる。だが、山藤悠一は至って冷静に、現場を写した写真に目を通し、黙々とページをめくるばかりである。
「だいたい、現場の様子はわかりました。それで、被害者の方は今、どちらに……?」
「ああ、彼女ならもう、通院治療へ切り替えになって、自宅にいるはずですよ。この子なんですがね……」
犬井刑事が背広の内ポケットから、一枚の写真を山藤悠一の手へとのせる。見ると、そこには証明写真かなにかをそのまま複写したらしい、リクルート・スーツ姿の体育会系らしい、茶色いショートヘアの女性がじっとレンズを覗き込むような塩梅で写っていた。
「上村美子といって、溜池女子大の二年生だ。先輩の紹介で放送局のアシスタントのアルバイトをしていて、運悪く今度の事件に巻き込まれたんだと」
「――なるほど。で、お住まいはどちらです」
山藤悠一の問いに、犬井刑事は写真のウラ、とつぶやく。見れば、裏側には丁寧なボールペンの文字で氏名と住所がしたためてある。
「ありがとうございます。写真、少しお借りしますが、よろしいですか」
「なあに、写しはごまんとあるから、持ってっちゃってください。また何かあったら連絡くださいね、協力しますから……」
鑑識課員の入れた渋茶を吹き冷ましながら飲む、犬井・山岸刑事の油を売る姿を横目に見ながら、山藤悠一はありがとうございます、と礼を述べ、丸の内署を後にした。
「上村さん、大学の寮にいるんですね」
写真の裏の書付けを見た猫目が、ハンドルを握る山藤悠一に声をかける。クラウンの助手席におさまっている猫目は、ラジオ東京に周波数を合わせ、つつがなく、時間通りに「東京ダイヤル~」が流れていることを確認し、
「どうもそうらしい。田村町とはそれなりに距離があるから、通うのが大変だろうねえ」
「――溜池なら、赤坂支局の連中に任せときましょうや写真、送っときますか」
「そうしよう。あ、そうそう、ちょっと買い物をしていこうか。それを持って、赤坂へ顔を出そう」
「買うって、何を買うんすか」
モケットに身を沈めていた猫目が起き上がると、山藤悠一は鈍いなあ、と言って、
「喉に効く薬に決まってるだろ。粉薬だとムセやすいから、飲むやつがいいだろうなあ……」
「なんだあ、そういうことでしたか。さすが探偵長、気が利くなあ」
おだてる猫目に、これくらい当然だよ、と言いながら、山藤悠一はクラッチを切り、速度をゆるめながら、近くのドラックストアの前に車の舳先を向けるのであった。
赤坂支局に箱入りの栄養ドリンクと写真の複写を預けると、山藤悠一は銀座に戻り、探偵長室に備え付けられたラジオのダイヤルを一〇一〇kHzへと合わせた。
「――では、お別れに東京スカパラダイスオーケストラの演奏をお聞きいただきましょう。……それでは、本日の東京ダイヤル二〇〇一はこの辺で。みなさまのお相手はわたくし、松脇正作でした。ではまた明日」
無事に放送が済んだことを確かめると、山藤悠一と猫目大作は顔を見合わせ、安堵のため息をついた。腕時計を見ればちょうど秒針が真上を通過したばかり、五時半ジャストであった。
「――なんとか、無事に済んだらしいな」
「よかったァ。これで何か起こってたら、どうしようかと思いましたよ……」
何事もなく、「東京ダイヤル~」の放送が済んだことに二人が喜んでいると、卓上の黒電話がけたたましく鳴り響き、猫目は思わずひっ、と声を上げた。
「――はい、探偵長室。了解、つないで」
送話口を抑えながら、山藤悠一は猫目に、赤坂からの直通だ、と告げる。ほどなくして、交換台での接続作業が済み、赤坂支局との電話がつながった。
「――やあ、お疲れ様。で、どうだった? …………ははあ、やっぱりそうだったか。……じゃあさ、悪いんだけど、ちょこちょこ行ってみてくれないかなあ。ウン、同じものを持ってさ……じゃ、また何かあったら伝えて、よろしく……」
受話器を置くと、山藤悠一は背伸びをしてから、一発目じゃあアテにならないね、と猫目に何やら伝えた。
「継続して、調べてもらった方がよさそうですね。あとは……」
「あとは、さっき車の中でお前が言ってた件を探ってもらおう。三課なら、何かと融通が利くだろうしなあ、囲碁の相手を探すみたいに……」
日頃、猫目が社内の見回りと称して、三課で囲碁を差しているのを知っていた山藤悠一は、釘を刺しつつ、この手の捜査には欠かせない、調査三課の名前をあげる。
「ハハハ、よくご存じで……」
恥ずかしそうに頭を掻くと、猫目大作は手近にあった鞄を引き寄せ、
「まあ、あとは明日にしましょうや。交換室もそろそろ閉まるし……ねえ」
「やれやれ、逃げの一手が上手いからなあ、お前は。――帰ろっか」
身支度を済ませ、出勤簿へペンを走らせると、二人はそろって探偵社の玄関を出たのであった。
そこからの一週間、何事もないままに平穏な日々が過ぎた。ある程度のどの回復した上村もアルバイトへ復帰し、番組のほうも、来たる文化庁・芸術祭参加番組として都内各地の様子をラジオカーでレポートする「放送特別機動週間」へと突入し、ラジオ東京全体、そして都内キー局の番組全体が活気に満ち溢れていた。
しかし、そんな最中にあって、山藤悠一は気が気ではなかった。どんな隙をついて、犯人が松脇アナへ凶刃を向けるのか分かったものではない上に、容疑者らしい人物の目星がまるで立っていなかったのである。
「――これほど、潔白な身の上の人間ってのがいるもんなんですかねえ」
その日の午後、調査三課室の中にある、パーティションで仕切った応接区画で、関係者の身上調査報告書へ目を通していた山藤悠一と猫目大作に、調査三課の課長・沢渡はどことなく困ったような顔をして見せながらつぶやいた。
「――いることはいるだろうが、こうして目の前に見せられると、自分の浅はかさが明らかになるみたいで、なんともかゆいねえ。勤勉実直、ウソをついても顔に出てしまう生真面目さ……これは自他共に認るところ、かあ」
松脇アナウンサーに関する報告書の表紙を閉じると、猫目は軽く背を伸ばし、運ばれてきた番茶へ手を付けた。心なしか、疲れ切った表情の猫目に、山藤悠一は自分の手元に回されてきた報告書のページをめくり、無理もないな、と胸のうちでつぶやいた。
「声の調子からして、前から恨みを買いにくいタイプだろうなあ、とは思ってたんですよね。ただ、こうして目の当たりにしてしまうと、なんというか……」
「なんだ、沢ちゃん『東京ダイヤル』のリスナーだったのかい」
猫目の指摘に、沢渡は長い前髪の合間から、しまった、と言いたげな目を覗かせて、バツの悪そうな表情を顔いっぱいに浮かべた。
「そ、そりゃあもちろん、仕事をちゃんとしながら聞いてるんですけどね……。まあ、わりとヘビーリスナーって部類に入るんでしょうなあ」
恥ずかしそうに頬を掻くと、沢渡は緑色のブレザーの襟を正し、スラックスの足を組みなおしてから、話題をもう一冊の報告書へと移した。
「――で、ひとまず可能性の一つとして探りを入れたアナウンス部長の木山ですが、こちらはアリバイが多すぎます。閑職なのもあって、同行が探りやすいのは良かったのですが……」
木山というのは、松脇アナウンサーと「東京ダイヤル二〇〇一」の後任アナウンサーの座を奪い合った、ラジオ東京でも古参の部類に入るアナウンサーで、現在は一線を退いてアナウンス部の部長職を拝命しているのだが、嫉妬深い性格から、事件当初から一部で黒幕とささやかれていた、容疑者候補の一人である。
だが、探偵社の誇る調査三課の手によってその疑惑はことごとく崩され、あとには単純に、しぶとい、というよりは大人げない性格の、根はそこまで悪人ではない老境の紳士、という一個人の姿が明らかになっただけであった。
「――千代田支局のほうに話を通して、木山部長の周辺をもっと探らせますか」
「まあ、念には念を入れて損はないと思うんだが……僕はどうも、木山は犯人のような気がしないんだ」
「そりゃまたどうして?」
猫目の問いに、山藤悠一はのどを狙ったのがどうもね……とつぶやく。
「アナウンサーが看板番組の座を欲しがるのはまあ当然なわけだが、はたして商売道具であるのどへ障るようなことをするかなあ……って思ってね」
「言われてみりゃあ、そんな気がしますねえ」
納得がいくのか、沢渡と猫目はしきりに頷く。
「けど、そいじゃあ誰が犯人だってンですか。ほかに該当しそうなのは……」
と、目玉をぎょろりと回しながら唸っていた猫目が、ハタと手を打って、
「まさか、上村が犯人だってんじゃないでしょうね」
「そうですよ、だいたい、松脇アナを狙う理由があるんですか」
二人に詰め寄られて、山藤悠一は落ち着け、とたしなめてから、
「実は、証拠になりそうな写真があるんだよ。ぼちぼち、報告が来そうなもんだが……」
山藤悠一は腕をまくると、文字盤のてっぺんを秒針が通り過ぎるのを確認してから、課長席の上に置かれた黒電話のところへ行き、指先でしきりに机をつついた。そのうちに、けたたましいベルの音が部屋いっぱいにとどろいた。
「ハイ、調査三課……うん、うん、わかった、つないで…………やあ、お疲れ様。で、どうだった? ――はん、はん、はん……やっぱりそうだったか。こんだけやってそうなってるなら、ホンボシとみて間違いないだろう。いや、ありがとう。……ああ、明日からは届けるだけでいいよ。じゃ、よろしく……」
受話器を置くと、山藤悠一は二人の元へ戻り、やっぱり上村が犯人で間違いなさそうだよ、と事も無げに言ってのけた。
「探偵長ォ、一体全体、どういうことなんですか。僕にゃさっぱりわかりませんよ」
「――猫目、お前にも黙っていて悪かった。実は、丸の内署で見せてもらった現場写真がどうしても気にかかってね。……これは、ちょっと前に山岸刑事に頼んで複写をもらったものなんだがね」
山藤悠一がローテーブルの上に置いたのは、上村美子ののどを襲った水銀入りの栄養ドリンクの箱であった。見れば、ビンの並んだ箱の端に、ひっそりと空白ができている。どうやら、そこに件の水銀入りが収まっていた様子だった。
「どうもこの写真が気にかかってねえ。よく考えてごらん、ふつう、こういう箱入りの飲み物を出すときって、真ん中の取りやすいほうから抜かないか?」
山藤悠一の指摘に、二人は言われてみれば……と、写真の様子を疑るような目で見つめる。
「ただ、あくまでもそれは一般論だ。単純に、本人のクセなのかもしれない……とも思って、ちょっと赤坂の連中に頼んで、あることを調べてもらったんだ」
「――もしかして、どこのビンを抜くか調べさせたんですか」
驚く猫目に、山藤悠一は満面の笑みでご名答、と返す。
「あまり本数がない、しかも毎食後に飲むやつをわざと支度して、赤坂支局に頼んで毎日持たせたんだ。で、開封直後の様子を見てもらったら……」
「ぜんぶ真ん中から抜いてた、てなとこですか」
「そういうこと。これで、クセじゃないってことは証明されたわけだ。彼女は被害者を装って、わざと毒入りのビンを抜いた――。真ん中に仕込んだら、誰かが先に飲んでしまうかもしれないからなあ、考えたもんだよ」
「なあるほどねえ。さすが探偵長、そういうところは抜かりないですね」
沢渡の皮肉っぽい笑みに、伊達に探偵やってないよ、と山藤悠一は自信たっぷりに言う。
「さて、そうなってくると、今度は動機を探らないといけないなあ。――沢渡くん、きみんとこの数人と、仁科くんのところのイキのいいのを借りたいんだけどいいかな?」
山藤悠一の頼みに、沢渡はええ、どうぞどうぞ、と簡単に返事をしてから、
「同級生のほうもあたりましょうか? ――ああ、あれは赤坂の担当ですかな」
「いや、君たちに頼もうかな。赤坂支局には、ビンの位置探しでずいぶんと骨を折らせたからね。捕縛直前まで、フリーでいてもらおうかと思うんだ」
「わかりました。――おおい、みんなちょっと注目! おシゴトだよぉ……」
パーティションから飛び出すと、沢渡は探偵員をかき集め、今しがた取り決めた事柄をさっと伝え出した。その様子を耳で伺いながら、山藤悠一と猫目大作は、いよいよクライマックスだな……と、互いの顔を見やって胸のうちでそうつぶやくのであった。