起①
スマートフォンの画面を覗く、最終下校時刻の三十分前だった。むき出しになった部室棟のコンクリート壁に背中を預けて待っていると、昼間に吸い上げた熱が伝わってくる。そうしているうちに、空の青が夕方の橙色を帯び始める。僕がひとつ伸びをしたところで、部室棟の影から、見知った姿が顔を出した。
「何してんの?」
心臓が飛び跳ねた。水谷果歩だった。知り合いに話しかけられてしまえば何も言わない訳にはいかない。どんな言い訳だってできるはずだけれど、とっさのことに、僕は馬鹿正直に答えてしまった。
「鳥羽を待ってるんだ」
「鳥羽ちゃんと仲良かったっけ?」
「そういうわけじゃないけど……」
彼女はきょとんと眼を丸くした
「だけど面識はあるよ」
「そうなんだ。でも鳥羽ちゃん」
何か言いかけたようだけれど、
「水谷ー」
誰かが彼女を名前を呼んだ。彼女は短く応じて踵を返す。
「私、そういうの凄い好きだけど望みは薄いと思うよ。だけど、頑張って」
彼女は去り際に僕の肩を思い切りどついた。
「応援はしてる」
僕は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。なんだか顔が熱い。湿り気と夏の熱気をはらんだ六月の風は、僕の頬を十分に冷却するにはちょっと条件設定が悪すぎる。つまるところ、原因は、ちょっとずつ夏の暑さが気配を増す六月の気温のせい……だけじゃないことは、僕自身だって嫌というほどわかっていた。こんなところで冷却則の話なんて持ち出したところで失笑されるだけだ。慣れないことはするものじゃないと、やってしまった後にいつも思う。
それに、水谷は誤解している。僕は鳥羽があまり得意じゃない。いつも前向きな態度とか、話をするときにあの大きな瞳で人の顔をまっすぐ見つめるところとか、いつも仲のよさそうな女子生徒に取り囲まれているところとか、バドミントンがうまいらしいこととか、後、そうだな……妙に動体視力がいいところとか。小学校からずっと一緒だった。けれど、直接話をすることはあまりなかった。お互いのことを認識はしているけれど、それだけだった。彼女は僕のことをきっと良く知らない。僕は彼女のことをある程度知っている。いや、僕が彼女の権威であるというのとはかなり違う。単に、僕よりも彼女のほうがずっと目立つ。だから認知されている、という、それだけの話だ。
壁からちょっと顔を出して部室棟の表側を覗く。坊主頭の野球部員たちが、白球が山と入った籠をクラブ棟の中に運び入れるところだった。一階は男子生徒の部室になっているのだ。女子生徒の部室は二階だ。それと、全然使わない備品のしまってある倉庫。
からん。
と、頭上から、バドミントンのラケットがぶつかる軽い音が聞こえた。僕はちょっとだけ視線をあげた。
部室から、女子生徒かぞろぞろと出てくるところだった。わいわい騒ぎながら階下へ降りてくる。ばたばたばたと、複数の足音が階段を鳴らす。部室棟の前を突っ切って、こちらに歩いてくる女子生徒の集団。彼らのことが僕は凄く苦手だ。
僕の傍らを、部活を終えた彼女らの姿が通り過ぎる。三人組、二人組、四人組……別々のコロニーを作って歩いていく彼女達の後姿を眺める。鳥羽の姿はその中にはなかった、けれど。ぱらぱらと流れていく人並みを眺めているうちに、ようやく見つけた。四人組の集団の中で、一歩だけ離れて端っこを歩いている。鳥羽は、隣に並んだ友人らしい生徒が口を開くのに応じて、楽しそうに笑った。と、ふいに、その顔がこちらを向く。目が合い、その時稲妻みたいに流れた電流に麻痺して僕は動けなくなった。
このまま行かせてしまおうかという考えが、一瞬だけ脳裏をよぎる。けれど僕はすぐにそいつを振り払った。鳥羽のことは得意じゃなくても、嫌いなわけでもいなくなって欲しいわけでもないのだ。
道いっぱいに広がって、自分たちに敵なんていないとでも言いたげな奔放な態度を、僕はちょっとだけ恐れながらも、その後を追いかけた。
手を伸ばす。鳥羽の鞄を叩いたけれど気づいてくれない。ずんずん歩いていく彼女の後を追いかけながら、肩にかかったベルトの部分をもう一度強く叩いてみる。
「鳥羽っ」
「え?」
目の前の背中が急に止まった。思わず後頭部に鼻先をぶつけそうになる。鳥羽は、半身振り返ってきょとんとした表情を僕に向けた。
「え、何、どうかした?」
友人の一人が声をあげた。
「鳥羽ちゃん、呼ばれてる」
もう一人が鳥羽に向かって笑いかける。鳥羽は軽やかにくるりと振り返り、まっすぐ僕に向き直った。彼女は人と話すときにはいつもそうするのだ。それこそ、まるで試合の前に、相手とあいさつをするみたいに。
「なんだか今日はよく会うね」
鳥羽はのんびりした調子でそう呟いた。他の三人は、僕のことを、一人は不審げに、一人は興味ありげに、一人は困惑気味に眺めている。僕は、なんでもない、とすべての前提をどこかに投げ捨てて、その場から逃げ出してしまいたい気持ちで胸がいっぱいだった。
「悪い、突然」
悪いと思っているなら声なんてかけなければいいのに、と自分でさえ思う。鳥羽は、うんともいいよとも言わない。僕の言葉を黙ってじっと待っている。
「図書館はもう鍵かかってると思うよ」
「……図書返却はもういいんだ。それより」
僕の胸の内には後悔が押し寄せていた。お昼休みの時に、陸田から鳥羽の連絡先を聞いておけばよかった。そうすれば、メールなりショットメッセージサービスなりを使えたのに。こんな気まずい思いをするよりも、昼休みに陸田に一通りからかわれたほうがよっぽどマシだった。それか、昇降口の靴の中に手紙を一枚仕込んでおけば、誰にも気づかれずに鳥羽だけに伝えることができたかもしれないのに。それとも人づてに伝言してもらえば……僕が物事を真剣に考え始めるのは、いつだって何かを始める直前なのだ。段取りも要領も悪すぎる。これじゃあ、どれだけ先のことが見通せたって意味がない。神様は気まぐれに、猫に小判をやったり、豚に真珠を飾ってやったり、僕に未来予知の特殊能力を授けたりするのだ。
「鳥羽、もし、もし迷惑でなければ……」
頬が熱い。喉はからからだ。まっすぐ見つめてくる鳥羽から目をそらして、どこか遠くへ走り去ってしまいたい。僕ら五人の間に落ちた沈黙。間が伸びれば伸びるほど、自分の中で固めた覚悟が緩んでいってしまう。
「僕と、一緒に帰ってくれないか?」
「いいよ」
打てば響くように答えが返ってくる。僕は目を丸くしていたと思う。鳥羽は表情を変えず、相変わらず僕をまっすぐ見つめたままだ。
沈黙。後に、耐えきれなくなった周りのバドミントン部員たちが、大げさに悲鳴を上げた。
「超展開だ……」
「鳥羽ちゃん」
そのうちの一人が、鳥羽の肩を思い切り叩いた。
「後からゆっくり歩いてきなよ」
そいつは、残り二人の腕を掴んで無理やり引っ張っていった。細い眉毛に細い目、ちょっと茶色っぽい髪色が悪っぽいイメージの彼女。その行動一つで、彼女に抱いていたイメージが一変した。僕は、人のことを何もわかっていないと強く感じた。
「急で悪いな」
「それなら呼び止めなくてよかったじゃん」
鳥羽は早口に言った。目じりが下がり、口元も緩む。怒りをごまかしているようにも、単に面白がっているようにも見えた。
「そういうわけにはいかなかったんだ」
鳥羽はふいに目をそらした。
「早く行こうよ」
僕らは校門を出て、地下鉄の駅まで歩いた。校門から続くまっすぐな一本道。遠くには、バドミントン部三人組の背中が見えた。彼女らは小走りに地下鉄の階段を駆け下りて行った。
「噂で聞いたよ。鳥羽は相変わらず驚異的な動体視力をしてるって」
「何それ」
「それで県大会出場するって聞いたんだ」
鳥羽を口元をふっと緩めた。
「動体視力で出るって意味わかんないじゃん、練習の成果だって」
「悪い、そういうつもりじゃなかったんだ」
鳥羽を前にしてからなんだか僕は謝ってばかりいる。
「今日はわざわざ祝辞を述べに来てくれたの?」
祝辞。鳥羽は冗談でそう言ったのだと思う。僕はそれに乗っかってしまおうと思った。
「ああ、僕を負かした相手が、大会に勝って先に進むんだ。何も言わないわけにはいかないだろ」
鳥羽は目を丸くした。
「え? 本当に」
「本当に」
「嘘でしょ?」
「嘘じゃない」
ふっ、と鳥羽は小さく息を吐きだした。
「なんであんな深刻な顔するかなー? なんか身構えちゃったじゃん」
毎日顔を合わせていたみたいに、とんとんと言葉が続いていくのが楽しい。昔馴染みだからか、それとも、やっぱり鳥羽の屈託のない性格に救われているのか。多分後者かなと僕は思っていた。
鳥羽と帰り道で話をするのは何年ぶりだろう。小学校の時に出会って、中学校は同じ学区内の繰り上がりで、受験が終わった後は高校でもまた一緒になった。けれど何の偶然か、小学一年生の時以来、一度もクラスが一緒にならなかったのだ。
悪い、と、また口に出しそうになるのは悪い癖だ。僕はぐっと口をつぐんで、それからもう一度開いた。
「安心したよ、僕も」
僕はやっと、鳥羽を呼び止めた適切な言い訳を思いつくことができたのだ。
「じゃんけん百人切りは達成できてないみたいだね。もしかして、こっちのクラスまで遠征に来るかなって、ちょっと楽しみにしてたのに」
「なんだ? それ」
「え? ずっと昔言ってたじゃん。友達百人作って全員とじゃんけんするんだって」
「……そうだっけ?」
「あの時の君は輝いていた」
鳥羽は重々しい調子で言った。
「ああ、今の僕からも、あの頃の僕は眩しく見えるよ」
「否定してよ。なんか嫌じゃんそういうこと言われると」
僕はつい笑ってしまった。
「十年前に鳥羽に大敗したのは今でも覚えてるよ、今朝だって夢に出てきてくらいだ」
「十……」
鳥羽は計算にちょっと戸惑って、
「小学一年生だよね?」
「……そのくらいの時期」
実は僕もちょっと頭中計算には自信がない。
「十年前の鳥羽も、驚異的な動体視力と反射神経だったよ。僕にはわかってた。きっと鳥羽は最高のバドミントンプレイヤーになるって」
くだらない話に無理やり終止符を打つように、駅のホームに電車がなだれ込んでくる。地下鉄の入り口まで、激しい振動が伝わってきたのだ。
「電車来た。急ごうぜ」
「え?」
きょとんとする鳥羽の腕を軽く引いて、すぐに離した。鳥羽の足音が後をついてくるのを確かめながら、僕は階段を駆け下りた。改札を通り抜け、閉まる直前の電車のドアに駆け込む。駅員さんが明らかに嫌そうな顔をしているのに、心の中で両手を合わせるのを僕は忘れなかった。
扉がゆっくりと閉まる。僕はほっと一息ついた。ここまではうまくいっている。僕のするべきこと。何を間違えても、何を忘れても、それだけは必ず頭の中にとどめておかなければならない。
「あのさ、なんで走って追いかけてきちゃったの?」
イラついたような声。僕は顔を上げた。目の前には、バドミントン部三人娘が、一様に呆れた表情を僕に向けていた。しまった。なぜ僕は慌てて走ってきてしまったのか、彼女たちと同じ電車にならないように、わざとゆっくり歩いてきたっていうのに。
僕は恐る恐る後ろを振り向いた。鳥羽は僕に背中を向けた。動き出した窓の外は地下鉄の暗闇。ガラスに映った鳥羽は気まずい表情をしていた。僕に気が付いた鏡の中の鳥羽は、もっと困った表情を浮かべて、逃げるように僕から目をそらした。




